奪われた命に寄り添って 

―「原爆の絵」から浮かび上がる想いー

 

直野章子 


一枚の絵

 橋の上に横たわる、すでに息絶えた母親に、空き缶に水を汲んで飲ませようとしている三歳ぐらいの女の子を描いた絵がある。一九七四・七五年にNHK広島放送局が、被爆直後の惨状を絵で残そうと呼びかけて二千二百枚余り集まった「市民が描いた原爆の絵」の一枚である。広島に原爆が投下された翌日、爆心地から千七百メートルほど離れた比治山橋でこの光景を見かけた絵の作者は、女の子に走り寄り「おかあちゃんは死んだのよ」と抱きよせて共に泣いたそうだ。この一枚の絵が表現しているのは、原爆がもたらした「人間的悲惨」だけではない。物理的には不可能であっても、死んだ母親をなんとか生き返らせようとする幼い女の子、そしてその場面を絵で残すことによって奪われた命と母子の絆を蘇らせようとする作者による、原爆に対する静かな「闘い」をも表している。それは、声を大にして核兵器廃絶を訴えるという人目を引くような「反核運動」ではないかもしれない。しかし多くの絵は、原爆によって奪い去られた愛しい人たちを生き返らせよう、家族や地域といった社会的な絆を取り戻そうとすることによって、原爆と対峙している。

はじまりと広がり

 七四年五月、NHK広島放送局を当時七十七歳だった小林岩吉さんが被爆直後の萬代橋の様子を描いた絵を携えて訪ねた。その絵をきっかけに、NHKは「市民の手で原爆の絵を残そう」と呼びかけ、「広島市とその周辺での被爆後の状況をあらわす絵」の募集が始まった。この呼びかけに対し、同年七月までに約九百枚の絵が郵送あるいは直接被爆者の手により届けられた。翌七五年四月NHKが再び絵を募集し、前年と合計で約七百五十人の被爆者が描いた計二千二百余枚の絵が集まった。これらの絵のうち三百枚ほどが写真とともに同年夏、広島をはじめ札幌・東京などで開催された「ヒロシマ・原爆の記録展」で展示され、前年八月に原爆資料館において開催された展示会とあわせて延べ約二十二万人の来場者を数えるほど大きな反響を呼んだ。すべての絵は七八年広島平和文化センターに寄贈され、同センターで保管されている。

 これら原爆の絵の一部は原爆資料館の地下で常時展示され、国内のみならず海外での原爆展においても展示されることが多い。展示会の感想文を読むと、原爆の絵が展示物のなかでも特に見る人たちの心に強く響いていることがわかる。たんに被爆の悲惨さだけでなく、原爆で亡くなった死者たちに寄り添ってきた被爆者たちの生きざまが絵を通して伝わってくるからだろう。

描ききれない体験

 「原爆の絵」の作者たちの多くは、学校を出てから絵を描いたことなどなかったそうだ。まったくの素人が、画用紙、広告やカレンダーの裏などにクレヨン、鉛筆、子供が使った残りの絵の具などを使って脳裏に焼きついて離れない被爆直後の光景を描いた。火が迫るなか倒壊した校舎の下敷きになって逃げることができない児童、全身に火傷をおいながら郊外に逃げる被災者たち、自転車に乗ったまま死んでいる男性、石油をかけられ火葬される死体の山、焼けた家のあとに横たわる黒こげになった親の遺体。すべての絵をそこに描かれている状況や場面ごとに分類してみると、その七割以上に死体や負傷者の姿が描かれていることがわかる。「原爆の絵」は核兵器がもたらした惨状と死とに満たされているのだ。それを素人の稚拙な筆で描いているが、その絵画的表現はあまりにもシンプルで、かえって胸に迫ってくる。

 被爆直後の様子を視覚的に伝えてくれる「原爆の絵」は、原爆被害の実態を証言する貴重な資料でもある。原爆が投下された直後の広島を記録した写真などの視覚的資料はきわめて少なく、その大半を占める米軍フィルムは、科学的・軍事的な視線で広島の惨状をとらえたものだ。それに対し被爆者が描いた「原爆の絵」は、被爆体験を「人間的悲惨」として描いており、米軍フィルムとは大きく異なる。

 絵としての貴重な証言を残しながらも、作者たちは描ききれないもどかしさを吐露する。「もう、こんなもんじゃないんですよ。」「百年描いても描きつくされません。」展示会に訪れた被爆者たちも「あの臭いがない」と、体験と絵とのずれを指摘する。

 既存の表現方法では「前代未聞の出来事」を描ききることはできない。原爆が街に投下された「アトノセカイ」は、その真っ只中にいた者にとってさえ「信じられないこと」だったのだから。しかし、それを体験の無い者に伝えるためには、現在する「言語」、つまり共有されている意味体系に拠るしかない。だから体験と表象との間に埋めようのない裂け目が表出し、証言者たちは「こんなものではなかった」と描ききれない歯がゆさを感じる。

 被爆体験を伝達しようとするときにぶつかる壁は「トラウマ的な体験」を表象するにあたって共通するものなのかもしれない。トラウマ研究者のキャシー・カルースによると、トラウマ的な体験は「私たちの理解の範囲を超えており、理解するという行為そのものを拒否するような力をもっている。」しかし、表象することによって、トラウマ体験がもつその力はかき消されてしまいかねないとカルースは指摘する。出来事が「表象」にすりかえられてしまい、既存の意味体系に組み込まれ、飼いならされてしまうというのだ。それに抗するかのように、体験者たちは「表象」と出来事との間に横たわる裂け目に言及し続けるのだろう。

見る側の揺らぎ

 絵では表現できない部分を補おうとして、多くの「原爆の絵」には文章が添えられている。「川の水際は丁度小鰯の箱をひっくりかえしたように中学生や女学生が([中略) ほとんど裸で死んでいました。」「ゴム風船のようにパンパンにふくれていた中学生たち」「まるでマネキン人形を積み重ねたように(死体を焼いている)。」「(川を見ると)ちょうど一面にいりこを干したように人、人の屍であった。」といったように。しかし、これらの文章は必ずしも被爆の惨状を理解する手助けとはならない。

 原爆が作り出した「前代未聞の惨状」を表象するため、「小鰯」「ゴム風船」「マネキン」「いりこ」など日常生活に密着した言葉が直喩として使われているが、これらは普通「死体」を示すものではない。ましてやこの上ない悲惨を表すには、あまりにも陳腐な記号のように思われる。しかし、言及されている出来事の「非日常性」とそれを指し示す記号が意味する「日常性」とのギャップが、私たちの想像力に働きかける。原爆が落ちたあとの世界では、既存の意味体系を支える「指示記号 (signifier)」と「意味 (signified)」との関係が崩れてしまったのかもしれないと。

 「日常」と「非日常」との混在、それまで存在していた意味体系の崩壊が、まさに「パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ」だったといえるのかもしれない。その中にいた者たちは「アトノセカイ」を既存の言語に翻訳して表象するが、訳しきれない残余もそこには表出している。それを視覚的に感じさせてくれる「原爆の絵」は、私たちの理解の枠組みを揺るがし、カルースが懸念しているような「表象」と「出来事」とのすりかえを拒否する力を持っている。被爆体験とは、私たちが拠っている意味体系の外側にあるのかもしれない。だから、それは簡単に理解できる事柄ではない。それがいかに想像を絶する出来事だったのかを、ただ想像してみることしかできないのかもしれない。絵を見つめていると、そう思えてくる。

絵から浮かび上がる想い

 「原爆の絵」は、作者たちの悲痛な叫びとともに生み出された。三十年経ってもまだ生々しい感覚を伴って蘇ってくるあの日の惨状、忘れてしまいたいあの日の記憶。そして、かけがえのない人を喪った哀しみ。身を切られるような思いでそれらを表現してみても「こんなもんじゃなかった」と描ききれない歯がゆさを感じるしかない。何枚も描こうとしてはやめ、ようやく一枚描きあげた人も少なくない。私が話を聞いた作者たちは「あの日」から六十年近く経った今でも口をそろえて言う。「思い出したくない。」「できることなら忘れてしまいたい。」思い出そうとしなくても、何度もあの日の記憶に襲われてきたのだろうから。無数に横たわる死体を「いわしを並べたよう」と表現した人は、並んだいわしを見るたびに目撃した光景が脳裏をよぎったのではないだろうか。絵で表現することによって、やっとできかけた瘡蓋を剥がすような痛みを感じたのではないだろうか。それでも数多くの人たちが筆を取ったのだ。

 絵に添えられている文章には、「合掌」「合掌念仏」など死者を慰める言葉が多く見られる。そして、あの人は家族とめぐりあうことができたのだろうか、今はどうしているのだろうかなど、見知らぬ死者や負傷者たちに対する思いやりが綴られている。例えば、救護所で見た中学生ぐらいの男の子を描いた女性がいる。その男の子は別の部屋に一人ぽつんと横たわっており、火傷をおった全身から蛆が湧いていたそうだ。翌朝そこに男の子の姿はなかった。

 「親の来るのを待ったであろうに又親も児を想っていたであろうに。混乱の中親と子の生死、氏名が一つに結ばれたかと…。」

 作者は、男の子がこの世に生きていたということを残したかったのだと語っていた。絵だけを見ていると、原爆によって傷つけられ殺された「身体」が描かれているかのように見受けられる。しかし、作者が込めた想いによって、「身体」が唯一無二の「生」を帯びた個人として、家族や地域といった共同体の一員として浮かび上がってくる。

 この作者のように、多くの人が筆をとったのは「人としての死」さえも迎えることのできなかった死者たちの「生」を刻みたかったからだろう。だからこそ、描いた死者に対する思いやりの言葉を絵に織り込んだ人たち、むごい死を迎えた死者たちに血の色を塗らなかった人、負傷者たちをリアルに描く術を知りながら忍びなくて漫画のようにしか描けなかった人、収容所で横たわる負傷者たちに絵の中で毛布をかけてあげた人がいる。

遺族の絵

 描かれた人に対する深い情は、遺族が描いた絵からより強烈に伝わってくる。原民喜の次兄である原守夫さんも四男文彦くんの姿を描いた絵を届けた。目を閉じて大の字に横たわっている文彦くんは、愛らしい顔をして眠っているかのように見える。絵に添えられた文章には「昭和二十年八月八日午后四時頃 電車白島線の泉邸附近の石材店作業所広場に四男原文彦(済美国民学校一年生)の死体を発見」とだけしかない。文彦くんがどのような状態で横たわっていたのかを、私は『夏の花』を読み返して初めて知った。

「上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れものがあり、そこから液体が流れている。真黒くなった顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでいた。」

たしかに、絵の中の文彦くんは上半身裸で投げ出した両手を握り締めている。しかし、胸に傷があったことや顔が真っ黒くなっていたこと、両手の爪が喰いこんでいたことは描写されていない。幼い息子と「涙も乾きはてた遭遇」をした守夫さんの心中を知ることはできないが、原爆によって変わり果ててしまった姿ではなく、愛らしい姿のまま文彦くんを残してあげたかったのではないだろうか。

 子を見送らなければならなかった親の心情が綴られた一枚の絵がある。三歳になる娘を自分の手で焼いている場面だ。

 「八月七日夕 長女尚子(三才)を自分で焼く。泣けて泣けて涙が止らない「私も行く。先に行って居て呉れ」と手を合す。未だ次男克巳(九才)も不明だ。あの子はどこか逃げて居て呉れと祈る。だんだん焼けて体の中の油が流れ出る、大変な量だ。元気な子を焼くのだ。可哀想だ、見て居られない。気が狂いそうだ。これが現世とは思へない。地獄だ…」

 作者が描いた娘の尚子ちゃんは、積み上げられている薪の上にまるで生きているかのように横たわっている。しかし、身体は炎に包まれている。その横に作者と思われる男性が腰掛けて涙を流している。そして、絵の左端には小さく次のように書かれている。

 「あれから三十年 死んだ二人の子にすまんすまんと生きてきました。親の責任だ赦してくれ、小供達、約束を守らず。(勇気がなかった)」

 絵を見る私たちに対する語りが、途中で尚子ちゃんと克己くんに向けた語りに変わっている。ここに言及されている「約束」が何であったのか、私たちが詮索すべきではないのかもしれない。作者は自分の子供たちに話しかけているのだから。

 

聴き届けたい

 被爆の体験を伝えようとすることは私たちには想像もできない苦痛を伴うことなのだろう。絵を描きながら「あの日」の惨状を思い出し、「髪の毛が逆立つような」思いをした作者もいる。時の流れを否定するかのように何度も何度も襲ってくる記憶は、被爆者の「証言」に耳を傾ける者にも伝染することがある。この「トラウマの伝染」はけっして心地よいものではない。自らの内側に生じてくる揺らぎを解消するために、私たちの「理解」を超えた領域にまで言及している証言を、「ヒロシマの心」(核兵器廃絶の訴え、世界平和の尊さ)といったわかりやすい物語に回収しようとする。こうした「聞き手の暴力」が、「遭うたもんにしかわからん」と言わせてしまっているのかもしれない。

 被爆者が描いた絵や証言を前にした私たちは、それを「ヒロシマの心」として片付けたり、「かわいそう」「今が平和でよかった」というように、単なる「見物者」や「観客」として距離を置いたまま眺めているだけなのかもしれない。そうではなく、原爆によって奪われた命を取り戻そうと静かな闘いを続ける作者たちに寄り添うようにして、その想いを聴き届けるよう努めるべきだろう。既存の理解の枠組みのなかに押し込み「飼いならそう」とするのではなく、言葉にならない記憶や想いにも精一杯耳を傾けながら。

 絵が描かれてから三十年近く経った今、話を聞くことができる絵の作者たちは百七十人ほどいる。作者たちからの聴きとりを進めるために、広島の中・高校生たちや若い市民たちが協力してくれることになった。被爆体験を持たない私たちが、被爆者たちの語りや想いをどのように聴き、受けとめ、それを自分たちの言葉でどうやって伝えていくべきか。その表現方法も含めて共に模索する仲間ができたことをうれしく思う。


広島花幻忌の会『雲雀』第4号、2004年、9-14頁。