戦争と女性作家

―大田洋子を中心として―

水島裕雅


1 はじめに

 今年(2005年)は日本の敗戦後60年目に当たる。筆者の住んでいる広島も被爆60年の節目に当たるので、さまざまな催しが予定されている。その一方で、この原稿を書いている間にも、アメリカ政府が新型核兵器(地中貫通核)の開発研究費850万ドルを06会計年度の予算案に計上(2月7日)したという記事と、北朝鮮の核兵器製造・保有宣言(2月10日)という記事が相前後して新聞紙上に見られた。核戦争の危機は依然として存在し、また原子爆弾とは呼ばれないまでも、劣化ウラン弾など事実上の核兵器は湾岸戦争以来公然と大量に使われ、放射能による被害は後を絶つことがない。

 無論、こうした原爆などの核兵器の製造や使用への反対の声は日本では続いている。また、戦争そのものに対する抗議の声もさまざまな形で表明されている。映画、演劇、ドラマ、音楽、美術、インターネットなどは新しい形式として現代の人々に訴えるものがある。昨年(2004年)、井上ひさしの戯曲『父と暮らせば』が映画化されてヒットしたことは記憶に新しいものであろう。また、小説、詩、短歌、児童文学などの伝統的な文学形式も健在である。デモや人文字、灯籠流しなど、人の動作によって目に見える形式を求める運動も続いている。

 それらのうちで、マンガというメディアは、あまりこの分野ではヒット作品がなかったが、昨年10月にこうの史代のマンガ『夕凪の街 桜の国』(双葉社)が出版され、文化庁メディア芸術祭のマンガ部門の大賞を受賞し、新聞や雑誌でも取り上げられ、賞賛された。原爆をテーマにしたマンガは中沢啓治の『はだしのゲン』以来のヒット作品であろう。私はこの本の題名に惹かれて注文して購入し、読んでみた。このタイトルは大田洋子の『夕凪の街と人と』(1955年)ならびに『桜の国』(1940年)を連想させるので、これらの大田洋子の戦前と戦後の作品をどのようにつないでいるのかに、まず関心があったのである。

 桜の花が美しく咲いた川岸を、裸足の娘がバッグと靴を手に持ち、夕焼け空を見上げながら歩いている表紙は印象的で美しい。土手には若草が生え、川の向こうにはバラックが建ち並んでいる。裏表紙には桜の影に原爆ドームが見える。この表紙が物語の構成を暗示しているようである。

 「夕凪の街」は、被爆した娘が戦後10年間を母とともに相生橋の土手の「原爆スラム」と呼ばれたスラム街の小屋に住み、健気に生き抜こうとして力つきる話であるが、大田洋子の『夕凪の街と人と』とは重なる部分は少ない。大田洋子の作品は中扉に「一九五三年の実態」と副題が記してあるように、1953年の8月末から実際に基町住宅と呼ばれた戦災者住宅や相生橋以北の原爆スラムを取材して書いたルポルタージュ的な小説である。作者自身も被爆者なので、ところどころに作者自身と思われる女性主人公小田篤子の不安の気持ちや、アメリカあるいは広島市への抗議や怒りの声が、抑制した調子を取りつつもほとばしり出ている。一方、こうの史代の「夕凪の街」はもっと静かな抗議であり、あるいは皮肉である。女性主人公の平野皆実は被爆後10年して原爆症のために死ぬが、そのとき彼女は「嬉しい?十年経ったけど原爆を落とした人はわたしを見て「やった!またひとりを殺せた」とちゃんと思うてくれとる?」と心の中でつぶやくばかりである。

 「夕凪の街」は巻末の参考資料に「夕凪の街と人と」「屍の街」が三一書房の『大田洋子集』から挙げられているように、大田洋子の作品を参考にしたことが表明されているが、「桜の国」の方は大田洋子の『桜の国』とはまったく別の物語である。

 「桜の国」は、「夕凪の街」の女性主人公の弟石川旭と、その娘七波と息子凪生の物語である。旭は水戸の伯母の養子になっていたため被爆しなかったが、姉の皆実の死後広島の大学に入り、母の小屋に住む。そこで近所の娘太田京花と会い、のちに結婚することになるが、京花は被爆者であって、七波が小学生のときに突然死ぬ。医者になった凪生には好きな娘利根東子がいるが、被爆二世であるため東子の両親に交際を反対されている。七波の父の旭は姉の皆実の五十回忌に皆実の知り合いに会って昔話を聞かせてもらおうと広島に出かける。その後を追って七波と東子が広島に行き、さまざまな体験をする。このようにこうの史代の「桜の国」は、現在の時点での原爆物語であり、大田洋子の『桜の国』とはまるで違う物語である。それゆえにか、大田洋子の『桜の国』は参考資料にも挙がっていない。

 もちろん先行作品を読むか読まないかは作家の自由かもしれないが、これほど大田洋子の作品に似た、あるいはそのままのタイトルを使う場合はやはり参考資料として挙げる必要があるのではないだろうか。多分、『桜の国』は『大田洋子集』には収録されておらず、入手が困難だったため読むことができなかったのかも知れない。しかし、『桜の国』は2000年にゆまに書房から復刻出版されたので以前よりは読みやすくなったのである。

 そこで、今回は大田洋子の『桜の国』について考察することからはじめて、戦争と女性作家の関わりを見ることにしようと思う。

 

2 大田洋子『桜の国』と日中戦争

 大田洋子(本名は初子)の人生は波乱に富んでいる。以下、『大田洋子集』第4巻(三一書房、1982年)の浦西和彦による「年譜」、ならびに江刺昭子『草饐』(濤書房、1971年)を参考にしながら、『桜の国』にいたる彼女の履歴を概観してみよう。

 大田洋子の母トミは、はじめ小泉金八と結婚し長女をもうけたが離婚し、ついで福田瀧次郎と結婚して初子(1903~1963)を生んだ。さらに弟が2人生まれたが、初子が6歳になった年に離婚した。母トミは初子を連れて実家の横山家にもどり、初子は大田家の養女となった。さらに母は初子が8歳の年に広島県佐伯郡の地主稲井穂十と再婚した。やがて初子は稲井家に引き取られたが、稲井家にはすでに2人の男の子がいた。その後異父妹が3人生まれることとなる。

 初子は広島市内の進徳高等女学校の研究科を1923年(大正12年)年に卒業し、江田島の小学校の教師になったが半年でやめ、広島にもどり広島県庁にタイピストとして就職したが、1926年(大正15年)に歯科医師藤田一士と結婚した。しかし、結婚相手には先妻と子供3人がいることが判明し、藤田と別れて上京して菊池寛の秘書となった。しかし半年後にはふたたび広島にもどり、藤田と家を持つが、1928年(昭和3年)に離婚し、大阪に出た。

 大田洋子は『女人藝術』1929年6月号に処女作「聖母のいる黄昏」を発表したあと、数多くの短編を『女人藝術』や『火の鳥』などに発表したが、生活は苦しかった。その後大田は1936年に元改造社記者で、当時は陸軍が中心となって作った国策会社・興中公司の社員であった黒瀬忠夫と結婚するが、1年半後には離婚した。そして失意の中、自伝小説『流離の岸』を書き上げるが発表するあてがなかった。そこで、『中央公論』の懸賞小説に応募するために「海女」を書いた。ついで、『朝日新聞』が懸賞小説を募集していることを知り、母親が出してくれた資金で中国に取材に出かけたのは1938 年(昭和13年)の秋であった。彼女は天津で漢字新聞の編集長をしていた坂本氏を頼り、天津、北京を取材して回った。坂本氏は広島時代からの知り合いで、かつて求婚された間柄であったという。大田は3ヶ月間の取材をもとに「桜の国」を書き上げ、小倉緑の筆名で『朝日新聞』の懸賞小説に応募した。

 大田が世に知られるようになったのは、1939年(昭和14年)1月「海女」が『中央公論』の知識階級総動員懸賞小説に一等入選し、ついで翌1940年(昭和15年)1月に「桜の国」が東京朝日新聞社創立満五十年記念一万円懸賞小説に一等入選してからのことである。

 「海女」は1939年の『中央公論』2月号に発表され、のちに短編小説集『海女』として中央公論社から1940年5月に刊行された。また「海女」の一等入選により、『流離の岸』は小山書店から刊行されることになり、1939年12月に処女小説として出版された。『桜の国』も『朝日新聞』に連載されたあと、1940年10月に朝日新聞社から刊行された。このようにして、大田洋子は一挙に流行作家になっていった。

 「海女」は短編小説である。この小説は海女の娘が養女となった家の長男と恋仲になり、東京に出て結婚するが、夫は出征して戦死し、また海にもどって海女となって生きていく決心をする物語である。この物語の結末は、地方の生産を高めようとする国策にそったものであって、「知識階級総動員懸賞小説」にふさわしかったということが言える。この大田の文壇デビュー作は日中戦争が深まった時代を反映しているものであり、戦争と女性作家の問題を考察する場合には欠かすことができない作品であるが、今回は『桜の国』に焦点を当てて考察したいので、これ以上触れることはしない。

 『桜の国』の取材旅行がなされたのは、日中戦争が勃発した1937年7月から1年余しかたっていない時期である。そして、懸賞小説として一等入選した1940年(昭和15年)は日独伊三国同盟が締結され、大政翼賛会や大日本産業報国会が発足し、日本軍が北部仏印へ進駐するなど、軍事色に日本全体が染まっていった時代である。『朝日新聞』もまた、この戦争時代のメディアとして、戦争支持に回っていた。そうした時代の当選小説ということであるから、単純な戦争礼賛小説かと思われがちであるが、さまざまな女性が登場し、また彼女らをめぐる男性達が複雑にからみあい、そう単純ではない。しかし、だんだん戦意高揚小説になっていくところが当時の評価を得たところであろうと思われるので、概略をまとめてみよう。

 この『桜の国』は日本と中国を舞台にした長編小説であり、かなり複雑な物語であるので、要約は容易ではない。この物語の最後に女性主人公ヒカルが友人の新子にあてて書いた手紙のなかで「二人は特殊な女性ではなく、多くの婦人の中にどれだけの新子とヒカルがゐるかと云ふことを、くり返して云ひたいの。」(409頁、以下『桜の国』からの引用の場合は、ゆまに書房による復刻版『桜の国』を用い、引用文のあとに頁だけを記すこととする)とあるように、この二人の女性を中心にして、戦争時代の日本女性の気構えのようなものが描かれていることを、最初に述べておこう。

 まず、ヒカルであるが、彼女は天津で日本語教師をしている駒頼之介とその妻操の間に生まれ、現在21歳である。ヒカルには姉のあき子がいる。あき子にはかつて婚約者に等しかった高鳥聡一がいる。彼は頼之介の甥で、陸軍幼年学校出身であったが、13年前の19歳の時に足の手術をして義足となったため、軍人としての抱負やあき子への思いを棄て、ジャーナリストとなって天津に来ている。

 ヒカルの両親は20年前から天津の日本租界で教師をしていたので、教育のため姉妹を東京の近親者である笹間家に預けていた。当主の笹間賢太はある財閥会社の重役であり、三郎という息子がいるが、三郎は妾の子であったため旅順に養子にやられ、のちに養家から絶縁されいったん笹間家にもどり、のちに北京の中国大学へ入ってしまう。そのころ、養家からも実家からも見はなされて生活に困っていた三郎の世話をしたのが聡一であった。

 三郎は聡一の勧めによって自分の弱さを克服するために山西省の激戦地に通訳として従軍し、肩に負傷して軍病院に入院する。ヒカルは親友の矢島新子の恋人である三郎が音信不通となったのでその消息を知るために天津にやってきて、聡一と会う。

 聡一はあき子のことを忘れることはできないでいたが、次第にあき子のことは過去の良い思い出となっていき、芸者菊奴とつきあうようになるが、結婚するまでにはいたらない。

 一方、矢島新子は女子医専の本科生で、23歳である。彼女の父は脳病院の院長であったが、4年前に死亡した。父が死亡したとき、病院経営のため借財をしていて、財産はほとんど残っていなかったので、新子の学資は、新子の父に精神系統の病気を治してもらって「命の恩人」と思っている笹間賢太が出していた。

 新子は三郎からの音信が1年半ほどないので、母の安代の勧めで医学士の梶原篤と見合いをする。新子は気の進まぬまま、母の気持ちをくんで結婚を受け入れ、結納も済んだところに三郎からの手紙が来る。安代はその手紙を新子に渡す前に読み、新子に見せずに隠してしまう。そして結婚式の二十日前になって、梶原の先妻は病死ではなく、素行がおさまらぬ夫への怨恨の果てに自殺したものであり、一人の女の子がいるということが、安代の遠い親戚からの知らせでわかる。

 三郎は二度目の入院から早めに退院ができて東京にやってくる。三郎を東京駅に迎えに来たヒカルは、三郎が新子に手紙を出したことを知り、嵐の中を新子の家に行くが、新子は結婚式を三日前にして家出したという。ヒカルのところに届いた手紙によって三郎は新子に会うが、二人の関係は元に戻ることはできず、三郎は中国に戻り、新子は梶原と結婚する。

 三郎とヒカルが中国に帰る船の中で漢口陥落のニュースが伝わる。このことで時代設定が1938年(昭和13年)前後であることが明らかになると同時に、それはちょうど大田洋子が中国に取材に出かけた時期と重なることも分かる。そのニュースを聞いたり、見たりした人々の様子を大田洋子はどのように描写しているか、見てみよう。

 

「大本営陸海軍部二十七日午後六時三十分公表、我軍は本二十七日午後五時三十分、陸海協力残敵を掃討し、武漢三鎮を完全に攻略せり」

 たちまち船いつぱいにうめくやうな歓声が渦巻いた。人々は思ひがけない程早い陥落に、何かの間違ひではないかと、何度も貼り紙のしたゝるやうな文字を読み直した。そしていよいよそれが確報だと信じ得られると、男の船室から又々軍歌と行進曲が湧き起つた。(中略)誰も彼も戦勝の歓喜に酔つたやうに、苦難の多い前途のことを、失念してゐるかに見えた。(311頁)

 

この時点までの大田の描写は比較的に冷静である。しかし、武漢三鎮陥落の祝賀行事あたりから次第に愛国的描写が高まってくる。たとえば、祝賀会の前触れに街通りを愛国行進曲が流れ、君が代のメロディーが聞こえた時にヒカルは次のような行動を見せる。

 

  「行きませうよ、お姉さん、君が代だわ−−」

  ヒカルはさつと立上つた。そして情熱的な眼ざしで、じつと耳を澄ませた。

  (324頁)

 

そして聡一とヒカルとあき子が自動車で英租界の大通りのはずれに来て、英国明園グラウンドの中を突っ切ろうとして、英国の警備兵に止められた後の聡一の反応は次のように描かれる。

 

  「今に見てゐろ。あそこも日本の道路で貫いてやる」

  負け惜しみ許りでなく、聡一は熱を帯びた声を放つた。(334頁)

 

ここには植民地政策で先行するイギリスへの劣等感も見られるが、それ以上に中国侵略を後から始めて武漢陥落にまでいたった日本人の誇りと傲りが感じられる。そして、イギリス、日本はともに中国の地に来て租界という侵略行為をしていることへの疑問は全く感じられない。ヒカルもまた聡一の言葉に「素晴らしいこと!」と同調するのである。

 聡一とヒカルは北京へ三郎を訪ねていくが、三郎はすでに北京を発っていた。過労からきた脳貧血で倒れた聡一を介抱していて、ヒカルは聡一への愛情を感じる。聡一も「僕はね、ヒカルが好きなんだよ。出来れば結婚したいと思つてゐる」(361頁)と述べる。しかし、ヒカルは答えられない。

 その後、ヒカルとあき子が聡一を新聞社の編集局に訪ねて爆弾さわぎにまきこまれたとき、あき子よりも先にヒカルを聡一が助け起こしたので、ヒカルは聡一の愛を確信する。聡一はヒカルの父に結婚の許可を求め、父の頼之介も結婚を認める。そこに新子から手紙で新子も夫の梶原の死が伝えられる。彼は軍医として従軍し、まもなく急性肺炎で亡くなったというのである。

 新子は医者として実地をやり、開業を目指すと共に、梶原の遺児那美を育てる決心をする。彼女が医者になることを目指したのは、経済的自立のためでもあったが、一方でそれは男の医者が従軍しているため、女医の進出が求められているからでもあった。

 この『桜の国』という物語は「桜ヶ丘三丁目」という章で終わる。ここでは「桜」がいろいろに使われていて、『桜の国』というタイトルがつけられた理由を明らかにしている。

 まず「桜ヶ丘三丁目」であるが、それはヒカルが結婚した高鳥聡一の実家がある大阪の地名である。その実家の「梨の花も桃も桜もみんな一緒になつて降りそゝいでゐる」庭に向かった部屋でヒカルが新子に宛てた手紙でこの物語は終わるのである。

 新子が入り直した眼科医局の中庭にも「桜は白い雲のやうに豊かな八重の花を開き切つてゐた」(398頁)とある。その医局で、ヒカルと新子は会う。ヒカルは結婚式を日本で挙げるために天津から母と飛行機で戻ったのであるが、そのとき飛行機から見た日本と中国と朝鮮の景色について次のように言う。

 

 「空から見下ろす北支の大地を一度あなたに見せてあげたくつてよ。ね、空から見ると北支は飽くまで黄色だけど、朝鮮は赤みがかつた紫に見えるの。それだのに日本はどうでせう! 美しい緑の大地だわ。緑の世界に今は雪のやうに桜の咲いている国!」(402頁)

 

このように日本の国土を賞賛したうえで、ヒカルは次のように日本人という意識について語る。

 

「海から来てもさうだけど、空から来たつて、自分が日本の子だと云ふ意識は耐へられないやうな感動で胸をしめつけるのよ。聡一さんも云つてたけど、日本のことを忘れて何かする人があるとすれば、その人はもうすでに日本人ではないつて気持ちね。空から故国を見てゝも、はつきりした実感で迫つて来るのよ」(402〜403頁)

 

そう言うヒカルに対して新子は次のように答える。

 

  「私さう云ふ言葉が、どんなに聞きたかつたでせう。ヒカルさん、私も自分の技術がいつの日か日本の国のお役に立つことを夢見てゐるのよ。必要だつたら、どこへでも行くわ。貧民窟へでも戦地へでも――新子もね、もう以前のお嬢さんではなくなつたことよ」(403頁)

 

  そして二人は握手をする。この二人の女性の姿と桜の花が重ねられ、さらに、先に述べた「二人は特殊な女性ではなく、多くの婦人の中にどれだけの新子とヒカルがゐるかと云ふことを、くり返して云ひたいの。」というヒカルの新子に宛てて書いた手紙の言葉でこの物語は締めくくられる。

 このように、大田洋子の『桜の国』は、日中戦争後1年の中国と日本を舞台にした作品であって、「桜」のイメージを日本という国に重ねて、その美意識によって日本人としての認識を高め、戦意を高揚させていく物語なのである。

 

3 大庭さち子の「遺書桜」

 戦時下における日本では、「桜」のイメージは戦意高揚のためにさまざまに使われた。それは主として散り際の良さを賞揚するものである。そうした「桜」のイメージは女性作家によっても使われた。その一つの例として、大庭さち子(1904〜 )の『みたみわれら』(春陽堂書店、昭和18年9月)から「遺書桜」という短編小説を取り上げてみたい。

 この物語は、大阪のある私立大学教授の息子荘一と妹清子、ならびに父の弟の娘さえ子をめぐる物語である。さえ子は7歳のときに両親を相ついで失い、清子の両親に引き取られて育った。さえ子は陰気だがつつましくおとなしい娘に育つ。控えめで目立たないさえ子の将来を思って、荘一の嫁にしたらどうかと荘一の両親は思う。荘一は静かな学者肌の青年で、現在京都帝大の学生である。彼も清純なさえ子にほのかな愛情を寄せていたが、大学を卒業するまではと思い、愛情を口に出さなかった。

 さえ子には一度縁談があった。それは仲人をたてた話で、相手は彼女の親友の斉藤美代の兄の若い海軍士官であったが、両親は「すでに縁のきまつたあとでございまして」(102頁、以下、「遺書桜」からの引用はゆまに書房による復刻版『みたみわれら』2002年刊を用い、引用文のあとに頁のみ記することにする)と断った。

 その後間もなく、父が突然脳溢血で死亡した。荘一もすでに卒業していたので、父の忌明けを待って、父の遺志として荘一との結婚の話を伝えると、さえ子は驚くほどきっぱりと断った。それは彼女の最初で最後の意思表示であった。

 さえ子は細菌研究所の助手となり、荘一は新聞社に入社する。さえ子は荘一を嫌っているようでもなく、やさしく身の回りの世話をしていた。

 そのうちにさえ子は職場で足にけがをし、けがは直ったがその傷がもとで細菌にむしばまれて、死の床に伏してしまう。

 さえ子は清子に桜の押し花を作ってくれるようにと頼み、封筒と巻紙を求める。そしてさえ子は巻紙の白い紙の上に薄紅の桜の花びらを散らし、瀕死の床で巻紙を封筒に納め、封筒の表に「海軍大尉 斉藤栄三様」と書いた。

 さえ子は荘一の気持ちは知らず、斉藤栄三を慕い、彼も少尉になったら正式に仲人をたてて結婚を申し込む約束をしていたのだが、話は行き違いになってしまい、仲人に叱られても弁明せず、さっさと前線へ出ていってしまった。 

  一方、さえ子は、斉藤と伯父伯母へのおわびに「いのちをかけたお仕事に、身を投げ出して、何かの形でお役に立ちたいと思つたの。恐ろしい結核菌の中に飛び込んだのも、その菌から一人でも多くの人の命を救つて、お国のために働いて頂きたい念願だつたのよ。」(111頁)と述べる。

 さえ子は死に、彼女の死後半年して、荘一は南方特派員としてインドネシアに渡る。そこは斉藤大尉が属する海軍戦闘機隊のいる方面であった。荘一は大尉の所在を求めて探し当てたが、すでに彼はスラバヤ上空で敵機十機と戦い、二機を撃墜したが、自らも自爆してしまった。まだ死体の収容もすんでいないと聞いて、荘一は訪ね歩いて、自爆した機体を見つけだす。そして、航空部隊の検視のあと、遺体の飛行服の内ポケットから宛名のない白い封書を見つける。その中には、さえ子の送った白紙の遺書があり、中から桜の花びらが「生ける魂のやうに、武人の最後の象徴のやうに散りおちた。」(119〜120頁)巻紙には「ものゝふのいのちをしまず戦ひて空に散りぬとひとにつたへん」と書いてあった。その遺書を読み、荘一はさえ子の白紙の遺書に斉藤大尉が何を感じ、また何を誰に伝えたかったかを知る。

 斉藤大尉の遺骨は荘一の腕に抱かれてもどることになり、さえ子の一周忌を二人の結婚式の日にしようと清子の母は言う。清子は母を慰めて、「母さん、もつと元気をお出しなさいよ。お姉様はちつとも不幸ぢやなかつたのよ。出陣の良人に後れをとらせないために、いさぎよく自刃して立たせた、昔の日本の妻よりも、もつと幸福でもつとえらかつたのよ。立派に良人とたのむ人に操をたてゝ、職場の花と散つたんですもの。あたし達、お墓に万歳をとなへてあげていゝのだわ」(115頁)と言う。

 このあとには作者の次のような言葉が続いている。その言葉から、当時の、出征する男性と送り出す女性のあるべきとされた姿が見て取れるので、引用してみよう。

 

 白紙に桜の花びらを散らしたゞけの遺書を、南の戦場にうけとつた斉藤大尉は、風流を解する武人であつた。そこにはつきりとさえ子の心意気をよみとられたばかりか、わが身も君のため、桜の花と散れと心をこめたさえ子のやさしいはげましを感じとることが出来たのである。 

ひとたび武人を志したからには、祖国のために花と散る覚悟につゆ変りはなかつたにしても、祖国の女の不信を胸に秘めてゐるのと、命をかけたはげましを護符とおびて死地につくのと、鉄石の腸に鍛へられた人にも、どんなに大きな開きがあることだらう。それはひとり斉藤大尉の本懐と、さえ子の幸福となるばかりではない。広く前線と銃後を結ぶ、血と愛情のきづなとなつたのだ。(115-116頁)

 

 つまり、この物語は「前線と銃後を結ぶ、血と愛情のきづな」として作られたのである。前線で戦う男性が後顧の憂いなく戦えるために、たとえ結婚していなくても、愛する女性は命がけで男性を支え励ましているという、純愛物語の形を取っているが、この物語は「わが身も君のため、桜の花と散れ」というくだりからしても「祖国のために花と散る覚悟」を国民に求める物語となっていると言えよう。

 こうして、桜の花の美しさは、戦局の展開とともに、散り際の美しさ、潔さと読みかえられて、武人ばかりでなく、銃後の女性にも、「祖国のために花と散る覚悟」を求めるシンボルとされていったのである。

 

4 おわりに

 こうの史代の『夕凪の街 桜の国』から、大田洋子の『桜の国』を経て、大庭さち子の「遺書桜」にたどりついた。当初はさらに、『桜の国』に描かれている「通州事件」から吉屋信子の『戦禍の北支上海を行く』(新潮社、昭和12年11月)を論じ、ついでやはり『桜の国』で描かれた「漢口攻略」について、ペン部隊(従軍作家部隊)の一員として漢口攻略後一番乗りをして『戦線』(朝日新聞社、昭和13年12月)ならびに『北岸部隊』(中央公論社、昭和14年1月)を書いた林芙美子を論じる予定であったが、予定の紙面をすでに越えてしまった。これは「戦争と女性作家」というテーマでは大きな位置を占める問題であるので、稿を改めて論じたいと思う。

 ただ、女性作家もまた戦争と無縁ではなく、「銃後の文学」として、生産を高め、技術を習得して男性の代わりを務め、貞操を守ることで前線で戦う男性の憂いをなくす文学が奨励されたことと、大田洋子の『桜の国』はそうした国策に見事に応えた小説であったことを指摘しておきたいと思う。大田洋子はその後も随筆集『暁は美しく』(赤塚書房、昭和18年3月)、短編小説集『たたかひの娘』(報国社、昭和18年3月)などの「銃後の文学」を発表していき、この戦時下の代表的な女性作家となったのである。

 こうした大田洋子の戦中の作品が復刻版で読めるようになった現在では、戦後の原爆作家としての活躍とどう結びつけたらよいのかが問題となろう。この点については栗原貞子が『大田洋子集』第3巻(三一書房、1982年)の「解説」で次のように述べている。

 

  洋子の戦争責任と原爆文学

しかし洋子が日本帝国主義の中国侵略のさなかに北支(中国北部)に行き取材して書いた「桜の国」(朝日新聞懸賞小説当選、1940.1)や「暁は美しく」など、戦争協力の小説やエッセイを書き、何冊もの単行本を出版したことなど、苦い思いをさせられるのは私だけではないだろう。彼女が被爆後、自らの戦争責任に対しては口をつむったまま、戦争の被害者として原爆の苦悩を書いたことが、彼女の原爆文学に対する文壇の人たちの疎外となったのではないだろうか。 (413頁) 

 

 こうの史代のマンガ『夕凪の街 桜の国』は大田洋子の作品と離れることで現代の原爆文学となり得た。また、現代の読者には、戦前の大田洋子の作品とは決別することでしか原爆の問題は受け入れられないであろう。作者は『大田洋子集』を読んでいたのだから、上記の栗原貞子の「解説」は読んでいたであろう。この大田洋子の問題の難しさを知っていて、ことさらに皮肉として二つの代表作を組み合わせて用いたのであろうか。作者がなぜ大田洋子の戦争協力作品のタイトルをマンガのタイトルに取り入れたのかは依然として筆者には謎のままであるが、「桜の花」はその美しさとともに、さまざまなイメージを与えられて、時代のシンボルとなってきたことは、具体的に明らかになったのではないかと思う。また、その一方で、大田洋子の全体的評価がそろそろなされなければならないことを感じるのである。                   

   

  引用文における漢字の旧字体は新字体に改めた。仮名遣い、送り仮名は原文のままとした。


科研報告書「戦争・他者・美意識ー美意識における異文化理解の可能性」2005年3月、72−81頁所収