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カタリエヌモノ

** 2011.01の カタリエヌモノ **

 ++ 11.01.05 (wed) ++ 



明けましておめでとうございます。(*1)

本年もよろしくお願いいたします。

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(*1)昨年最後の更新で,今年の更新は6日からとか書いてますが,授業の開始日を完全に勘違いしていました。明日からではなく今日からでした。気付いて良かった。

 ++ 11.01.06 (thu) ++ 



宗教は人間を思考停止させるための装置なのではないかと思えてくることがあります。

もちろん,宗教の全てがそうだとは思いません。
ですが,救いが安易に与えられると思ってしまうようなタイプの人間にはそういう側面があるのも事実だと思います。

私は,宗教が示す慈悲の心を信念として持っている人は尊敬しています。

宗教も,臨床心理学も,自分を救うためではなく,他人を救うために使われるべきなんだと思います。

 ++ 11.01.07 (fri) ++ 



自分の職業に誇りを持つことは良いことだと思います。
一方で,職業に貴賤はないとも思います。

私は研究者という身分に誇りを持っています。
しかし,大学教員という職業は今や単なるサービス業です。

私はnoblesse oblige(私はこれを「尊き者の責務」と訳します)は今の世の中でこそ必要だと感じています。
現代の日本にはこれがなくなりつつあるので,お金はあっても貧しい国なんだと思っています。

今の日本は権利の平等だけでなく,誇りの平等までも求めます。
「尊き者」であるという自覚を持たない,持たせない風潮があるように感じます。

実際には果たすべき責任は人それぞれに異なり,自覚を持つべき人は存在するはずです。
しかし,現代では多くの輩が「責務」を放棄しています。

かつては大学教員も「尊き者」の末席にはいたような気がします。
しかし,今では単なる「サービス提供者」です。
ただ,これは時代の流れですし,致し方ないとも思っています。

一方で,研究者は今でも「知を尊ぶ者」であり続けていると思っています。
なので,「尊き者の責務」を果たさなければならないと思っています。

研究者であり,大学教員でもある,ということに自覚的でなければならないと思っています。

 ++ 11.01.08 (sat) ++ 



マンションのオートロックの鍵が壊れているのか,正面玄関からは家に入れない哀れな住人(私)。

 ++ 11.01.11 (mon) ++ 



卒論(その3,4)が書き上がりました。

「乳児の音声言語の獲得と身ぶり動作の消失との関係」
#身振り動作の観察はうまくいったのですが,観察期間内に音声言語が出てきませんでした。
#仮説は良いと思うので,また機会があれば再チャレンジしてみたい研究です。

「幼児のエピソード記憶の発達過程:幼児はいつから体験したことと見たこととを区別して思い出せるようになるのか」
#対象年齢を1歳ずらしてとるという致命的なミスがあります。
#これも仮説はよいと思うので,いずれ再チャレンジしてみたい研究です。

しかし,心理学で16000字以上の卒論を書かせるというのは本当に骨です。

 ++ 11.01.12 (wed) ++ 



乳児は言葉が話せないので関わるのが難しいといっている学生の多くは
コミュニケーションが上っ面の言葉だけで成り立っていると勘違いしており,
おそらく大人とも本質的な関わりは出来ていない。

 ++ 11.01.13 (thu) ++ 



15日(土),16日(日)はセンター試験です。
また,14日(金)は,その準備のため学内には立ち入り禁止です。

そのため,明日以降の週末の更新をお休みいたします。

次回更新は17日(月)です。

 ++ 11.01.17 (mon) ++ 



卒論(その5)が書き上がりました。

「幼児のアニメキャラに対する知識量と好意度との関係」

保育や幼児教育を行う環境として,幼児は様々なアニメキャラクターに囲まれて生活している。そこで本研究では,幼児がアンパンマンやドラえもん等を好む理由について検討した。その結果,アニメの典型的なプロットを理解している幼児ほどそのアニメキャラを好んでいることが分かった。

 ++ 11.01.18 (tue) ++ 



大学教員というのは,本来「学生に教授する人間」ではなく「学生と議論する人間」だと思っています。

もちろん,最低限の知識は講義で教授します。
しかし,本来の役目は,研究指導などを通してアイディアを戦わせることだと思っています。

そのため,その戦いの中で学生が教員を越えていくこともあるでしょう。
時には,教員の想像をはるかに超えることをやってのけることもあるでしょう。

そうすると,教員の存在意義は何なのかという話になります。
それは,議論の過程やそこで出てきたアイディアについて評価できることだと私は思っています。

大学教員は学生と議論する際も常に議論の流れを別の視点でモニターしています。
きちんとした論の組み立てが出来ているか,またその発想の仕方がエレガントかを見ています。

また,素人にとってすごいアイディアだと思えることも,専門家の視点で見ればありふれたことだったりします。
逆に,素人の素朴なアイディアの中に,有意義な研究につながる発想が隠されていることもあります。

専門家としての大学教員は,学生の思考や発想を評価出来るという部分で必要なのです。

が,私は今「教授する」だけにとどまっていることがほとんどです。
#ガチンコで議論できる学生が欲しい。

 ++ 11.01.19 (wed) ++ 



卒論(その6,7,8)が書き上がりました。
いずれも幼児の向社会性に関する研究です。

「幼児の養育者に対する印象と向社会的行動や攻撃行動との関係」

これまでの親の養育態度と子どもの向社会性や攻撃性との関係に関する研究では,養育態度を親自身が評価してきた。しかし,親は受容的に養育しているつもりでも子どもは統制的に養育されていると認識している可能性もある。そこで,子ども自身が親の養育態度をどのように認識しているかを調べ,向社会性や攻撃性との関連を調べた。その結果,両親を応答的だと認識している子どもはそうでない子どもと比べて向社会的行動が多く見られるということが示された。


「幼児の自由遊び場面での向社会的行動(思いやり行動)はどういった状況で現れるか」

保育所の年少,年中,年長児クラスの幼児の自由遊び場面を観察し,どのような状況で思いやり行動が起こるのかを検討した。その結果,従来の研究の通り,困窮者が存在し,幼児がその困窮に気付き,それに対する適切な対処スキルを持っている場合に思いやり行動が起こるということを確認した。


「保育の仕方が幼児の向社会的行動(思いやり行動)の頻度におよぼす影響」

保育者の保育スタイルを調査し,スタイル毎に担任クラスの向社会的行動の現れ方に特徴が見られるかを検討した。その結果,子ども自身の向社会的能力を信じるスタイルの保育者や,向社会的なモデルを示すスタイルの保育者のクラスの幼児は援助行動が多く観察された。この原因は,保育者がこのようなスタイルをとることで,幼児自身が判断する機会が増えたり,望ましい行動が何かを知る機会が増えたりするためであると推測された。

 ++ 11.01.20 (thu) ++ 



明日は青山学院大学で「認知科学」の編集員会です。

ということで,明日以降の週末の更新をお休みいたします。

次回更新は24日(月)です。

 ++ 11.01.24 (mon) ++ 



私も少しだけ書籍の分担執筆をしたことがあります。
そして,今後も依頼が来るかも知れません。
そのとき,「いつも同じ内容ですね」とは言われたくないな,と思っています。

 ++ 11.01.25 (tue) ++ 



卒論(その9)が書き上がりました。

「幼児の遊びの発達的変化と笑いの理由との関係」

これまで,乳幼児の笑いの原因の分類に関する研究が行われてきた。しかし,幼児の自由遊び場面を観察した研究では年少児において,認知的・社会的により発達していると考えられる年長児よりも言語的な笑いが多いとされている。このような齟齬が生じる原因は,この先行研究がどのような遊び場面を観察したかを報告していないため,偏った遊びの中での笑いのみを報告していることが考えられる。そこで,幼児の自由遊び場面を観察し,そのとき従事している遊びと笑いとの関係を検討した。その結果,年少,年中,年長と1人遊びから連合遊び,協同遊びへと観察される遊びの比率が変化するのに伴い,孤立的で感覚運動的な笑いから親和的・受容的関係の中での感覚運動的・言語認知的な笑いへと変化していくことが分かった。

 ++ 11.01.26 (wed) ++ 



話の本質なんか分かっていないクセに,理解したフリをする学生が多くいます。

たちが悪いのは,理解したフリをしていることに気付いていないことです。

理解したフリをしていればやり過ごせて来たんだなぁ,と哀れに思えてきます。

 ++ 11.01.27 (thu) ++ 



卒論(その10)が書き上がりました。

「両親の性格特性が子どもの性格形成に及ぼす影響」

両親と子どもの性格の類似に関する研究では母親と子どもとの性格との間に類似性が報告されている。しかし,この研究では,子どもの性格を母親が評定している。そのため,母親自身の願望や思い込みが反映され,類似性が見られた可能性がある。そこで,子どもの性格をその担任保育者に評定を求めた。その結果,男児は父親と勤勉性においてのみ弱い相関が認められ,女児は母親と新たな経験への積極性においてのみ弱い相関が認められた。したがって,両親と子どもの性格は単純に類似しているとは言えない可能性が示唆される。

 ++ 11.01.28 (fri) ++ 



プロなので成果を残すのは当たり前です。
また,そこに至るまでの過程を重視するのも当然です。
自らの美学に基づき,方法論にもこだわっています。
新たなことにチャレンジするのも好きです。

ただ最近,教育・研究を行うことが私個人にとってどんな意味があるのか疑問に思うこともあります。

私がこの世を去る時にはどうせ何も残っていないでしょう。

そう考えると,教育・研究をする瞬間瞬間で楽しめているかを意識していくべきなのだと思います。

 ++ 11.01.29 (sat) ++ 



iPod touchは起動も速く,手軽です。
けれども,iPod touchで出来ることしかしません。

PCは起動も遅く,手間です。
けれども,PCを開くとやろうと思うことが広がります。

 ++ 11.01.31 (mon) ++ 



大学入試における学力試験の目的。

ある程度以上のレベルの大学では単純に選抜が目的となります。
そのため,受験勉強の内容と大学に入ってからの学びで求められるものが解離してしまいます。
大学に受かることが受験勉強の目的になり,また,大学に入ってからも受験勉強が大学での学びにどう役立っているのか感じにくいものになります。

これに対し,ある程度以下のレベルの大学では大学で学ぶための最低限の能力の確認が目的となります。
受験勉強を通して読み書き計算の能力を獲得することで,大学での学習が可能になるとも言えます。
(もちろん,メタ的な認識力が低いために受験勉強が大学での学びで役に立っていると実感できていない学生も多いでしょうが。)

そして,それ以下の大学では入試など機能していません。
つまり,大学で学ぶために必要な読み書き計算の能力を有していない学生を入学させているということです。
そうすると,まず大学がやらなければならないことは,中3〜高1程度の学力の育成です。

こんなのはとても大学とは呼べません。
しかし,学生本人やその保護者にとっては,大卒という肩書きと義務教育レベルの学力が得られるので,御の字なのかもしれません。

ただ,国民はこういう現状に対し,本来の大学教育とはどういうものなのか考えるべきです。
少なくとも,義務教育レベルで行われるべきサービスが大学で提供されているということは認識すべきです。
つまり,国からの補助金が投入される大学という組織で,義務教育で済ますべき事を行っているという現実に目を向けるべきだということです。
#まぁ,時間はかかっても出来るだけ多くの国民を義務教育終了レベルに引き上げることが先進工業国における労働力の確保という面で必要ならば,国益にかなうのかもしれませんが。

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