ポスト参加体験型ミュージアムを考える

広島大学 匹田 篤

参加体験型ミュージアムが全盛である。陳列されているものやパネルを、観るだけのミュージアムは、情報を一方的に押しつけようとする。より理解を深めること、そして楽しく理解してもらうために、「体験」がキーワードとなって十年以上が経つ。いまや、新しく開館するミュージアムは、そのほとんどが参加体験型を謳っている。

参加体験型は、確かにそのねらいの通りの効果を発揮した。魚に触れるタッチプールがある水族館、自分で実験をしてみる科学館、ボタンでクイズに答えるプラネタリウム。紙漉き体験やガラス工房、ろくろ廻しまでもが、展示物と併せて「ミュージアム」と呼ばれるようになった。

そして、かつて「触ってはいけません」だったミュージアムの常識が「どうぞ触ってください」に変わった。参加者はとりあえず触ってみる機会を得た。ボタンを押し、展示物に触り、魚に触れた。まるでゲームのポイントを稼ぐかのように。

ゲームセンターとミュージアムの違いは何か?

いま改めて問われるのは、参加体験の理由である。北海道大学のクラーク初代学長の言葉 boys be ambicious は有名だが not for yourself but for your countly という続きのセンテンスがあることがとても重要なのである。

「どうぞ触ってください」には続きがあるはずである。「どうぞ触ってください。そして、何かを感じ取ってください」であろう。単に観るだけのミュージアムから、五感で感じ取るミュージアムになったからこそ、そこから何かを感じ取ることが求められているのである。

感動の連鎖の重要性

しかし、それは酷というものだ。公園に子供を連れていって、自然を感じなさいというのと同じくらい難しい注文である。感じるためには、何か導入が必要である。いま大人にも子供にも足りないのは体験や知識ではなく、それに到達するまでのストーリーだ。A=B,B=Cだけではない。A->B->C->D->Eと連鎖していくことが体験を知識に変えていくことである。その連鎖を生むためには、体験だけではない。きっかけ、感動、伝承といったエモーショナルな要素が不可欠である。参加体験型ミュージアムは、まだ参加体験用器具というモノに頼りすぎなのである。

きっかけ、感動、伝承といったエモーショナルな要素が備わったミュージアムを、感動共有型ミュージアムと名付けよう。自然現象をじっくり(そして我慢させて)観せる科学館、触れさせる前に、そこから何が解るか考えさせる動物園である。

自然現象は科学館にしかないものではない。大きな滝の迫力や、流星群の感動、自然の営みは我々の感動を与えてくれる。それは言葉で表せるようなものではない。恋人同士が手を繋いで感動を伝えるように、科学館でも言葉にならない「!」や「?」を伝えるものになることが、いま求められている。そして私たち大人は子供達のそれを感じ取って、ともに感動を共有していく。そういうエモーショナルな参加体験=感動共有が必要なのである。

コミュニケーション、アートそしてサイエンス

サイエンスの理解を深めるためには、何か没頭させる触媒があるとよいと考える。それは、コミュニケーションの要素かもしれない。アートの要素かもしれない。

科学館には友達同士でいくとよい。そこに会話が生まれ理解を深めていく可能性があるからである。話し相手になってくれる親御さんや学芸員の人たちでも価値観が共有できればもちろんよい。サイエンスを理解していくということは、人類のこれまでの発見をトレースしていくコラボレーションなのである。


事例:モントレーベイ水族館のボランティアスタッフ

モントレーベイ水族館では、地域住民を対象に各種セミナーを開催し、ボランティアスタッフを養成している。受講者は学生から高齢者まで多岐にわたる。彼らはセミナーを受講するごとに、水族館の業務を担当できるようになる。

ある老婦人が、タッチプールの向こう側でヒトデの世話をしていた。そこに孫を連れた同年齢の婦人がやってきた。「あなた、このヒトデ触ってごらんなさい。かわいいから」「うわー、私初めてヒトデ触ったわよ」「私も二週間前に初めて触ったのよ。かわいいでしょ」

必要なのは、感動や価値観を共有しあう仲間であると感じた。子供が両親に「ねぇ見て見て」というのと同じことである。大人だって伝えたいのである。そこから、会話が生まれ、理解へのきっかけが生まれる。

事例:カーネギーサイエンスセンターの大人向けの展示解説パネル

子供を連れて行く場所として、水族館や科学館はとてもよい場所である。子供たちの好奇心が最大限に発揮されるところというのが、その一番の理由であろう。子供たちが遊ぶ様子を見てニコニコしているお父さんたちは幸せそうである。

しかし、子供の好奇心は残酷である。「これなに?どうやるの?」という言葉に立場を失う親御さんは少なくない。こんなことを偉そうに言っている私も、動植物は全く苦手である。魚の名前さえわからない。困ったものである。

米ピッツバーグにあるカーネギーサイエンスセンターには、そんな我々のために、親御さん向けの解説パネルがある。しかも有り難いことに、子供には届かない位置にあって、扉を開けないと見えないようになっているのだ。

大きな風洞に入れるブースがあった。そこに発泡スチロール製の羽をつけて入るのであるが、子供たちは羽であろうが何であろうが、水平と垂直の二通りしか試さない。たぶん私たちだって同じである。そんなときに大人向けの展示解説パネル(あんちょこ)をちらっと見る。空気抵抗だけではなく、浮力を感じる実験ができることがわかる。子供と一緒に学ぶことができたのではないだろうか?

事例:ラビレットの不親切?な展示

ビデオが流れている。怪しい風貌のおじさんがでてきて、中央が固定されている30センチ四方の正方形の鉄板に、やおら細かい砂粒を蒔き始める。表面がきれいに砂粒で覆われたところで、彼は右手にバイオリンの弓を持ち、突然鉄板の縁を弦のように弓で弾く。すると、か細い音とともに、砂粒がきれいな縞模様を描く。

ビデオの前には、映っているのと同じ鉄板と弓、それに砂箱が用意されている。ビデオを観た子供たちは、もちろんすぐに真似を始める。この展示は大人気である。

この展示の特徴は、種も仕掛けもない代わりに、種明かしもないことである。ビデオのように砂粒がきれいな縞模様を描くためには、砂粒をなるべく薄く均等にとか、共振がおきるような(音が出るような)弾き方にはこつがあるとか、一度に二人が弾いたらまずうまくいかないとか、そのような注意事項はいっさい提供されない。ただ、ビデオの中で怪しいおじさんが黙々と同じ動作を(当たり前だ)繰り返すだけである。

あきらめる子供たちも多い。しかし、注目すべきは、子供たちが何かヒントを得たときに、 周りの子供たちに伝えようとすることである。「ちょっとまって。これはきっとこうするんだよ。ほらほら、ちょっとだけなったでしょ」「あれ、どうやったの?」知らないもの同士が、会話を始める。

こういうときに、大人のコメントは無力だと感じる。科学はアートの要素を持っているとも感じさせられる。

事例:トム・ハンクスが誘う宇宙(ニューヨーク自然史博物館のプラネタリウム)

プラネタリウムの非日常的な空間は、それだけでどきどきさせられる。ドームに入る扉の前で、待たされているときから、なんだか興奮が高まってくる。

とは、なかなかうまくいかないものであるが、プラネタリウムのロビーが突然暗くなり、そこら中にあるモニターに何か文字が流れ、そして映画のように声が流れる。「ようこそみなさん。私はトム・ハンクスです。これから皆さんをこの広い宇宙への旅にご案内しましょう。宇宙の歴史は・・・」

このいわば予告編があって、それが終わった後にプラネタリウムへの扉が開かれる。誰もが胸をときめかせて前の進む。巧みな演出にただただ脱帽である。


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