[平野敏彦HP:2001/10/18]
キケロのチチェローネ −イタリアでキケロに出会うために−
「キケロCicero」は現代イタリア語表記では「チチェローネ Cicerone」となる。これが普通名詞として用いられると,「名所旧跡の案内人,観光ガイド」という意味になり,英語,ドイツ語,フランス語などにもそのままの形と意味で移入されている。観光案内人はキケロのように博識で雄弁(能弁・多弁)だというところから発展した用法であろう。
では,「キケロのチチェローネ」とは何か。それを説明するためには,私が作成した「キケロ・ホームページ」の話をしなければならない。そもそもの始まりは,私の所属する学部専用のインターネット・サーバが立ち上がることになり,教官の個人ホームページ開設が可能になったことであった。その時すぐにキケロをテーマにしたホームページを作成しようと思い立ったのである。
レトリックの理論的部分への関心からキケロの著作に取り組み始めて7,8年近くたっていたが,読めば読むほど,ヨーロッパの知的世界にキケロが与えている影響の大きさが感じとれるようになってきた。キケロを知らずして西欧を語るなかれという言葉がけっして誇張ではないほど,西欧文化のあらゆるところにキケロは浸透している。キケロの圧倒的な意義に気づくようになると,日本でのキケロの扱われ方に違和感をもたざるを得なくなった。日本におけるいわゆるキケロ学の不成立を招来した理由の詮索はともかくとして,もっとキケロに注目するように多くの人に呼びかけたい,その手段の一つとしてホームページも有効だと思ったのである。(その頃は岩波書店の「キケロー選集」の企画が進行中であることも知らなかった。)
ホームページの内容としてまず考えられるのは,年譜と著作一覧である。これはテキストだけなのですぐにできる。しかし,それではあまりにも芸がない。そこで,ギャラリー(写真館)のページも作りたいと考えた。簡単に作ろうと思えば,いろいろな本からスキャンしたものだけで構成すればよい。しかし,他人の写真をそのまま使うのは問題があるので,自分で撮影したオリジナルで埋めることしようと決めた。そして,ちょうどドイツのチュービンゲン大学で開催される「法と交渉」についての国際シンポジウムに参加する予定があったので,その帰途,ローマに立ち寄り,キケロの写真を集める旅を計画した。1997年4月のことである。
1週間の滞在ではよほど効率よく歩き回らないと目当ての写真を首尾よく撮影するのはむずかしい。だから,周到な準備作業が不可欠である。そこで手元にある旅行ガイドをはじめ写真が掲載されている和書・洋書をかたっぱしからひっくり返して,使えそうな被写体のある場所をメモし,ローマの地図に書き込み,綿密にスケジュールを立てたのである。
まず,古代ローマの遺跡群である。弁論家キケロの活躍の舞台であったフォロ・ロマーノ,その中でも演説台(ロストラ)は逸することはできない。次に邸宅のあったパラティウムの丘,アッピア街道などがあるが,これらについてはどのガイドブックにも書いてあるので,場所についての情報は比較的集めやすかった。(ただし,現存の遺跡には帝政期のものが多く,また復元想像図も同様であるので,キケロの時代つまり共和政末期に時代を限定した場合は注意が必要である。)
なければ困るのが,キケロ自身(の彫刻や絵画)の写真である。胸像の写真はこれまでに目にしたものだけでも何種類かあった。たとえば,岩波文庫版『義務について』(泉井久之助訳・1961年)にはフィレンツェのウフィツィ美術館蔵のキケロの胸像の写真が掲載されている。だが,このように訳者解説の中で所蔵館が謝辞とともに記載されており,無意識のうちにも記憶に残っている(だから,以前,ウフィツィに行った時にそれを見ようと探したが,古代彫刻の間は閉室中−−イタリアではよくあることである−−だったので,見ることはできなかった)場合は別として,写真の現物がどこに所蔵されているのかは,今までそれほど注意したことはなかった。
今回ははっきりと所在場所を確認しなければならないのだが,いざ探してみると,これが明示されていることが少ないのである。特に,日本の出版物はひどい状態で,出典表示についての鈍感さと情報提供の意識の低さがきわだっている。それに比べると,外国の出版物はきちんとしているものが多く,所在場所(地,館)のみならず,版権所有者や撮影者の名前まで掲載されていることもあった(翻訳書はそれを引き継いでいる場合が多いので,まだましである)。ともかく何冊かの本を照らし合わせて,ローマではカピトリーノ美術館とヴァティカン美術館にあることは確認でき,また,「カティリーナを弾劾するキケロ」(チェザーレ・マッカーリ作)の壁画は,現在イタリア上院になっているマダーマ宮殿にあることが判明した。
これだけの準備をして,普通のカメラとデジタルカメラ,それに8mmビデオをかかえて,ローマの町を歩き回った。ヴァティカン美術館にあることだけはわかっていても,古代彫刻を収蔵したキアラモンティ美術館には千体以上の彫像があり,その中から探し出すのも一苦労であった。また,ヴァティカン図書館には写本の展示があるかもしれないと思っていたが,期待通り実際に何冊かの写本を見ることができた。
カピトリーノ美術館のキケロは哲学者の間の隅に堂々と置かれており,見つけるのは簡単であった。この時撮影した写真が岩波書店版「キケロ選集」の宣伝パンフレットを飾ったものであるが,一般によく目にする,美術館で発売されている絵葉書のキケロ像とは別の角度からの数少ない写真である。
この旅での一大収穫は,イタリア最高裁判所前のキケロの立像の発見であった。あるガイドブックにはイタリアの法曹界の重鎮の巨大な像で飾られているとだけあり,この記載からキケロの像があることは読みとれなかった。ただ,ローマの市街地図をじっくりながめている時に,最高裁判所の裏側から北西にまっすぐ伸びている通りが「キケロ通りVia
Cicerone」と名づけられていることには気づいた。よく見ると,裁判所の左右の短い通りはそれぞれ「トリボニアヌス通りVia
Triboniano」と「ウルピアヌス通りVia Ulpiano」という名になっている。ローマ法の知識があれば,前者がユスティニアヌス帝に市民法大全の編纂を命じられた法学者,後者がその中の学説彙纂(ディゲスタ)に最も多くの法文が収録されている法学者にちなんだ命名であることは即座にわかる。ここまでくると,1911年に完成した最高裁を中心とする空間演出者がローマ法の権威を活用しようというねらいは伝わってくる。
俄然,その演出家がどのような法律家を選択したかに興味がわいてくる。わくわくしながら正面に回ると,ファッサード中心の玄関上には巨大な正義の女神像が鎮座し,その下の玄関扉の右手には古典ローマ法の世界で最高の権威をもつとされる法学者パピニアヌス,左手にはなんとわがキケロの全身立像があるではないか。法学者と(法律家ではない)弁論家を裁判所の玄関の左右に配するというこころにくい発想は,ローマ法の故地でないと生まれないものかもしれない。実は十体ある像のうちに弁論家はもう一人いて,それはリキニウス・クラッスス(キケロの対話篇『弁論家についてde
oratore』の主人公)の座像で,一番左端に位置する。(それに対応する一番右端の座像は,ローマ法学ではその名を知らぬ者なしの重要人物ガイウスである。)
このようにローマでは,遺跡でなくても古代と現代の直接的な連続性を感じることができるが,そのもう一つの例が前述したマッカーリの壁画である。前述のマダーマ宮殿に上院がおかれたのはイタリア王国成立後の1871年のことである。その一室に元老院をテーマにした壁画を新しく描くことになり,コンクールの結果,マッカーリが選ばれたのである。彼は古代ローマの元老院に関する5つのエピソードを主題にし,5人の人物を(今はマッカーリの間と呼ばれている)広間の4面の壁に描き上げた。マルクス・パピリウス,クリウス・デンタトゥス,アッピウス・クラウディウス・カエクス,アッティリウス・レグルス,そしてキケロである。実はローマの元老院はsenatus,イタリアの上院はsenatoであり,壁画のテーマの必然性はあるのである。(上院と訳さず,元老院という訳語を用いれば,連続性は一目瞭然である。ちなみに,アメリカ上院もsenateである。)この壁画はいつでも見れるわけではないのだが,幸運なことに私のローマ滞在中にイタリア上院の一般公開の日があったので,長蛇の列を並んだ後,見ることはできた。(だが,上院内部での写真撮影全面禁止であったので,写
真を入手することは断念せざるをえなかった。)
こうして集めた写真をどのように配列するかを考えていた時に,ふと思いついたアイデアが「キケロのチチェローネ」である。つまり,キケロ関連の画像を紹介するついでに,それらをどこで見ることができるかの情報を提供するいわばローマの観光案内とドッキングした形で並べようというのである。このように古代のローマと現代のローマを重ね合わせてみると,ヨーロッパにおける文化の継承と連続性を,つまり自前の文化をもつ西欧の底力と自信を実感せざるを得なくなる。こういう日本人が西欧に向き合うときに忘れてはならない視点をも感じとってもらいたいと思うのである。
なお,このホームページを作成することにより私のレトリック理解は,新たな一歩を踏み出したようである。すなわち,材料集め(inventio),見せ方の順序(dispositio),背景・説明・リンクやフォントのサイズとカラーについての工夫(elocutio),ファイルへの保存(memoria),ページの公開(pronuntiatio)という具合に,レトリック理論はサイバー・スペース時代のホームページ作成にも通用する規則を教えてくれていたということが認識できたのである。人間が表現する動物である限り,レトリックは不朽不滅であり,キケロの著作も読み継がれるにちがいない。
この文章は,岩波書店版「キケロー選集 第9巻」(1999年12月)に添付されている「月報4」8-12頁に掲載したものに,少し手を加えたものである。