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                                            広島芸術学会会報 第111号

 

 

古典の肖像画について
三木 島彦

  ドナルド・キーン氏によれば、渡辺崋山の描く肖像画は、精緻で写実的で、従来の日本の肖像画とまったく違う(2007年9月2日放送NHK日曜美術館)。歯を見せて笑っている武士(友人)を描いている点も、発想が当時の日本人にないものであり、ヨーロッパでも珍しいという。氏の論では伝統的な日本の肖像画である同時代の孝明天皇像との比較もなされ、よく分かり見事な論証であった。近世ヨーロッパの肖像画は、誰にもこれは絵だと分かるのだが、写真のように精細で、リアリティーの意味をそこに認めてしまう。
 尊崇や追悼の対象として理想化するのではなく、生きている人間の個性を描き分けるという意味での肖像画は、日本では12世紀の後半「似絵(にせえ)」から始まった。細い線を重ねるスケッチ風の描き方で、今日の新聞に載る政治家の似顔絵にも共通する。『公家列影図巻』の貴族たちも57人が同じ衣冠束帯、ポーズも同じという繰り返しだが、顔はみんな違っており、その中に平清盛も登場する。僧体の木像とはイメ-ジが異なる。
 鈴木春信や喜多川歌麿の描く町娘や美人画の女性を見て「みな同じではないか」と感じることもあるが、それでも描き分けている。歌麿の「当時三美人」で、三人の女性の顔(上半身)が三角形の構図で同時に描かれているが、難波屋おきた、吉原芸者の富本豊雛、高島屋おひさ、それぞれ目鼻立ちを微妙に変えている。気が強いとか、おとなしいとか、派手めの人であるとか、性格や人柄まで感じ取る人もいる。いわばアイドルのプロマイドだが、「リアリティー」という点で当時の人はこれで納得しており、喜んで買い求めた。
 ひとは美化されたり、理想化されたものをまず見たがる。写楽についての同時代の批評でも「あまり真に画かんとしてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行なわれず、一両年に而止む」(『浮世絵類考』)とある。写楽の人物の特徴を捉えた誇張を含めての写実やリアリズムの意味が理解できる。歌川豊国、勝川春章らも写楽と同じく、人気の歌舞伎役者三代目瀬川菊之丞を描いているが、菊之丞らしい特徴など基本は守っていても、この女形を美しい娘、類型的な美人画の表現で描いている。明治になって、ドイツ人のユリウス・クルトが写楽をレンブラントやベラスケスと並ぶ優れた肖像画家として絶賛し、それが今日に至るまでの国際的な評価となった経緯が思い出される。

(みき しまひこ・フランス語非常勤講師)



第94回例会・研究発表のレジュメ

研究発表①
伝統芸能の再評価と花柳界の芸能の現状
広島大学大学院 博士課程 中岡志保

 花柳界で三味線を柱として行われている芸能は、近年、いわゆる「伝統芸能」として扱われるようになってきた。この報告は、花柳界でのこうした芸能の位置づけの変容に注目し、調査データをもとに検討を試みるものである。
 はじめに、花柳界の芸能と比較して歌舞伎について検討する。歌舞伎は今日では、日本の伝統芸能の主流とされるようになってきているが、江戸期には、遊所と芝居小屋は悪所と言われていた。開国後の近代化のなかで、明治20年に天覧歌舞伎が果たされたことに象徴されるように、権威づけが行われ、「伝統芸能」になっていったという歴史がある。
 一方花柳界の歴史を見ると、維新後、新たに作られた新橋は、政府高官が利用したことから、一流の花柳界となっていく。大正期には舞踊のみで身を立てる者があらわれたことから、今日では花柳界のなかでも、客筋、芸能ともに一流と謳われている。
 明治期は、売春を業とする娼妓を遊廓に、芸を持って興を添える芸者を花柳界にと、明確に区分されたものの、花柳界は陰で売春を行う芸者がいるとして、取り締まりの対象になっていた。花柳界へのまなざしは、相反するイメージを内包し、それが現在につながっている。
 花柳界の芸能が日本の「伝統芸能」として注目されてきた今日、江戸期に生まれた悪所は、性的なイメージを排除し、芸能に権威づけられる方策を模索し、現代風に脚色した非日常空間へと変容しつつある。


研究発表② 
藤原佐理筆書状《頭弁帖》について
ふくやま書道美術館 学芸員 髙橋 哲也

 《頭弁帖》は平安時代中期の公卿・藤原佐理(九四四―九九八)が執筆した最晩年の書状である。佐理は当代随一の能書家として、『大鏡』の中でも「よの手かきの上手」、「日本第一の御手」と絶賛され、尊重された。しかし、本作品が代表作《離洛帖》とは筆致などを異にすることから、その比較によって後世の模写本とみる説もあり、成立背景や内容の研究が等閑視されてきた印象がある。そこで書風の特質および時代情勢を検証し、佐理の事績における《頭弁帖》の位置付けを明らかにすることを研究の目的とした。
 まず書風の観点では、「一墨之様」と表現される温雅でしなやかな筆線と遅速緩急を交えた線質に着目し、小野道風から摂取した和様表現に、王羲之書法が内在することを指摘する。だがそれは単純な模倣や融合などではなく、佐理の廷臣としての経歴や奔放自在で闊達な人間性が生み出したものと捉え、本作が和様書流成立過程における重要な作例であると結論づける。また従来あまり着目されることのなかった用筆や墨痕の視点にも着目し、模写本説に対する見解も示す。
 続いて、あらためて書状内容の解釈を行う。本作品の執筆年代について先行研究をもとに再検討した結果、佐理の上奏を抑留した人物が藤原行成であったことが証明される。また書状の宛先、上奏の真意など諸問題についての私論を述べ、《頭弁帖》が藤原佐理の生涯においてもきわめて重要な作品であったことを明らかにするものである。


研究発表③
美への追究――岡崎義恵の「日本文芸学」をめぐって
天津外国語大学日本語学院 准教授 皮 俊珺

 文学理論は「文学とは何か」を構築するための理論であり、根本的な問いを探求するものである。日本では、昔から日本文芸に関する論説、たとえば、歌論・連歌論・俳論・物語論・能楽論・戯曲論のようなものが少なくなかったが、それらはほとんど文学作品の個別的なジャンルに対して行われた研究成果である。文学一般が対象とされて、系統的な理論や研究に至ったとは言えない。一方、周知のように、現代の文学理論は古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『詩学』にまで遡ることができ、20世紀初頭におけるロシア・フォルマリズム、ドイツ文芸学、そして1930年代から40年代にかけてのイギリスやアメリカにおけるニュークリティシズムが本格的に取り組み始めたのだ。こういう意味では、もともとの文学理論とは、まったく西洋のものだと言えよう。
明治維新以来、西洋の哲学・文学・美学の著書が日本にたくさん訳されたり、紹介されたりするにしたがって、一般文学理論つまり文学の全ジャンルに共通の理論を研究するようになった。換言すれば、文学理論は、明治期の日本にとっては、舶来物らしい存在でしかなかったが、当時外来のものを学習し、日本文芸を個別に研究する以外にも、総合的な研究も増えてきて、より系統的にまとめられた日本なりの文学理論が確立されるようになった。
そのなかで、岡崎義恵の文芸理論(「文学」をいわず「文芸」を提唱するのはそれなりの理由がある)は注目に値すべきである。それは西洋の文学理論を受け入れながら、美学を基礎とする様式論的研究を企図して、独創性に富んだものであり、正面の「哀れ」に対し、背面の「をかし」をも強調しながら、日本文芸の美的範疇を模索してきたものである。


例会後の懇親会について

広島芸術学会の創立以来、長年学会のお世話をいただいております水島裕雅委員が、3月より千葉県に転居されることとなりました。つきましては例会後、懇親会と兼ねまして、水島先を慰労する会を開きたいと思います。多数ご参加いただきますよう、お願いいたします。



第93回例会報告

正月例会「春を寿ぐ」
(1月18日午後6時半から8時半、於懐石料理「豆 」)
金田 晉

 比治山の麓、市内電車道から少し奥まったところに懐石料理「豆匠」がある。都心にあるとは思えない閑静な料亭であり、玄関を通されて廊下を幾度も折れ曲がって美しい日本庭園を横目にしながら奥へ進むと、広い座敷がパッと広がる。そこで例会が開かれた。
 参加者18名。20年以上前の、まだ広島芸術学研究会とよんでいた頃の旧い仲間や今回入会したばかりの新人も加わり、新春に相応しい集いであった。豆匠自慢の新年用会席料理を賞味しながら談論を愉しむアッという間の2時間であった。通例の例会のあとの懇親会とはまた違う雰囲気であった。
 初めに金田がトップバッターとして、「正月」を、暦(こよみ)の方面から話した。太陽暦をそのまま受け入れているヨーロッパでは、正月は単なる1年の年代記的始まりにすぎない。だが世界の人口のほぼ半分が集まっているモンスーン気候帯のアジアでは、旧正月元旦(今年は2月3日)には特別の意味がふされ、現代でも大変な賑わいとなる。戦後高度成長下で日本の正月はますます形式化する傾向にあるが、日本の生活文化の継承のみならず、文学や美術や伝統文化の古典を理解するためにも、太陰太陽暦(月と太陽の暦)をもっと大事にしたい。バイカレンダーで実質をともなう正月を取り戻したい、そう話しを結んだ。
 しばらくの団欒を経て、一人持ち時間1分(実際は皆超過したが)で、それぞれの正月経験を披歴した。自らが経験したドイツや中国や韓国等の正月風景、国内の正月のお祝いの地域差が語られた。またおせち料理、特に雑煮の中に入れる餅のかたちなども蘊蓄のある比較論がなされた。また正月15日に行われる成人式の由来なども語られた。
 相手の話をよく聞き、そこに新しい話を加え、自分の経験したこと考えたことを他者と共有する思想に積み上げてゆく、その和気あいあいこそがぼくらの芸術学会のベースであるはずだ。それが本例会では実践された。誰に語るのかを念頭に置いた発言は、かならずそれを引き取ってより深めてくれる発言がつづくものである。
 このような例会はまたしたい、その気持ちを、萌芽的であってもよい、大事に育てるところにぼくらの芸術学会は立ちたい、と語り合った。例会に参加した面々が晴れ晴れした気分で帰ってゆく姿は印象的であった。

(かなた・すすむ 広島大学名誉教授)



第91回例会報告

野外例会「新緑の備北路を行く」
米門 公子

 2010年5月15日に実施された野外例では、備北文化の風を体いっぱいに吸い込もうと、マイクロバスをチャーターして備北路を駆けた。参加者は12名。
 まず最初に、尾道市御調町の出身で、日本彫刻界の重鎮、円鍔勝三(1905-2003)の作品が数多く保存・展示されている円鍔勝三彫刻美術館を訪れた。小高い丘の上に立つ同館の周囲には手入れの行き届いた美しい記念公園が整備されており、ゆっくり散策しながら館内に入る。折良く、受付に前館長がおられ、館内を案内してくださることになった。
 驚いたのは、円鍔は木彫を主流としながらも、さまざまな 材に挑戦し、作品を制作していること。そしてこのことが、自由な表現を生み出し、晩年の作品に至るまで、みずみずしさにあふれている。私たちは円鍔作品のすばらしさに改めて感じ入りながら、館を後にした。
 しばらく北に走り、次に訪れたのは分水嶺の町、府中市上下町。かつては幕府の天領として、また山陰・山陽を結ぶ石州街道の宿場町として栄えた。石州街道は別名、銀山街道と呼ばれ、当学会の野外例会で訪れたことのある石見銀山へ至る。旅人たちが賑やかに行き交ったことだろう。白壁の土蔵や格子戸の家が今だに残る町並みを歩いて いると、当時の繁栄ぶりが偲ばれる。私は、ぶらっと入ったお店「末広」に足止めされてしまった。以前は り酒屋だったという店の奥へ奥へと続くスペースに、さまざまな骨董品がぎっしり。中でも圧巻だったのは、三次人形。壁にうず高く積まれている。「平成8年に手元にあった3体の上下人形の展示を始めたら、人形が自然に集まってきて…」とご主人。約600体はあるそうだ。「ゆっくり見てみたい」と思いを残しながら、次の訪問地、三次市内にある「吉舎歴史民俗資料館・美術館 あーとあい・きさ」へ向かった。
 平成19年、「あーとあい・きさ」に新たに整備された特別展示室には、郷土の偉大な日本画家、奥田元宋(1912-2003)の“ふるさと吉舎に関わりのある作品”を中心に、展示がなされている。同室に人形作家である小由女夫人(1931~)の作品もあり、ほのぼのとした気分で、鑑賞させていただいた。併設の「吉舎歴史民俗資料館」では、三玉大塚古墳からの出土品や中世にこの地方を支配した「和智氏」関係の資料などが展示されている。
 最後に訪れたのは「三良坂平和美術館」。当地出身の洋画家、柿手春三(1909~1993)の作品を収蔵している。《荷車の歌》で知られる山代巴の記念室もあったので、見学した。
 駆け足の備北路ではあったが、郷土が生んた偉大な作家たちの足跡を辿る愉しく、充実した野外例会となった。

(こめかど きみこ・フリーライター)

 

                             

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