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                                            広島芸術学会会報 第126号

 

 

巻頭言

都市の記憶を繋げるために

   末永 航広島女学院大学教授

 

 このところ広島では、出汐の旧陸軍被服支廠の赤煉瓦倉庫(1913年)や本通りのアンデルセン(旧三井銀行1925年)など、「被爆建物」が壊されるのではないか、という話をよく耳にするようになった。関連する報道も相次いでいる。
 広島以外の人には聞き慣れないこの「被爆建物」という言葉は、広島でもそれほど昔から使われていたわけではないようだ。
 原爆ドームの保存が、長い議論を経て市議会の要望として決議され、ほぼ市民の総意としてまとまったのが戦後20年以上経った1966年だが、その前の62年に芸備銀行(広島銀行)本店、後の71年に住友銀行広島支店や広島流川教会など、わずかに生き残り、修理しながら使われていた戦前の建物がつぎつぎと解体されていった。
 保存に注意が向けられるようになったのは、市役所建て替え(1985年竣工)の際に保存すべきだという議論が起こり、1990年市議会が「原爆遺跡の保存を求める決議」を採択、それを受けて翌年市に「被爆建物等継承方策検討委員会」が発足したあたりからだったらしい。
 広島という都市にとって、戦前からの建物には、原爆を受けた物体であるという意味と、「消えた街」広島と現在を繋ぐわずかな絆というふたつの意味がある。前の方は一部を現地や博物館に保存する、いわばカケラ保存でもある程度有効だが、後の方は建物が生きて使われる必要があり、それができる例は今やほんとうにいくつかしか残されていない。
 ただ、原爆ドームが史跡・世界遺産になり、広島平和記念資料館と世界平和記念聖堂が戦後の建築として初めて重要文化財に指定されたからといって、その他の「被爆建物」にまで「我が国にとって歴史上、または芸術上価値の高いもの」(文化財保護法第2条)と定義されている国の「文化財」という概念をあてはめようとすると話が混乱する。
 広島にとって今大切なのは、国単位の「芸術上」の「価値」ではない。それを計るために持ち出される、よく残っているかどうか(「真正性」)などという尺度もあまり考える必要はない。
 こんなに美しく復興した街は、一方で古い町並みが一切存在しないという実に特異な都市でもある。これはたぶん日本では、徹底的な戦災を受けた広島と沖縄の那覇・首里だけだろう。
 「消えた街」の記憶を取り戻し、街に厚みを加えるには、首里城や広島城のように、あるいは最近の例では東京の三菱一号館のように、一から復原再建するのも時にはいいかもしれない。だが、残っているのが一部分であっても、何度も改築を受けていたとしても、大胆な復原や改造をすればいい。現に生き残ってきた建物をこれからも街の一部として生かしていくことが、何よりも大切だと思えてならない。
 国や他所の人たちに頼るのではなく、これは広島自身がやり遂げるべき課題ではないだろうか。

 

105回例会報告

 

研究発表報告①

 ファン・ゴッホの初期作品における色彩および技法―《農婦》の非破壊科学調査の内容について―

発表:重藤嘉代(ウッドワン美術館学芸員)

報告:農澤美穂子(広島大学大学院総合科学研究科)

 

重藤氏の発表は、経年変化と加筆によって変わってしまったゴッホの《農婦》(ウッドワン美術館所蔵)について、科学調査を用いたオリジナルの技法や絵の具の解明を通して、その人生と同様に激しい色彩や荒々しいタッチのために激情型といわれるゴッホの、絵画に対する理性的な側面を解き明かす内容であった。

とくに興味深かったのは、元素と色味から絵の具を特定することによって、ゴッホが、絵の具をパレットの上で混ぜて作ってからカンヴァスに載せていたということが判明したという点である。さらに、《農婦》を描いたオランダ時代、ゴッホは、「暗い」「厳しい」「真面目な」「男性的な」などという形容詞を自身の絵画に用いていたという。また、《農婦》を含め、オランダ時代のゴッホ作品は、《馬鈴薯を食べる人々》を描くための、ゴッホの絵画研究の成果なのだと述べられた。氏は、このことから、ゴッホが、色彩、主題ともに、非常に考えた作品作りをしていたことを指摘された。

今回は、美術館での発表だったため、ひろしま美術館学芸員の古谷氏とともに、実際に《農婦》と再現模写を前にしたギャラリー・トークも行なわれた。調査時の色見本を提示しながらの解説に、一般の観覧者も興味津々で耳を傾けていた。このように、今回のような調査は、美術館の展示においても新しい切り口を与えてくれ、さらに、画家の新しい側面に迫るために必要不可欠なものであると言えるだろう。少なくともゴッホは、重藤氏が指摘されたように、その理性的な側面が示されたように思われる。

 

研究発表報告②   

 廃墟/遺構を観光する ―ダークツーリズムと「美」的体験のはざま―

発表:楊 小平(広島大学大学院国際協力研究科 客員研究員)

報告:土肥 幸美(広島芸術学会会員)

 

 楊氏の発表は、「死」や「災害」といった、人間にとって耐え難い苦難の体験を観光対象とする「ダークツーリズム(dark tourism)」を紹介し、廃墟/遺構の観光の実践とそこでの「美」的体験について論じたもので、具体的には日本と中国のダークツーリズムの事例を取り上げて比較を行うものであった。日本の事例としては広島の原爆ドームや広島平和記念資料館を、中国の事例としては日露戦争・日中戦争や四川大地震の遺構/記念碑等を紹介し、それらが日中の観光者にそれぞれどのような感情を喚起するか、どのような意味を持つかを紹介した。

楊氏の重要な論点は、苦難の歴史を象徴する廃墟/遺構が観光者にもたらす複雑な感情である。とりわけ中国人学生が広島を観光した際、広島の悲劇に共感する一方で日本の歴史観へ改めて疑念を抱いたという事例や、日中の異なった戦争体験者同士が対話をすることでお互いの悲しみや怒りの感情を共有することが可能になったという事例は、中国人で、広島の原爆体験の伝わり方について修士・博士課程を通じて真摯に研究されてきた楊氏ならではの視点で興味深いものであった。

一方で、楊氏の「美」的体験の定義やその範疇、分析対象には、整理の余地がまだ十分にあると感じた。これらを整理した上で、ダークツーリズムでの一言では言い表せない美的体験を明らかにすることは、苦難の体験者-非体験者間あるいは加害者-被害者間の和解や感情の共有への道を明るくすることにつながるのではないかと感じた。

 

● エッセイ

                                  袁 葉(広島大学ほか、講師)

(一)

「とうとう宿無しになってしもうた」

父親の溜息に、観客からクスクス笑いが起きた。

昨春上映された山田洋次監督の『東京家族』のワンシーン。瀬戸内海の島から上京した老夫婦は、子供たちの用意してくれた高級ホテルに一泊する。もったいないからと、二泊目をキャンセルし長女の家に戻ってみると、美容院を経営する長女夫婦は、その夜自宅で、町内の同業者たちと懇親会を開く予定だった。店舗を兼ねた狭い家なので… 結局、母親は末息子のアパートヘ、父親は幼なじみの友人宅へ「避難」することにした。

父親が久しぶりに友人と居酒屋で酌み交わしていると、

「今夜は泊まってもらいたかったが…。なにしろ、僕のやることに嫁はいちいちいい顔をしないんだ…ごめんね」と友人。

「上京の際には、ぜひ我が家に泊まって、心ゆくまで話そう」と、何度も手紙に書いていたのに…と行き場を失った父親に、ある中国人留学生のエピソードが脳裏をよぎった。

 

(二)

18年前、N大学留学中のK君は、国際交流のパーティーで同じ大学のあるOBと知り合う。「一見旧知のごとく」話は盛り上がり、別れ際に住所と電話番号を交換すると、そのOBは「ぜひ一度、我が家へ遊びにおいでください」と言った。

ある週末のこと、ピンポーンとOB宅の玄関のチャイムが鳴った。郵便配達か何かだと思って、ホームウェアのまま扉を開けると、K君が立っている。まだ留学生が珍しい時代に、突然の外国人訪問者…。

一方のK君も驚いた。というのは、中国人同士なら一瞬驚きはしても、よく来てくれたと喜ぶのが普通だからだ。だがOBは、戸惑いの表情を浮かべたまま「どうぞお上がりください」と口にした。

居間で手土産を渡したあと、ぽつりぽつりと言葉を交わしたが、前回の会話の盛り上がりがまるで幻のようだ。ついにK君が「じゃ、そろそろ帰ります」と切り出すと、「せっかくですから、もう少しゆっくりしていきなさい」と引き留められた。「その時僕は、そのまま居るべきか、やはり帰った方がいいか、本当に分からなかった」と。

ありがちな失敗談だ。おそらくOBとすれば、事前に電話の一本でもくれたなら、庭に打ち水をし、部屋をピカピカに掃除し、ご馳走も用意してあげられたのに…と思っただろう。他方、K君としては、一留学生だし、現地の気の合う人と話をするだけで、勉強になるし嬉しい。手厚くもてなされてはかえって心苦しいので、あえて連絡しなかったと思う。

せっかく好感をいだいた異国人同士、親睦が深まるところだったのに…。

ところで、日本の知人や友人から「転居のお知らせ」が届くことがある。その度に、日本の習慣に疎い外国人がこれを受け取ったら…と心配になってしまう。それらの「お知らせ」には決まって、「お近くにお越しの節は、どうぞお気軽にお立ち寄りください」などと書かれているからだ。

 

(三)

数年前、NHKのテレビ番組「関口知宏の中国鉄道大紀行」が毎週放送されていた。中国人でさえあまり知らないローカル線に乗り、気ままに途中下車する旅である。

真冬のある日、村人のお婆さんに声をかけ、しばらく立話をすると、「外は寒いから中にお入り」と誘われる。家の中に家具らしきものはほとんどない。お椀に白湯を入れて出してくれた。

「家醜不可外揚」(家の恥を外へ知らせてはいけない)という中国の諺がある。「家徒四壁」(家具一つなく壁があるだけ)同然の家の中を、外国のテレビの前にさらすのは、メンツを重んじる中国人にとって実に抵抗のあることだ。

一方、中国人は「好客」(お客好き)という国民性も持っている。遠路遥々足を運んできた人に、何かしてあげたい気持ちが強い。「有朋自遠方来、不亦楽乎」(朋有り、遠方より来たる。また楽しからずや)という孔子の言葉どおりである。

 

(四)

93年、私の日本人の友人Hさんは、「春休み、台湾に里帰りします。ぜひ我が家へ遊びに来てください」という留学生Lさんの言葉を胸に、機上の人となった。

中国語は「ニイハオ」、「シェシェ」しかできないHさんは、台北の空港で、出迎えの人だかりの中から自分を呼ぶのが聞こえた時、頼みの綱を掴んだ思いだったという。

Lさんに導かれて乗った車は、なんとジャガーだった。運転するのは彼女の兄、助手席に兄嫁。その後ろにLさんと座って、この「熱烈歓迎」ぶりに感激したHさんは、日本で質素な生活をするLさんが、実はお金持ちなんだと大興奮。 

「着いた」と聞いて目にしたのは、ごく普通のアパートだった。家族と夜遅くまでお喋りしたあと、「晩安」(お休みなさい)と言って兄夫婦は隣の部屋へ。こちらのダブルベッドでは、Hさんが端っこ、次にLさん、さらにその隣はお母さんとお父さん。

「一つのベッドで4人も?」と耳を疑う私に、「2LDKなんですもの。さすがに初日は緊張してよく眠れなかったんですけど、でも、車を持つお兄さん夫婦は私を案内するために帰っていて、お母さんは毎日料理の腕を振るってくださって、なんだか申し訳なくて…」と、目元が潤んできたHさん。 

            

(五)

日本では付かず離れずの関係を好まれ、「親しき仲にも礼儀あり」と言う。また、仲の良い間柄を「仲間」という。「間」を重んじる国民性の一面が現れている。

一方中国語には「親密無間」という、隔たりがないほどの良い関係を喩える熟語がある。

人口密度の高い日本で、他人との距離感を持ちたがるのは、摩擦を避けるためなのだろう。この「間」の感覚から生まれた「本音と建前」を使い分ける文化は、外国人には理解しにくいものだ。しかしながら、この文化がこの国に根付いているということは、「和」を保つための大和民族の知恵ではないかと思う。

それにしても、この「間」に関する日本と中国の正反対の感性は、大陸のおおらかさと島国の繊細さの違いによるものかも知れない。どっちが良いか悪いかというものではなく、外国に行けば、何といっても「入郷随俗」(郷に入れば郷に従え)に限る。この中国にも日本にもある先人の教えを心得さえすれば、外国人同士でも仲良くなれるはずである。

 

● 美術館レポート

海外美術館事情~パリ編2:展示壁面の色

古谷可由(公益財団法人ひろしま美術館)

 

以前、パリのオルセー美術館が改装オープンしたことを報告した。作品の配置や照明に大きな変更がなされている。もう一つ大きな変化に気づく。展示壁面の色が変わったことである。もともとオルセー美術館は駅舎を改造して作られていたため(?)、当初は石造りの駅舎の石の色、すなわち白色を基調にした壁面であった。それが、今回、濃いグレーとグリーンとに塗りかえられたのである。

オルセー美術館といえば、印象派を中心にした近代美術の殿堂と知られている。日本からも、数々の有名な印象派の絵を見るためにこの美術館を訪れる人は多い。印象派は、光を取り入れた明るい画面がその特徴である。画面を明るく保つために、下地(グランド)に白色を使うことも多い。そのため、展示壁面が白色であることに誰も(少なくとも私は)疑問を抱かなかった。

ところが今回印象派の画家たちの部屋はほとんど濃いグレーの壁面にされた。聞くところによると、今回の改装で導入予定の照明(自然からの間接光を含む)と、数々の色に塗られた壁面を使って、繰り返し実験を行った結果であるという。意外にも、印象派の作品をもっともきれいに明るく見せるのは、濃いグレーの壁面だったのである。

すでにご覧になった方もいらっしゃると思うが、どれだけこの壁面の色の改装に気づかれているであろうか。気づかないほど馴染んでいるともいえる。パリの方の話によると、展示の順路や照明、撮影禁止という変更箇所に対する賛否がさまざまに議論されるなか、この壁面の色についてはほとんど意見を聞かないという。

壁面に色がついていること自体も、それほど不思議なことではない。ルーヴル美術館など、かつての宮殿を転用した多くの美術館は、壁面に「色」がついている。なかには、さまざまな模様の入った壁紙の上にそのまま展示されている場合もある。それでもなんの違和感もない。絵画は(彫刻も)、もともと宮殿や貴族の邸宅に飾られ、その他の調度品や意匠とともに、部屋の雰囲気を作る重要なアイテムとして使われていた。むしろ、白色を基調とした単色の壁面に飾られる方がめずらしいのである。最初から美術館という無機質な空間に、作品の(あるいは作家の)主張を込めた芸術作品が置かれることを想定した現代美術(もちろんまったく別の空間を想定する場合もあるが、その場合でも作家側がその場所を想定しているところに特徴がある)は、逆に、作品・作家のその意志を尊重して、白色あるいは壁が自己主張をしない淡白な壁が望まれてきた。

しかし、ここにきて、近年新たに作られた美術館は、展示壁面に色や柄を用いるところも現れてきている。旧来の美術館でも、展覧会によっては(なかには展覧会ごとに)展示壁面の色や柄を変える場合も増えてきた。この点でも欧米では、さまざまな試みがなされている。まだまだ少ないが、日本でも、最近、常設展示室の壁を塗り替えたり(色や柄をつけたり)、特別展ごとに塗り替えたりする美術館が出てきた。それぞれの好みもあろうかと思うが、その都度、壁面の色や柄に注目して展覧会を見るのもひとつの楽しみであろう。

 

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─事務局から─

 

・封筒のリニューアルについて

 一昨年秋の第119号より、会報の版型をA4に改めていましたが、今号より、封筒についても、従来のものの在庫が無くなったことを機にサイズを変更し、合わせて、デザインも新しいイメージでリニューアルをいたしました(会報用紙についても、色をマイナーチェンジしています)。今後は、この新しい封筒で会報や年報をお届けしていきます。

 

・会員名簿作成について

当学会では従来、会員名簿を作成、配布しておりましたが、個人情報保護が社会的な課題となったことをきっかけに、発行を取りやめてきました。しかしながら、近年、名簿の発行について会員から希望が寄せられるようになりました。委員会で検討した結果、会員相互の交流に資することや、情報保護への意識が深まってきていること等を考慮し、会員に承諾いただける必要最小限の情報で名簿を作成、配布することにいたしました。今年度の事業計画にはなかったことではありますが、今年6月には委員改選の選挙も実施することになっておりますので、会員情報の整理のためにも名簿作成は有効と思われます。皆様のご理解をお願いいたします。

 具体的なことは、後日、改めてご説明、お願いをいたしますので、その際はご協力くださいますよう、お願いを申し上げます。                         

(事務局長菅村 亨)

─会報部会から─

 

・チラシ同封について

会報の送付に際して、会員の方々が開催される展覧会・演奏会などのチラシを同封することが可能です(同封作業の手数料として、1回1000円をお願いいたします)。会報の発行時期が限られるため、同封ご希望の場合は、あらかじめ下記までお問い合わせください。次号の会報は、4月発行の予定です。

                                                             (馬場有里子082-225-8064baba@eum.ac.jp

 

 

研究発表募集

本学会は、随時、研究発表を募集しています。研究発表申し込み手順については、下記をご参照ください。

その他詳細は事務局までお問い合わせください。

(1)研究発表主題、600字程度の発表要旨に、氏名、連絡先、所属ないし研究歴等を明記の上、

事務局宛てに、郵送またはE-mailにて、お申し込みください。

(2)委員会で研究発表の主題および要旨を審査の上、発表を依頼します。

 

 

次回第106回例会のご案内

 

下記のとおり第106回例会を開催いたします。お誘いあわせの上、多数ご参加ください。

 

日時:201431日(土)14時~17時

場所:広島大学総合科学研究科/総合科学部(東広島キャンパス) 東広島市鏡山1-7-1

    教養教育本部棟、第一会議室(2階南端)

   ※ アクセス案内:http://www.hiroshima-u.ac.jp/top/access/higashihiroshima/

   ※ 構内周辺マップ:http://www.hiroshima-u.ac.jp/add_html/access/ja/saijyo4.html

バス停「広大西口」下車すぐ、正面の建物が教養教育本部棟です。「正面玄関」から入った上階が

第一会議室のある2階になります。当日は、付近に案内表示を設置します。

 

研究発表① 明治後期諷刺漫画における病気の表象:『東京パック』と梅毒を中心に

ロナルド・G・スチュワート(県立広島大学生命環境学部准教授)

研究発表② 『図本叢刊』の成立とその周辺

田中 伝(海の見える杜美術館学芸員)

 

<発表要旨>

明治後期諷刺漫画における病気の表象:『東京パック』と梅毒を中心に

この発表は明治後期諷刺雑誌の漫画を通じて当時の病気に対する社会的(文化的)態度を探る試みです。明治後期に発行された漫画雑誌は欧米漫画雑誌に範をとっていたため、この雑誌の漫画は従来の日本の諷刺画とはずいぶん異なりました。しかし、使用されている象徴および比喩、ユーモアなどの西洋漫画と異なる面もありました。この面で当時の文化的(特に都会文化の)考え方がある程度示唆されています。これらの漫画雑誌によく表れるテーマの一つは病気です。この漫画を見て、急激に変化しつつあった当時の社会の病気に対する考え方が見えるでしょうか。変化を窺えるでしょうか。この発表では、明治後期に人気を博した雑誌である『東京パック』(1905—1912)の漫画に窺える様々な病気の表象を紹介してから、その病気の一つである梅毒に注目します。日本における梅毒の文化史(医学史)研究を取り上げながら、明治後期漫画にある梅毒の描写でこの病気にたいする社会的な態度の変化が反映されているかどうかを考察します。この社会的・文化的態度を浮き彫りにするために欧米の梅毒史を簡単に振り返り、米国の19世紀はじめのメディアのなかの梅毒像も紹介し、日本の諷刺漫画と比較します。最後に『東京パック』およびもう一つの明治後期諷刺雑誌『滑稽新聞』に掲載された元老(当時韓国統監であった)伊藤博文(18411909)を諷刺する漫画に見える梅毒の表象を見せながら、この梅毒表象の意味をより深く探る予定です。

 

『図本叢刊』の成立とその周辺

 日本と中国大陸両地域の長い交流の歴史の中でも、20世紀初頭の文化交流は、特に盛んであった。その中でも1920年代の日中の美術交流は、空前絶後というべき活況を呈していた。こうした潮流の中心的人物に、東洋美術史家の大村西崖(号帰堂、1868-1927)がいた。大村は、その該博な知識によるのみならず、上海や北京に在住する文人、画家、収蔵家らと交誼を結ぶことによって、地理的・歴史的にも幅広い視野で東洋美術史を論じることができた数少ない日本人のひとりであった。大村の主要な業績のひとつに出版事業があり、多くの美術書籍の刊行に携わったことが知られる。しかし大村がその晩年期、漢籍の復刻事業に精力を傾注したことは、ほとんど注目されてこなかった。本発表では、大村が1923年から1926年にかけて編輯・出版を手がけた稀覯な絵入り漢籍の復刻叢書『図本叢刊』を取り上げる。

 本叢書は、刊行の初期段階においては、日本に所蔵される漢籍を原本としていたが、その後海を隔てた中国で所蔵される漢籍を復刻している。こうした復刻作業遂行の背景には、大村が計画した日本・中国両地域の画家の親善を目的とする美術クラブ「西湖有美書画社」の設立に関わる、大村と上海の人士とのつながりが存在する。大村の『図本叢刊』刊行事業を通して、当時の日中間の文化交流がどのような様相を呈していたのか、またその目的が何であったのか、さらに後世にいかなる影響を及ぼしたのかを指摘する。