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                                            広島芸術学会会報 第131号

 

 

巻頭言

芸術の力で死者の魂と応え合う時空間を──被爆70周年の広島における表現者の課題──

柿木(かきぎ)伸之(のぶゆき)広島市立大学国際学部准教授/哲学、美学

 

 シェイクスピアの『リア王』において主人公のリアは、嵐に身を(さら)して怒りを爆発させたのを決定的な契機として狂気に陥る。そして、彼の現実が崩れていくのと軌を一にして、彼の二人の娘の手に渡った王国も滅んでいく。殺害された末娘の遺骸を抱くリアの目に映る凄惨な破局は、物語のうえでは一つの王国の滅亡を告げるものではあるが、それは同時に、世界そのものの崩壊をも象徴しているように思えてならない。

 人間は、みずからの悪や狂気によって、自分の世界を破滅へ導いてしまう。そのような人間の根本的な愚かさを仮借なく描くシェイクスピアの悲劇を基に、広島出身の作曲家細川俊夫は、オペラ《リアの物語》(原題は“Vision of Lear”1998年初演)を書いている。2015130日と21日に広島市のアステールプラザで行なわれたその広島初演へ向けて、主催組織であるひろしまオペラ・音楽推進委員会の委員の一人として、プログラム・ノートを執筆したり、日本語字幕の制作をお手伝いしたりした。

 今回の《リアの物語》の公演は、能舞台を使って行なわれた。このことは、夢幻能の精神を生かすかたちで書かれた細川のオペラにとって必然的とさえ言えよう。能に触発された振り付けや舞台演出を行なっていて、細川の《班女》の舞台も手がけたこともあるルーカ・ヴェッジェッティによる演出は、能舞台に相応しい簡素さと象徴性を兼ね備えたもので、それによって、沈黙と発語のあわいにある息遣いを独特の歌として響かせる細川の音楽が生かされるなか、恐ろしいまでの静けさに貫かれた悲劇が繰り広げられた。

 このような舞台を届けてくれたヴェッジェッティがある時、広島の地に漂う魂たちも集まってくるような舞台を創りたいと語っていたのが心に残っている。その言葉は、広島で、その能舞台と向き合うなかで発せられたひと言だった。夢幻能においては、ある時の(ま)に出現する死者の霊魂が、みずからの生を、そこにある苦悩を、凝縮されたかたちで物語る。その言葉が立ち上がるとき、死者とともにある空間が、舞台上の演者と観客のあいだに開かれることを念頭に、彼はそう語ったのだろう。

 細川の《リアの物語》では、強烈な打撃音によって時の流れが垂直的に断ち切られたところに生まれる(ま)から歌が響き始める。先日の公演でも、これに共振する空間が、生者の世界の裂け目として開かれたわけだが、そこには、今から70年前の広島で世界の崩壊のただなかにいた死者の魂が回帰していたにちがいない。こう考えるとき、どうしても思い出されるのが、人々の顔貌に「生の割れ目」が見えるまでに、原爆の犠牲となった死者の嘆きに刺し貫かれるなかから、それを反響させる原民喜の「鎮魂歌」である。

 この長編詩において原は、死者の記憶が不意に甦ってくるのに耳を澄まし、言葉をその嘆きが木霊(こだま)する媒体に変えているが、そのような「鎮魂歌」がその詩としての強度において響くところにも、死者とともにある場が開かれるだろう。あるいは、被爆という出来事の核心に迫った視覚芸術が、その衝迫力を発揮するところにも、その出来事の中心に巻き込まれた死者の魂が回帰しうるにちがいない。

 芸術の力を発揮させることによって、広島の街に今も漂う鎮まることのない魂たちが集う場を、死者を忘却しながら破局を繰り返してきた歴史の流れを中断させて今ここに切り開き、爆心地という世界の崩壊のグラウンド・ゼロで、死者とともに生きられる世界を再構想する出発点に立つこと。これが被爆から70年の年に、広島の地で表現に携わる者に課せられていることではないかと考えている。

108回例会研究発表報告 ※編集者のミスにより今号への掲載となりましたこと、お詫び申し上げます。

いちえプロジェクト第二回公演  「ぼっけえ、きょうてえ」鑑賞会

報告:松田 弘(前広島県立美術館学芸課長)

 108回例会は、国の名勝 縮景園にある茶室、清風館で開催された一人語り公演「ぼっけえ、きょうてえ」の鑑賞会であった。この公演は、日本ホラー小説大賞、山本周五郎賞を受賞した、岩井志摩子の同名の怪奇文学作品を、演出家 髙瀬久男が一人語りの形式で舞台化したものである。出演者の竹元恵美子にとってこの公演は、四年前の国宝不動院での公演に続いて二回目となった。

 内容は、明治時代の岡山の遊郭で働く女郎が自らの生い立ちから現在までの半生を語るもの。寝つきの悪い遊郭の客に語り掛ける形をとるが、客との会話はなく、独白に終始する。主人公の女郎は、生まれたときに実の母親に自宅のそばの川に捨てられるが、奇跡的に生き延びた。父と母は実の兄と妹で、禁断の恋の末、裕福な生家のある四国から岡山の津山の寒村まで逃避行し、主人公を生み落す。飢餓と貧困と村人からの差別の中、母は、その村の住民達のまびきを請け負う産婆のような仕事をし、主人公もその手伝いをさせられる。父は娘に性的虐待をし、母はそのことに気づいていた。父はあげく主人公に殺されることになる。

また、主人公の左の頭部には小さな人面が生まれつきあり、これが別人格を有している双子の姉だとして、時々この姉に語り掛ける。主人公はこの姉のことは隠していたが、成長して遊郭の女郎に売られた時、自らが犯した窃盗の罪をかばってくれた同僚の女郎を殺害する。理由はその女郎が主人公の頭部の人面のことを知ってしまったからだ。物語は、主人公がもう少しで年季明けになり、その時は生まれ故郷の津山に帰りたい、と言うところで終わる。

なんとも怖くやりきれないストーリーである。明治時代の農村の貧困、近親相姦、性的虐待、尊属殺人、無垢な同僚への不条理な殺人。ここには古くて新しい問題が溢れている。この救いようのない状況を、竹元氏によれば、一人芝居という演じることが主となる形式ではなく、言い換えれば俳優としての演技の個性が主眼となる形式でなく、演技過多にならず、物語との距離感を保ちそれを忠実に語る、という一人語りという手法の可能性に今回は挑戦されたという。とはいえ竹元氏の語るその肉声が主人公の存在感を引き立て、演者と物語の主人公が重なり、時空を超えてそこに実際に主人公の女郎がいるかのような気持ちにさせられたことも報告しておかなくてはならないだろう。

音楽担当の加藤健一氏の演奏するギターの響き、遊郭の一室を模したシンプルな舞台装置、語りの展開に沿った照明など、制約の多い清風館の室内を巧みに使った舞台演出は成功していたと思う。清風館の外を歩く入園者の方々の物音や声が、時々会場内まで聞こえてきて、鑑賞の妨げになったうらみもないとはいえないが、それも含めて縮景園の中での公演であり、その一回性を感じることになった。

公演の終了後、例会参加者の中の有志5人と竹元氏とで、輪になって和やかに懇談した。演技を終えて間もない俳優から直接お話を聞くことができ、興味深い体験となった。会員からいろいろな質問がなされ、それに竹元氏も誠実に答えられたが、私が印象に残ったのは、なぜ俳優として演じるのか、という趣旨の質問に対して、今まで気が付かなかった自分に会えるからだ、というものがあった。この時、私は人間の存在の複雑さと奥深さを垣間見た思いがした。

また、観客は60名以上いたと思うが、会場の物理的条件の関係で演者から数メートル前の至近距離にも観客がおり、近すぎて気にならないか、という質問に対して、個々の観客の反応というよりも全体として観客の反応に刺激され、それが演技を後押ししてくれたり、それによって自分の中で気持ちが深まることがあるという趣旨のことを言われた。まさに、演劇は演出、演者、音楽、舞台美術、そして観客を含めたその劇空間との相互交感作用によって成り立っているものなのだ、ということを改めて認識することができた。

作品名「ぼっけえ、きょうてえ」は岡山弁で、「すごく怖い」という意味である。ホラー文学、歴史的名勝地での一人語り、そして生身の俳優の存在感が混然一体となった例会であった。

 

109回例会研究発表報告

研究発表報告① ジャン・コクトーとフランソワ・トリュフォーの映画に見る作家性の系譜

発表:安部孝典(関西学院大学大学院文学研究科研究員)

報告:桑原圭裕(関西学院大学文学部助教)

 主に20世紀前半に活躍したフランスの芸術家ジャン・コクトーとヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督フランソワ・トリュフォーは、「呪われた映画祭」の開催や映画制作の資金提供などで親交を深めていたことはよく知られている。しかし、意外にもこれまでそれぞれの映画作品が比較されることはなかった。安部氏は二人の映画作品から「時間操作」という共通した特徴を指摘することで、ヌーヴェル・ヴァーグにおける作家性のコンテクストでコクトーとトリュフォーの関係を考察した。

 発表ではコクトーのオルフェ三部作にしばしば使われる逆再生の手法は詩的な表現であり、彼の映画監督としての作家性でもあると示された。一方、トリュフォー作品には様々な形態のストップ・モーションが用いられていることから、従来のトリュフォーへの評価には前衛的な表現が見過ごされてきたことが指摘された。さらに安部氏はトリュフォーの『突然炎のごとく』(1961)と『家庭』(1970)の2作品から、一つのショット内で映像を断続的に見せる複数回のストップ・モーションに着目し、ムーシナックのリズム論に照らし合わせながらその効果を解説した。

 コクトーとトリュフォーを「時間操作」という映像表現だけで同一視することはいささか強引な印象が残った。しかし、未だに曖昧な規定が残る「ヌーヴェル・ヴァーグの監督達」に、一世代前の監督からの繋がりという新たな枠組みが提示されたことは評価される。また、そのこと以上にトリュフォー作品に従来の評価とは異なった視座が提供されたことや、その先に据えられた映画のリズムとモンタージュの問題など、今後の研究の発展が期待できる発表であった。

 

研究発表報告② 建築写真のモダニティー、あるいは新即物主義のリアリズムについて

発表:山下寿水(広島県立美術館 学芸員

報告:桑島 秀樹(広島大学大学院 総合科学研究科 准教授)

 山下寿水氏の発表は、メディア等で紹介するため極力ノイズを排除した「建築写真」のもつ特異なアート性を探ろうとする斬新なものだった。なお、「ノイズ」とは、住居としての建築にまつわる生活感や諸々の情緒といえよう。「建築写真」の成立は、純粋化を旨とするモダニズムの産物である。氏によれば、建築写真のこうした特性を熟知し、自己の建築に巧みに利用したのが、モダニズム建築家の嚆矢ル・コルビュジエ(たとえば《シュウォブ邸》1916年)であるという。

 議論の後半は、こうした「建築写真」的な芸術実践を、1920年代の新たな美術館のあり方、さらに、当時勃興してきた芸術思潮に照らして検証しようとするものだった。氏はまず、1929MoMA開館にともなう「ホワイトキューブ」(無機質な展示壁面の美術館)の成立にふれ、続けて、同じ頃ドイツで起こった透徹したリアリズム運動「新即物主義(Neue Sachlichkeit)」(1923年マンハイム美術館のGF・ハルトラウプ提唱)に論を進めていく。

 氏は、勤務先の広島県立美術館が所蔵するアレクサンダー・カーノルトの油彩画《静物》(1925年)を引き合いに出しつつ、その静的で緻密に構成された画面に認められる非装飾性・無時間性・箱型空間性を挙げ、そこに「ノイズ」の排除を指摘する。むろんここで、ある種のホワイトキューブ性、ひいては「建築写真」的特性との近似が示唆されるわけだ。

氏によれば、新即物主義絵画(特にカーノルト)には、「空間恐怖」「ヴァニタス」といった一種の不気味さも漂うという。とすれば(氏はそこまで言わないが)「建築写真」の許にある無機質なモダニズムは、翻って考えれば、ある種の「不気味さ」(フロイトのいうUnheimlichkeit)を漂わせているのか。こうした点へのさらなる探究が今後期待されるところだろう。

発表後の質疑では、他の論点として、192030年代アメリカの「科学技術的崇高」写真家M・バーク=ホワイト作品との比較、さらに、17世紀以来の伝統的な静物画手法とカーノルトなど新即物主義絵画との連続性/非連続性といった問題にかんする質問もあり、氏の発表内容がもつ拡がりを感じさせた。

入野忠芳・ヒロシマを生きた画家レッカともえたジャガイモのために(連載第2回)

                              大井健地(広島市立大学名誉教授)

(3)県立美術館新収蔵7作品

 予定を変更して7点の入野忠芳(1939-2013)の作品に触れる。というのは広島県立美術館「新収蔵作品展」で現在公開中(2階3室、2015年4月19日まで)であるからだ。作品を前に拙文を点検してもらえるならありがたい。なお参考までに、同展・展示解説チラシには「1950年代の初期作に始まり、日本の学園紛争や中国の文化大革命などに象徴される先行き不透明な社会を反映した1960年代の作品や、戦争体験を直接的に絵画化した《浮遊》、大地の崩壊を描き、「裂罅」を予感させる《大地》、さらには晩年の「流形」シリーズまで、画業の各期を代表する作品となってい」るとある。

 

①《広島三菱のクレーン》’55。茶褐色小品。「1955.1.2 T.I.」の署名。

②《原爆ドームの内壁》’56。茶褐色空間・白壁。ドーム内部を描きのこす意識。実景描写。彩色はモノクロームで戦後的暗さ。①②10代の初期作。

③《不確かな行方》’67。中央に柄のない赤い傘(22個)が横に並ぶ。ということはある種の行進を示す。無音無言のデモンストレーション? 主流にはならない、いずれは雲散霧消の、意識的マイノリティー集団。その上部にいわば方解石族鉱物群斜方晶系の軟弱崩れ形体あるいは菱型状断面を見せるヘンな層雲が張り出している。下部にはヒト(18体)を思わせる形象。横長構図の効果は寓意性の強調故か。

④《不確かな行方―待つ―赤》’69。③と同題だが図像は同様ではない。線描による巻雲形態が上部。水面(と思われる)を挟んで左にヒト型が4体、背を見せる。“対岸の火事”を暗示するか。

 ③④のタイトルに関し(また次の⑤の内容を含め)、写真界の同時代新事象に注目したい(以下、鳥原学『日本写真史(上)』による)。196811月創刊から69年8月までに3号刊行された写真同人誌「provoke」(中平卓馬、多木浩二、森山大道ら)はモノクロ写真の“アレ(粒子の粗さ)、ブレ、ボケ”の表現を提起した。その活動総括誌(70年3月)のタイトルが『まずたしからしさの世界をすてろ』。捨てた確かさの先、不確かな行方は奈辺か? 多木は「70年を境にして、われわれが抱いていたようなラディカルな思想というのが退潮期に入っていく」と回想する。

 入野忠芳の写真観や「provoke」への見解などは未詳だが、現状拒否の新しい表現動向のうねりに共感はするだろうし、自らもそうしたうねりを形成する側に身を寄せるだろう。不確かな行方を模索する同時代の共通、共有の事象としたい。

⑤《浮遊》’70。幻惑的レバー状肉塊の如き妖しいお化けくらげが空を飛ぶ。濃紺の空の地にホワイトの陰画描写がある。ヒトの立ち姿だ。5人か。空との区切りの山の端には不分明だが倒れたヒトがいるのかもしれない。これら虚ろなヒトビトの図像にヒバクシャを思い浮べるべきか。仏画に釈迦八相という図像があり、とりわけ降魔相は興味深い。入野《浮遊》で魔はこの妖怪赤クラゲである。そしてこのクラゲは③の赤傘に発生の由縁を持って浮遊し、さらに傑作《裂罅》イメージを招来せしめた、ブヨブヨの不可思議物体である。

 《浮遊》下部には、水もなく土もなく、しかも見渡す限り丈だけ均一に生育した有機的植物性のくだくだしい青チューブとその上に、顔も体もみせず全身をピンクのマントで覆った(それは哀悼の身ぶりか)ヒト型、あるいは胚芽状型の生命体20余が見られる。非現実、非調和な色彩用法で、青とピンクの対比が目に痛い。が、この部分、画画下部3分の1は本当に必要だったか。過剰な説明、煩瑣を産んでないか。上3分の2だけの造形性で充足できるのではないか。漂う赤い肉クラゲのみで充分魅せられるはず。それが《裂罅》登場の道筋となる。

⑥《大地》’73。淡彩。ひきちぎられた木材が積み重なる。最上部に北方系のパノラマ風で細密描写の山岳と平地の眺望図。この「ひきちぎられた」形に《裂罅》誕生前夜を予想するのは順当。木材をひきちぎること、それは実際には到底、無理。だが絵画は異様な強力を創り、尋常ではありえない幻惑の大怪力を発揮する。これが絵画の力だ。⑥までは美術史の上で一応「シュルレアリスム」と概括できる画風。入野さんと例えば灰谷正夫らとの交友はどうか。

⑦《流形90-5’90。白地に白っぽい線描主体の図像。活動する線と変容する立体の仕組み。早いスピードの線が赤紫の色味を伴って陰りを加え立体感を与える。むくむくと生動し湧出する異次元の気体。入野忠芳はオリジナルな画風を作りえた。

 たったの7点でも故人の生涯と時代を背景に鑑賞すると劇的な思いにさせる。それだけの内容がある。

 

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─事務局から─

平成26年度1月入会者(敬称略)

  桑原圭裕(くわばら よしひろ)(映像研究、アニメーション)

会員情報変更等

  ご住所、ご所属等、会員情報の変更がありましたら事務局へお知らせ下さい。事務局宛

 郵便またはメール(hirogei@hiroshima-u.ac.jpでおいいたします

                              (事務局 菅村 亨)

─会報部会から─

 

・チラシ同封について

会報の送付に際して、会員の方々が開催される展覧会・演奏会などのチラシを同封することが可能です(同封作業の手数料として、1回1000円をお願いいたします)。ただし、会報の発行時期が限られるため、同封ご希望の場合は、あらかじめ下記までお問い合わせください。次号の会報は、4月上~中旬の発行を予定しています。

・催し等の告知について

会員の関係する催し等の告知についても、会報への掲載が可能です。こちらについても詳細は下記までお問い合わせください。

           (馬場有里子090-8602-6888baba@eum.ac.jp

 

 

110回例会 開催会場の周辺地図

広島大学学士会館マップ

                         

JR西条駅からバス「広島大学」行きに乗り、

「広大中央口」下車

 

 

 

 

 

 

 

― 次回第110回例会のご案内 ―

 

下記のとおり第110回例会を開催いたします。

日時:2015315日(日) 15001720

会場:広島大学学士会館2階 レセプションホール

  (〒739-0046 広島県東広島市鏡山1丁目2-2 ※ 前ページに周辺地図を載せています

 

<研究発表要旨>

ベアトの富士山オリエンタリズムから読み解く明治日本

              石本理彩広島大学大学院総合科学研究科博士課程

 近代化されつつあった明治日本において、あえてプリミティブな文化を前面にだす写真を撮影したベアト。その象徴として背景に描かれた富士山。それはかつて、西欧人が中東のエキゾチックな風俗を、モスクやアラベスク文様とともに捉えたのに近似している。

  日本初期写真史において最も重要な写真家の一人であるベアトと、最も重要な被写体の一つ富士山という組み合わせを選び、その図像をサイード的オリエンタリズムの視点から読み解くことで、ベアトが富士山をどのような意図で用いていたのかを抽出し、そこから欧米の人々に植え付けられていったであろう日本イメージを検証することが本発表の目的である。さらに、明治期の国際関係において、それらが産業として商業的に十分な役割を果たした一方で、精神的に果たした役割が何であったかを論じたい。

 研究方法として、第一にベアトの富士山の写真の中から、ジャンル別に分類し、その代表的なものを図像分析する。次に、同時代に来日したユーグ・クラフトの写真と比較検討することで、ベアトの富士山の特性について考察したい。

 

中国における「幽玄」の解明―用例研究を中心に―

        鄭子路(Zheng Zilu広島大学大学院総合科学研究科博士課程

「幽玄」は日本の中世文芸のみならず能楽論においても、重要な概念の一つであり、「もののあはれ」、「わび」、「さび」、「いき」と共に、日本美の典型、または「日本的なるもの」と見なされている。しかし、「幽玄」は、漢籍に由来する複雑な用語また概念である。従来の研究者の努力によって、日本の歌論や能楽論における「幽玄」の使用状況は、相当に解明されているが、不明の箇所も残り、とりわけ中国における「幽玄」の使用法はまだ明らかにされていない。例えば、能勢朝次氏は『幽玄論』において、「幽玄という語は、最初は仏教学者によって、仏法の深遠奥妙で窺測し難いという意を示すに用いられていたという事実がある」(思文閣、1981年、204頁)と指摘したが、最近の調査では、この認識が誤解である証拠も出た。

「幽玄」の最初の用例を「どこに求められたらよいか」という問題の追究はそんなに大切ではないかもしれないが、日本の「幽玄」を考察する時に、まず中国における「幽玄」の原義を理解することには意義があり、避けられないことでもある。

筆者は中国の古典文献を網羅した『四庫全書』(1781年)を調査し、三百カ所以上の用例を見いだした。これらの用例は宗教経典から一般典籍にかけての様々な領域で出現し、かなり規範的に使われていた。

本発表では、これらの用例に基づいて、中国における「幽玄」の用例を時間順・ジャンル別に整理し、その意味、用法を吟味する。特に『古今和歌集・真名序』(紀貫之905年)の成立以前の時期に於ける中国漢籍に於ける「幽玄」の原義、またそこに含まれる美的意味の解明を試みる。そのことで、日本への移入による変容等を探る基盤としたい。