無駄なことの重要性


2021.3 

最近の学生は,決して本質的な部分で劣っているとは思えないのだが,我々からの指示や疑問,示唆といったものに対する反応が期待したものとかけ離れたものに なっていることがある.
いろいろと考えてみた結果,ひとつの解釈として,学部時代,高校時代(受験を含む)(あるいは中学も含めて)に効率の良い勉強しか体験してこなかったのではな いか,無駄な 努力をしてこなかったのではないか,ということを思いついた.

たとえば,大学への受験勉強で難しい数学の問題が予備校の課題としてあったときに,予習として,ある方法で解いてみて挫折したら,別の方法で解いてみるといっ たさまざまな試行錯誤を繰り返す.
正解までたどり着かなかったとしても,授業で解説を聞いたときに,自分の試した方法がある程度正しかったり,全く間違っていたり,という確認のプロセスを通し て理解をする.
予習に時間を長く取られるが,その試行錯誤の訓練は単にその問題の正解を導く方法を理解するだけではなく,その問題への深い理解や別の問題に対するアプローチ への足がかりを与えてくれる.
ここで効率の良い勉強といっているのは,予習で見通しが悪ければ途中で諦めてしまったり,授業で習った正解の方法を復習で覚えるような勉強法である.
予習では,試行錯誤することが省かれるので時間的には短時間で済み,解説された解答も理解できるのだから,同じ問題に対する効果は一見同様の結果を生むように 思える.
しかし,費やした努力や足掻きというものは全く別の効果を生み出すのだと思える.

大学の卒業研究や大学院の研究では,教員が正解を知っているわけではない.
そのため,教員は間違っている可能性も含めて,さまざまな考え方や疑問,示唆を与える.
それに呼応するだけの本人の土台がなければ,それらの教員の言葉は理解できないだろう.
比喩するならば,大きな壁を登ろうと一生懸命努力しているひとには,ほんの少しの手助けで壁まで届かせることができるが,全く努力していないひとには大きな踏 み台を用意しないとと登らせることができないということである.
自分自身で研究のいろいろなことを考えている土台があって,始めて教員の指示や考え方を受け取れる.

餌をもらうひな鳥のように口を開けていれば,解答を与えてもらえるわけではない.
もちろん,学生たちも解答を与えてもらえるはずだから口を開けていよう,と考えているわけではない.自分自身で考えることの重要性も理解している.
ただし,「頭で重要性を理解する」ということと普段から「実行する」ということの間には大きなギャップがある.
そのために,長い期間をかけて,「無駄になるかもしれない努力として自分なりに一生懸命足掻いてみる」「いろいろな解釈や疑問を考えてみる」という土台を築い ておくことが大事だと思う.

いまからでも遅くない.
無駄な努力(かもしれないこと)をするような癖をつけてもらいたい.