プロフェッショナルとして振る舞う


2019.3 修了する学生に

社会人になって大事なことはなにか,という質問を卒業式後の宴席で大学院を修了した学生から受けた.

パッと思いつくことは無かったが,呑みながら考えているうちに,一つの答えが浮かび,それを答えた.

プロフェッショナルとして振る舞うこと.

私は,これが社会人として基本的なことで,会社や仕事だけではなくさまざまな場面に適用できると思う.
プロフェッショナルとして振る舞うということは,自分自身の能力を生かし,やるべき勤めを果たすことである.

そのとき,自分自身の能力が十分であるか,否かは問題ではなく,自分自身が持っている能力すべてを利用する必要がある.
それは大学や大学院で学んだ内容であるかも知れないし,その後新たに学んだ内容かも知れない.
体力であるかも知れないし,何かの仕事を任されたときに,新しく学びつつある内容かもしれない.
ある仕事をやる必要がある時に,既に持っているあるいは今から獲得する能力をすべて使って,仕事をするということがプロフェッショナルである.
プロフェッショナルというと,ゴルゴ13のように,ある道に長けた能力を持っており,その能力を駆使する仕事をおこなうことのように考えがちであるが,会社員であれ,パン屋であれ,能力を発揮させることができることがプロフェッショナルである.
特別な能力は必要ない.
ましてや,その仕事に対して責任は持つにしても,仕事の結果の優劣は関係ないと思う.
世の中の仕事で,ある特定の人だけにしかできない仕事というものもほとんど無く,多くの人がすべてマッチした仕事をしているわけではない.
しかし,能力を生かして責任を持ってやる中で,結果はそれなりにでるものであり,ベストマッチを探して仕事が進まないよりは確実に優れた結果を生み出すはずである.

また,プロフェッショナルとしては責任をもって仕事を遂行すべきである.
面倒になったから途中で投げ出すことや手抜きをすることは,プロフェッショナルではない.
仕事の結果が出ないという恐怖心,尻切れトンボになる恐怖心,投げ出したくなる誘惑,手を抜いて楽をしたくなる誘惑,こういったものに打ち勝って,結果はどうあれ,最後までやり抜くことがプロフェッショナルとしてもやるべきことである.

実は,このようなことは仕事以外の場面においても同様である.
広島大学の大学生,あるいは卒業生は,優れた勉学の機会を享受し,すぐれた能力を獲得しているはずである.
別の言葉でいえば,エリートあるいは教養ある人間であるはずである.
したがって,普段の生活においてもそのような人間としての能力を使って,「プロフェッショナル」的に生きていくべきである.

教養あるエリートがどのように振る舞うべきか.
社会において,差別や不正義を看過することは許されないし,できる限りさまざまな人々が公正・公平に生きることが社会を実現するように生きるべきだろう.
先日にも選挙があったが,こういった機会に対しても無関心では許されないし,ましてや無知が許されるはずもない.

プロフェッショナルとして,一人の人間,教養人としていきること.
これを目指すことを伝えたかった.