統合・平準化の歴史としての五十年

新制大学の特徴をひとこと言えば、統合により、帝国大学・医科大学・高等学校・専門学校・師範学校のように格差付けられた多様な旧制高等教育機関を共通の「大学」に昇格せしめた平準化であるということになろう。中でも、旧制大学(広島文理科大学)、旧制高校(広島高等学校)、旧制専門学校(官立である広島工業専門学校、公立である広島市立工業専門学校)、旧制高等師範学校(広島高等師範学校、広島女子高等師範学校)、旧制師範学校(広島師範学校、広島青年師範学校)を母体に発足し、公立医学専門学校から昇格した県立医科大学がのちに統合して成立した広島大学は、まさしく新制大学の象徴的地位を占めている。被爆から創設に至る大学関係者の労苦は並大抵ではなかったろう。

しかし、その広島大学が、1960年代の東千田・東雲・霞キャンパスへの統合を経て、90年代には西条地区に再統合を果たし、ほとんどすべての学部に大学院博士課程を設置し、大学の大学たるゆえんである学位授与権を確立するのだから、驚くべき成長である。広島大学の戦後史は、多様な起源を持つ旧制諸高等教育機関が、さまざまなジレンマを抱えつつ統一を志向する歴史であり、旧制度との連続・断絶の視点が不可欠である。単に戦後五十年を射程に入れるだけでは、広島大学を読み解くことはできないだろう。

実現しなかった可能性 −帝国大学への道もあり得た?
「学校整備方針」複写
学校教育局のまとめた「学校整備方針案」の複写。「極秘」の印が写真右上にある。 占領軍も考えていた総合大学設置

ところで、歴史の面白みは、実現しなかった事柄の持つ意味を知ることでもある。『広島大学二十五年史 包括校史』は、広島県会が大正4(1915)年に中国帝国大学の設置意見書を提出し、翌5年には帝国議会で中国帝国大学設置請願が採択されたことを記述している。戦前の帝国議会では、九州・東北帝国大学設置建議(明治32年)、東北帝国大学設立建議(明治35年)、北海道帝国大学設立建議(明治32年、同34年、同44)、北陸帝国大学設立建議(明治44年)などが採択され、そのいくつかは実現していた。しかし、中国地方に帝国大学はついに出来なかった。

だが、戦後、その可能性がなかったわけではない。実は、文部省は中国地方に帝国大学の創設を検討していたのである。「極秘 学校整備方針案 学校教育局」は、田中耕太郎文部大臣の下で、文部省が昭和昭和21(1946)年10月頃まで検討し、省議まで経ていた戦後の学校制度の改革案である。そこでは、既存帝国大学の学部整備とともに、「外地に於ける帝国大学等の廃止の実状並に我が国の帝国大学の地理的分布の実状等を考慮して北陸地方、中国地方に帝国大学を設置する」と明記している。この文書は、当時文部省調査局長であった辻田力氏の資料中にあり、辻田氏のペンで「愛知大学 金沢帝大」と記入があり、「中国地方」の次に「及四国地方」と加筆していた。旧来の七帝国大学に加え、十帝国大学を創設するプランがあったのである。ただし、この帝国大学が、岡山地方だったのか、広島地方だったのかは定かではない。

占領軍も考えていた総合大学設置

「極秘 学校整備方針案」は、当時発足していた教育刷新委員会を無視して進めていたので、民間情報教育局(GHQ/CI&E)と教育刷新委員会の批判を浴び、いつしか立ち消えになってしまうが、金沢・中国・四国に帝国大学を設置するアイデアは、その後も存続したらしく、意外なことに占領軍自身の手によって登場する。それは、ボード・オブ・エデュケーション(教育委員会制度)の導入に抵抗する文部省や教育刷新委員会にしびれを切らした民間情報教育局が、昭和22(1947)年12月に提示した"SUGGESTIONS FOR REDRAFTING THE BILL FOR CITY AND PREFECTURE BOARD OF EDUCATION"(Trainor Papers)である。そこでは、文部省の権限に関し、次のように規定している。

"National universities will be under the direct control of the Ministry of Education, but they will have a large degree of autonomy. Seven universities are now to be classed as national universities; Hokkaido, Tohoku, Tokyo, Nagoya, Osaka, Kyoto, and Kyushu. Three additional national universities may be established at the proper time; Kanazawa, Chugoku and Shikoku regions".

この文書は、十国立大学以外を地方教育委員会に移管するもので、いわゆる国立大学の地方移譲問題として、文部省はじめ日本側関係者を震撼させるのだが、実は、中国地方に帝国大学と同レベルな基幹大学を設置するという方針でもあったのである。

実現しなかったプランの意味
「国立広島総合大学設置申請書」
写真の「国立広島総合大学設置申請書」(昭和23年7月25日付)が、最終的に広島大学のあり方を決定づけた。

昭和23(1948)年5月頃には、文部省内で新制国立大学の編成原則がほぼ固まるが、その直前にこのような文書が占領軍から提示されたことは、中国地方に帝国大学レベルの大学を設置することに、占領軍・文部省とも暗黙のうちに共通の理解があったものと思われる。実際の新制大学は統合であったが、もし、帝国大学として設立されたらどのような形態になっただろうか。広島大学の五十年史編纂にとって、実現しなかった構想にも光を当て、現実にたどった道の意義を見直すことも重要な役割ではないだろうか。

〔1998 年 12 月 22 日〕