第5章の[課題]を解く上でのヒント

 (ご意見などは、yynomura@mx.biwa.ne.jpまでお寄せ下さい。)


1.

小学校時代に算数の問題を解いたときのことを思い出してみよう。
最初は解けなくても、解き方を先生から教えられて解けるようになり、間違った答えも、どこが間違っているか先生から教えられて解けるようになります。そして、一旦、問題解決の方法を習得すれば、その後は同じような問題で繰り返し間違えたりすることはほとんどありません。外国語の習得でも同じようなことが言えます。

ところが、ことばの獲得は、子どもの置かれている条件と獲得のプロセスという点が、大きく異なっています。第一に、子どもが間違った言い方をしても、まわりの大人たちがそれを訂正しようとして正しい用法を懇切丁寧に教えようとすることは、まずありません。第二に、数のような抽象的概念やゲノムといった生命現象に関する知識を習得していく過程では、教えられていない事柄はいつまでたっても頭の中に浮かんではきません。ことばの獲得では、教えられたことのない複雑な表現でも、子どもはいつのまにか言えるようになります。第三に、最初に用法を正しく使用できた子どもが、その後、文法的に誤った用法を用いるというデータがあります。横山(1997)では、日本語の助詞の獲得をもとに次のように述べられています。

「助詞の誤用は最初から現れるわけではなく,少数の正用の助詞が出現したあと,1歳代の末から正用と共存して現れ,その後消失して正用だけが産出されるようになることを示唆している(後略)」(141頁)

  参考までに、助詞の誤用例を同書から借用させて頂きます。最初は置換誤用の例、次は付加誤用の例です。

・シンカンセンガ ノリタイ  [ニ→ガ]
・新幹線に乗りたい。   (2歳2ヵ月3日)
・マルイノ ウンチ
・丸いうんち。      (2歳0ヵ月26日)




2.
例文(4a)、(4d)の句構造はそれぞれ以下のようになります。

(4a)

    VP
  /   \
 NP      V'
  |   /   \
 du  NP      V
     |       |
    das      haben


この段階では、時制句TPはまだ獲得されていません。次の(4d)では、時制句が獲得され、さらに節(CP)まで投射が進んでいます。tは痕跡(trace)を表わし、ichはtjの位置からTPのSPEC位置に移動したことを示しています。
 (4d)

      CP
    /   \
 SPEC      C'
   |    /   \
 da i  C       TP
      |     /    \
   bin k   SPEC     VP
           |      /   \
        ich j   NP     V'
                 |    /   \
               t j  Adv      V
                    |        |
                  t i       t k




3.
ドイツ語や英語など空主語が不可能な言語タイプの集合Aが、日本語やイタリア語など空主語が可能な言語タイプの集合Bの部分集合となります。

       

B

A




空主語が可能な言語とは主語があってはならない言語、という意味ではありません。
主語が語彙的に空でありうる、ということです。日本語はそのような言語です。

1)a. 彼ハ オナカガ スイテイル。
b. φ  オナカガ スイテイル。

ところが、ドイツ語では一部の口語的表現と、非人称のesを用いた特定の構文を除き、主語はつねに語彙的に表示されます。

2)a. Er hat Hunger.
(彼はお腹がすいている。)
b. *φ hat Hunger.

したがって、論理的には、主語をつねに語彙的に表示するような言語タイプは、主語を語彙的に表示してもよく、表示しなくてもよい言語タイプの部分集合となります。
ただし、ここで重要な点は、空主語パラメタに関してのみ、AとBは包含関係にあるということです。それ以外のパラメタ値についても、Aという言語タイプがBという言語タイプの部分集合をなすというわけではありません。

こうした議論については、Wexler and Manzini 1987 を参照して下さい。「部分集合の原理(Subset Principle)」と「独立の原理(Independence Principle)」が論じられており、英語やアイスランド語の再帰代名詞の獲得について部分集合を用いた考え方が示されています。さらに詳しく知りたい人には、次のニ書が参考になります。前者は原理とパラメタのアプローチをベースにしていますが、むしろ言語の獲得がテーマになっています。後者の内容は相当高度であり、学習可能性に関する理論の現状が概観できます。ただし、このニ書に言語発達の観察記述を期待してはならないでしょう。

・Atkinson, M. 1992, Childrenユs Syntax: An Introduction to Principles and   
Parameters Theory.
Blackwell: Oxford.
・Bertolo, S. 2001, Language Acquisition and Learnability. Cambridge Univ. Pr.: Oxford.




4.

否定証拠が必要となります。以下の条件を前提にすると、その理由が理解できます。

i) 習得者を取り巻く言語環境は目標言語Tから成り立つ。
ii) 言語獲得には肯定証拠(例:文法的な文)が必要となる。
iii) 肯定証拠は目標言語Tの中に存在する。
iv) 仮説言語Hには目標言語Tを含まない部分(補集合)がある。
v) 仮説言語Hは否定証拠(例:非文法的な文)も含みうる。

ここで、習得者が仮説言語Hという集合から言語獲得をスタートしたと仮定しましょう。目標言語Tという集合に移行するためには、補集合を排除しなければなりません。つまり、その補集合が目標言語Tには属さないことを示す証拠が必要となります。ところが、習得者が目標言語Tの中に見出すことのできる証拠は、−母親などから誤りを指摘されない限りは、−肯定証拠です。ですから、この肯定証拠のみにもとづいて、否定証拠を含みうる補集合を排除することは、論理的には不可能となります。したがって、否定証拠が必要となります。




5.

チョムスキー理論で唱えられる生得仮説とは異なるアプローチのうち、代表的なものとしてはコネクショニズムがあります。とくに概念獲得や語彙の意味獲得などで興味深い説が展開されています。これは、主に認知心理学で活発に研究が進められているテーマですが、理論言語学と密接に関わる研究テーマであることは変わりません。ちなみに、今井むつみ(編著)(2000)には次のようなことが述べられています。

「この新しいコネクショニストの枠組みでは、人間の知性の生得性をすべて否定するのではないが、「知識」の生得性は否定する.この考えにおいては、生得的なのは、領域固有のアーキテクチャーと学習アルゴリズムにおけるバイアスである.」(同書、vi

  こうした考え(学説)に触れて、「(外国語としての)ドイツ語」という世界を越えて、ことばと人間との関わりという知的興味に溢れた広大な世界にアクセスすることは、このHPを訪問された熱心な読者の方々に委ねたいと思います。