広島大学学長
牟田泰三先生に聞く

しっかりと夢を見よう。それが現実になると信じて。

「泣いて帰ってくる子は家に入れない」

 生まれ育ったのは九州の久留米。駅前の駅弁屋が私の実家で、今は妻の兄が継いでいます。もともとは祖父が旧国鉄(JR)の駅長をしていて久留米駅を最後に定年退官した関係で、そこで開店したのがきっかけだったそうです。

 私は一人息子で、小さな頃はひどくわがままで乱暴者でした。幼稚園くらいから身体が大きく、近所の子どもたちをひきつれてのし歩いていた、俗に言うガキ大将です。別のグループの子たちとはよくけんかをして、時には泣きながら家に帰ることもありました。ところが母はそんな時は「泣いて帰ってくるような子は家に入れん」と玄関をしめてしまう。懸命に泣きやみ、涙をふいてからようやく戸をあけてもらった経験も、一度や二度ではありませんでしたね。

 母は武家風の厳格な教育を受けた人でしたから、常に人間としてこうあるべきだ、社会に向かってこういう態度をとるべきだというようなことを厳しく言っていました。勉強よりもむしろ精神面でのしつけを大事にした人で、その影響は大きかったと思います。

ガキ大将から「仏のムーちゃん」へ

 とはいえ、私のような子どもは、学校ではとても扱いづらかったと思います。なんといっても規格に合わない生徒でしたから先生方からは、はっきり言って嫌われていました。今は見た目がおだやかで「物わかりのいいやさしい学長」というイメージがありますが(笑)、本当は今でもそういうきかん気なところが隠れているんですよ。子どもの頃はそれがすべて表に出ていて、いろんなところでぶつかったり先生にも嫌われたりしてきたんです。しかし、そのうちにわがままをやりすぎると結局自分に返ってくるということをだんだん学習していくんですね。高校生くらいからはずいぶん丸くなって、大人になる頃には何でもウンウンと聞いて決して反対しないということで、「仏のムーちゃん」といわれるようになりました。たいした進歩でしょう(笑)。

長所を伸ばしてくれた恩師

 また、私自身が変わるきっかけを与えてくださった先生もいました。小学校五、六年を受け持ってくださった香田先生は、初めて私のよい面に目を向け、伸ばそうとしてくださいました。それがきっかけで私自身いろんなことに自信を持って取り組めるようになったのです。そのひとつに福岡教育大学附属中学の受験がありました。それまで私たちの小学校からはほとんど誰も入ったことがなかったのですが、先生のご指導のもとで五人が受験し、私を含め二人が合格しました。

 理系の学問に心ひかれたきっかけも、香田先生の影響です。視聴覚教育にも熱心で、五年生くらいの時に初めて鉱石ラジオづくりを教えてくださった。これがよく聴こえたんですよ。原理はよくわからないなりに、これは凄いとラジオに興味を持つようになりまして。次はもう少し高度な部品を親に買ってもらい、ラジオ雑誌で配線図を見ながら格闘しました。試行錯誤の末に初めてスピーカーからちゃんとした音が聴こえてきた時はとても嬉しくて、絶対将来はラジオ技師になろうと思ったのです。

目標に向かい勉強一筋

 以来、ずっと自分はラジオ技師になるんだと思いこんでいましたが、いよいよ大学受験の時期になり、より現実的に将来を考える必要が出てきました。その時初めて、はたしてラジオ技師で本当にいいのかと原点に返って考えてみたんです。そしてひょっとしたら自分はじっくり学問がしたいのではないかと思い至りました。その時に頭に浮かんだのが、私が小学生の時にノーベル賞をとった湯川秀樹博士のことでした。自分もあんなふうになれたらと憧れを持ったことを思い出し、それなら物理だと、高校三年になったとたんに九州大学の理学部物理学科をめざすことに決め、猛勉強を始めました。

 それまでは受験と言ってもたいした苦労もせずに過ごしてきた私でした。しかしぼちぼち受験戦争という言葉が生まれ始めていて、学校では九州大学に現役で入るならそれなりに努力しなければならないという空気が広がっていて、私もまさに「ガリ勉」と化した一年間を過ごしました。おかげで無事、翌春は希望通りに九大へ進むことができました。

「ガリ勉」でめざめた学問への熱意

 さらに一年間の受験生生活は、私自身に思いがけない変化をもたらしました。やってみてわかったのですが、自発的にやったガリ勉というのはクセがつくんですね。その生活パターンが身についてしまう。だから大学入学後も勉強していないと不安で、授業でとったノートを自宅で全部書き直して完璧なものをつくることを習慣にしました。そうして地道ながらも講義を完全に自分のものにしていったことは、当然のごとく成績にも反映しました。当時は大学の期末試験の成績が事務室の前に張り出されていたのですが、試験後にみんなで見に行くと私が一番になっている。友達に感心されたおかげで、ますますやめられなくなってしまった(笑)。四年間そんな生活が続いて、ますます自分には学者が向いているのではと思うようになりました。

親の思いに応えられなかった後悔

 一方、両親はというと、私には大学に行くよりもむしろいい商売人になって店を継いで欲しいと願っていました。しかも父が早くに病気になって、実質仕切っていたのは母でしたから、特にその思いは強かったようです。それを、高校の時は「大学まで行かせてくれたらあとは家のことをやるから」と頼んで進学させてもらった。そして結果的にはさらに勉強を続けたくなり、上に進んで学者になってしまったのです。

 母は大学院に進みたいと告げた時にはさすがにショックを受けていましたが、最終的には子どもが望む方向に進んで社会に役立ったらそれはそれでいいと理解してくれたようでした。もっとも、本音では商売を継いで欲しかったようで、その期待に応えられなかったことはとても申し訳なかったと思っています。

精鋭の秀才たちにもまれて

 大学院に進むにあたっては先生に相談に行き「物理の基礎的な研究がしたい」という希望を話して、素粒子論をすすめられました。それはまさに、湯川秀樹先生やのちにノーベル賞をとった朝永振一郎先生が活躍されている分野でした。よし、私も後世に残るような研究がしたいと奮い立った結果、東大の大学院に進むことになりました。

 東大を受けたのは、九州大学のやむをえない事情で外に行くしか仕方なかったからなのですが、結果的にはそこでもまれたのがよかったのだと思います。東大はそれまでの和気あいあいとしたのどかな雰囲気とは全然違って、全国の俊英が集まってしのぎをけずっている所。とてもかなわないような人が山ほどいました。おかげで当初はとてもショックで、いかに自分がお山の大将であったかを思い知らされました。相当ストレスもありましたが、始めたからには逃げて帰るわけにはいかない。子どもの頃泣いて帰ったら母に家に入れてもらえなかった経験がここで生きたのかもしれません。

 負けてたまるかと努力して、最初はついていくのが精一杯だったのが気がつけばみんなと一緒に走っていました。結局、能力に差があるわけではなく、どれだけ経験を積んでいたかという差だったんですね。あれだけもまれると、どこへ出ても怖くない。おそらく誰にとっても、このように何かを死に物狂いでやる時期が必要なのだと思います。そういう試練を乗り越えてこそ、どこへ行っても耐えられるのだと思います。

忘れられない湯川先生の言葉

 大学院を出た後は、京大に助手として勤めることになりました。しかもちょうど湯川博士が定年になられる前で、一年ほどは湯川先生の研究室で働く機会を得ました。これは非常に幸運なことだったと思っています。また、その後も定期的に湯川先生を囲む勉強会に参加させてもらいました。先生が「混沌会」と名づけられた会なのですが、その名のとおり、先生の話はわかりにくいことが多かったですね。今日のような学生による授業評価などでもあれば、それこそあまりいい評価にはならなかったでしょうね。

 そんな先生のお話の中で、今でも覚えているのが「研究者は未来を過去のように考えることが重要だ」とおっしゃったことです。先生はそれ以上説明されなかったし、その場では誰も理解できませんでしたが、その後、岩崎洋一氏(現筑波大学副学長)らと話し合ってそれはこういうことではなかったかという結論に至りました。最先端の研究をしている者が、新しい発見や理論にたどりつくと、まずそれが本当に確かなのか非常に不安になるものです。他の研究者のちょっとした反論などにも敏感になり、自説を撤回してしまうケースさえあります。そこで湯川先生は、その発見や理論がすでに確立されて、もう過去のものだ、事実になっていると考えてみろ、とおっしゃったのではないだろうか、と。認められて確定したものだと思えばより力強くそれを推し進められる、もっと生産的になれる。なるほどと思える言葉です。先生のお話はいつも難解でしたが、さすがに大発見をなされた方には、私たちの思いも及ばない着眼点とものの見方が備わっているんだと実感しました。

夢を現実にするために

 さて、私は一人っ子の上に親も商売で忙しく、一人で過ごすことが多い子供でした。それが寂しいというのではなく、逆に人にわずらわされることなくボーッと夢を見ている時間、自分の将来を考える時間がふんだんにあったのです。そうしているうちにあたかも夢が現実のような感じを持つことさえありました。つまり早い段階から将来に対するビジョンを持ち、さらに深く考えているうちにだんだん自分のものになってきて、もうそれしかないというくらいに固まったのです。

 夢は自分でつくり出すもの。しっかりと夢を見たら、それを現実のものにするにはどう動けばいいかがわかってきます。「未来を過去のごとく」という言葉にも通じると思います。みなさんもたくさん夢を見て、それをかなえる自分を想像してください。それはきっと、未来を切り開く大きな力になるはずです。


コラム
広島大学ってどんな大学?
牟田学長が語る「自慢」と「課題」
 「広島大学という大学があるということは、みなさんご存知ですよね。ところが『どんな大学?』ということになると、すぐに答えてもらえるような際立った特色がないのが現状です。実際は、特に最近は先生方のがんばりが実り、論文数は全国で八位、科学研究費取得数でも八位、特許出願に至っては五、六位あたりなど、研究成果では国・公・私立大をあわせても全国トップレベルに迫っています。ところがそれがあまり知られていない。これはひとえに宣伝不足が大きいと反省しています。今後は教育研究の一層の充実とともに、いろんな機会に目に見える広島大学のブランドイメージを確立し、アピールしていきたいですね」。


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