積善の家に余慶あり
子供の頃、両親から
「よい行いをしておれば、そのうちきっといいことがあるよ。」
と言われたことを思い出します。でも
「僕はいつもよい行いをするように心がけているんだけど、あまりいいこともないなあ。神様はどこを見てるんだろう。」
とぼやいていました。今にして思えば、子供の頃の私のこの認識は微妙に間違っていたのだなと感じています。なぜそう思うのかをこれから述べましょう。
親たちが私に言っていたこの言葉は、もとをたどれば、きっと、中国の古典「易経」(注1)に出てくる文言
「積善之家必有餘慶」
にもとづいているのだろうと思います。漢文の読み下し文にすれば
「積善の家には必ず餘慶あり」
となり、邦訳では
「善行を積み重ねた家には、その結果として子孫に必ず幸福がおとずれる」
とされています。
最近、私は、この訳文をさらっと読んだだけでは、この言葉の真の意味を深く理解できないのではないかと思うようになりました。この訳文から単純に受ける印象は、修身の教えのようなもので、
「善行を積み重ねていけばきっといいことがある。」
という、根拠のない迷信じみた言葉に過ぎないように思われてしまいがちです。幼い頃の私のように
「善行を積み重ねているつもりなんだけど、何もいいことはないじゃないか。」
とぼやいている人もいるでしょう。
このような誤解のもとは、「善行を積み重ねた家には、その結果として子孫に必ず幸福がおとずれる」の「子孫に」という言葉を見落としているところにあります。善行を積み重ねた個人がすぐに恩恵を受けるということを言っているのではなくて、子孫代々に渡って善行を積み重ねておれば、そのうち良いことがあると言っているのです。この長期的観点を見落として、良いことをしておれば良いことがあると短絡して考えるから、根拠のない迷信じみた言葉だと思ってしまうのです。
原典を注意深く読んでみると、まさにそのことが書いてあります。原典中の「積善之家」に関する部分の全文を邦訳で読んでみましょう。(注1)
「善行を積み重ねた家では、その福慶の余沢が必ず子孫に及ぶ(積善之家必有餘慶)。不善を積み重ねた家では、その災禍がひいて必ず子孫に及ぶ(積不善之家必有餘殃)(注2)。例えば、臣下の身でその君主を殺害したり、子たる者がその父を殺したりするような大それた行ないも、決して一朝一夕にしておこるべき事態ではなく、その由来するところが漸次に積もり積もってそうなったのであり、早いうちにしっかりその事態を見さだめて適当な処置をとらなかった結果なのである。『霜を履んで堅氷至る』(注3)という文言も、物事は積もり積もって大きくなるということを言ったものである。」
いかがですか。これは重い内容だと思いませんか。「積不善之家必有餘殃」があるからこそ「積善之家必有餘慶」が生きてくるのです。
親子代々不徳を重ね、不善の教育を続けておれば、その家からそのうち大罪を犯す者が現れる。一方、善行を積み重ねて、よい教育を続ければ、必ずや世の人々に賞賛されるような人材がその家から出るだろうと言っているのです。これは極めて納得できる真理ではないでしょうか。ここで言っているのは、一個人がいいことをしたからといってその人にすぐに福が舞い込むということではなくて、善行を重ねる家には長期的にみて必ずよいことが起こるということを力説しているのです。すなわち、家族ぐるみの集団的長期的善行は必ず報いられるという真理を説いているのです。だからこそ不善を重ねないようにと戒めているのです。もって瞑すべき言葉だと思います。
この古典の中でこれだけ深い思索がなされていたということは驚くべきことだと思います。易経は今から約2,800年前に中国「周」の時代に完成した古典で、長い間に積み重ねられてきた考察を集大成したものです。約2,800年前といえば日本では縄文時代の真っ只中です。私達は往々にして3,000年も前はきっと人類は獣同然の生活をしていたのではないかと思ってしまいますが、人類は、我々が思っているよりもずっと昔から、高い知的レベルをそなえていて、今日我々が考えている真実にすでに迫っていたのですね。
脚 注
(1)易経(えききょう):邦訳 高田真治・後藤基巳、岩波文庫
(2)殃(おう):わざわい、とがめ
(3)霜も踏み続ければ堅い氷になる