本書は,Sheila Slaughter and Larry L. Leslie, Academic Capitalism: Politics, Policies, and the Entrepreneurial University, The Johns Hopkins University Press, 1997(S.スローター,L.L.レスリー著『アカデミック・キャピタリズム――政治,政策,企業的大学』)のChapter One: Academic Capitalismの翻訳である。
共著者スローター,レスリー両氏は,アメリカのアリゾナ大学に所属する大学・高等教育研究者である。現在,スローター氏は高等教育研究センターの教授,レスリー氏は教育カレッジの学部長を務めているとのことである。詳しくはそれぞれのウェブサイトにプロフィールが掲載されているので参照されたい。
スローター氏のホームページhttp://www.u.arizona.edu/~slaughtr/
レスリー氏のホームページhttp://www.u.arizona.edu/~larryl/
訳者は本書の存在を中山茂氏のご教示で知った(私信,および中山茂「研究の100年――フンボルト理念から大学資本主義へ」『現代の高等教育 IDE』2000年12月号,39-43頁,同「ポスト冷戦期の大学と科学技術」『高等教育研究』第6集,2003年,149-170頁)。爾来,訳者は21世紀の大学・高等教育を考える際の重要な概念としてアカデミック・キャピタリズムに着目してきた。
というのも,多くの事柄についていえることだが,アメリカ(あるいは広く欧米諸国)で起こっている現象が,何年か後に,そのままというわけではないにせよ,我が国でも起きるということをこれまでしばしば経験してきたからである。エリート・マス・ユニバーサルというM.トロウの発展段階説にみられるように,大学・高等教育についても,おおむねそのように言うことができよう。したがって,スローター,レスリー両氏が本書『アカデミック・キャピタリズム』で論じているように,1980年代を転換点として,アメリカ,イギリス,オーストラリア,カナダでアカデミック・キャピタリズムと呼ぶべき現象が出現し,その結果,大学の組織や大学人の価値観や行動様式に不可逆の変化が生じているとするなら,我が国でもアカデミック・キャピタリズムの兆候とその影響がみてとれるのではないか,と考えられるわけである。
我が国の場合,大学・高等教育が,今日に続く「改革」へ向けて大きく転換するきっかけとなったのは,文部省(当時)による1991年の大学設置基準の大綱化であった。文部省は,高等教育予算を抑制しつつ,大学設置基準を緩和することによって個々の大学の自主性を引き出そうとしたとされる。このような大学政策転換の背景としては,我が国の国家財政の逼迫があり,さらに世界的な状況として,冷戦の終結とそれに伴う経済のグローバリゼーションがあったことは明らかである。このような背景ないし状況は,スローター,レスリー両氏が分析の対象としたアメリカ,イギリス,オーストラリア,カナダと同様,我が国にも共通していたわけである。
さて,1991年の大学設置基準の大綱化に始まった我が国の大学政策の転換は,政策面での紆余曲折を経て,本年2004年の国立大学法人化へと至った。国立大学の法人化が,将来の民営化・私学化に至るかどうか現時点では定かではないが,我が国の大学史の大きな節目になることだけは間違いない。
この間,我が国の「大学改革」は18歳人口の急減という厳しい条件の中で,社会全体の「構造改革」の一環として押し進められた。その結果,我が国の大学と大学人は,生き残りをかけて学生獲得競争にしのぎを削り,学部・学科の再編に務め,科学研究費を含む外部資金の獲得を至上課題とするに至った。さらに,「21世紀COE」の採択件数が大学ランキングの重要な指標になったりした。このような我が国の大学と大学人の状況を一言で表現するとすれば,やはりアカデミック・キャピタリズムの進展と言うしかないのではなかろうか。原著刊行後7年を経過したとはいえ,我が国も含めて21世紀の大学・高等教育の現状と将来を論ずる際の必読文献としての本書の重要性は失われてはいないと確信し,ここに訳出した次第である。
なお,アカデミック・キャピタリズムを含めて,大学・高等教育の市場化や企業的大学経営をめぐる最新の議論と文献については,羽田貴史「企業的大学経営と集権的分権化」(本報告書第4章および『大学論集』第34集,2004年,21-40頁を参照されたい。)
変化の範囲
制度としての高等教育と労働力としての大学教員が今世紀未曾有の変化に直面していると論じているのは,われわれだけではない。デイヴィッド・ブレネマンは,財政上のデータをうまく使って,高等教育の資源に占める国や連邦の資金が減少していると主張している(Breneman 1993)。彼は,このような財政構造の変化を,伝統的な資金パターンからの一時的な逸脱ではなく,高等教育が受容せねばならないであろう新たな現実とみなしている。ジェイムズ・フェアウェザーは,カレッジや大学が政府からの収入の減少を,産業界との結びつき,革新的な製品開発に絞った連携,教育的・企業的サービスの販売などを通じて補っている様子を研究している(Fairweather 1988)。パトリシア・ガンポートとブライアン・パッサーは,官僚的な国家権力が,コストを学生に転嫁する一方で,プログラムやカリキュラムを作ったり教員の仕事を標準化しルーチン化していると論じている(Gumport and Pusser 1995)。ウィリアム・マッセイとロバート・ゼムスキーは,さらなる研究を奨励し研究を運営するための複雑な「管理組織」を伴う大学の一連の動き,特に大学の周辺部分――そこでは企業的なセンターや組織が外部資金の獲得に努めている――における研究の増大によって,大学人の仕事が変化しつつあると述べている(Massy and Zemsky 1990 1994)。ガリイ・ローズは,法的および経済的な変化が大学人の仕事を規定する管理者側の力を大きくするとともに大学教員組合の力を弱めていると述べている(Rhoades 1997)。組合協定に関する彼の分析は,仕事の量,職員の数,カリキュラム全体の方向性を決めるにあたって大学教員の力が弱まっていることを明らかにしている。ヘンリイ・エツコヴィッツとレート・ライデスドルフはグローバルな知識経済の中での大学の地位を描いている(Etzkowitz and Leydesdorff 1997)。
他の国について研究している人々も高等教育について同様の変化を表明している。バートン・クラークは,革新的なヨーロッパの大学を論じているが,それらの大学は,起業化精神の増大,大学運営をめぐる大学教員の価値観と管理的な価値観の衝突,資金源の多様性などで特徴づけることができる(Clark 1993)。彼は大学の先進的な部分が大学の中核であったリベラル・アーツから企業的な周辺部に移動していると指摘している。ギャレス・ウィリアムズは,イギリスにおける財政構造の変化の結果,大学に対する政府資金が減少し,大学人が自分が所属する部門の存続のために外部資金の獲得に努めていると述べている(Williams 1992 1995)。マイケル・ギボンズらは,大学や大学教員の資金調達の変化が,グローバルな経済が発展するにつれて生じている経営革命や経済生産と軌を一にしている様子を研究している(Gibbons et al. 1994)。彼らは,科学,工学,専門職大学院――それらが大学の中核だと彼らはみている――における変化を強調しているが,同時に,社会科学や人文学を含むあらゆる分野が市場と結びついていることにも注目している。オーストラリアについては,ジョン・スミスが編集している『アカデミック・ワーク』が変化を記録しているが,その変化はおおよそイギリスにおける変化と並行している(Smyth 1995)。サイモン・マージンソンは,オーストラリアの大学や教員にみられる「市場化」,すなわち市場行動あるいは市場類似行動の増大を詳述している(Marginson 1993 1995)。カナダについても,ハワード・ブフビンダーとジャニス・ニューソン(Buchbinder and Newson 1990),ブフビンダーとラジャゴパル(Buchbinder and Rajagopal 1994),ニューソン(Newson 1990)が,政府資金の減少と市場化の始まりを論じている。
本書はこれらの研究者の仕事に多くを負っている――高等教育機関,とりわけ公立の研究大学と大学人が直面している変化の大まかな見取り図を描くためにそれらを用いた。しかし,本書は以下の点で,上述の研究者たちの仕事とは異なっている――通常,別々に取り扱われる問題,特に,学士課程教育と大学院教育,教育と研究,学生援助政策と連邦政府の研究政策を統合した。学士課程教育とそれに関連する諸問題(学生援助政策,授業料,教員の生産性)を大学院教育や大学院教育にまつわる諸問題(政府が優先している研究課題,連邦政府の研究資金,産業界の研究資金といった諸問題を含む国の科学技術政策)と別のものとして見るのではなく,それらを総合することによって,生じつつある変化の度合いを的確に捉えることができ,そのような変化を促している力を理解することができる。われわれは,分析のレベルに応じて,以下のような多くの理論やデータを用いて変化を分析しようと試みた。変化がグローバルな広がりをもっていることや変化が高等教育や研究政策にどのような結果をもたらしているかを理解するために,マクロな政治経済理論や国の高等教育政策。国民国家のレベルで生じた中等後教育の変化の度合いを捉えるために,資源依存理論と国の高等教育財政の傾向に関するデータ。専門職業化に関するプロセス理論,変化を先導する企業的活動に関与している大学人や管理者がいる大学の事例研究。知識社会学,また,変化しつつある世界で大学人がどのようにして知識についての新しい考え方を作り上げるのかを垣間見るために,技術移転に関わる大学人の事例研究。
本書は二つの部分と結論から成っている。前半の3章は序論と概観を与える。第1章は基本概念と理論を導入する。第2章はグローバルな政治経済の変化を検討し,オーストラリア,カナダ,イギリス,アメリカがグローバルな市場の登場に対応してどのように高等教育を展開したかをみる。第3章では,これら四カ国の20年間の高等教育財政パターンに関するデータを示す。これらのデータは,グローバルな経済の出現によって,四カ国の中等後教育システムが形成されていることを示しており,その結果,各国の高等教育や研究政策が変化していることを示している。
本書の後半(第4章から第6章まで)は,さまざまな組織に関する事例研究である。事例研究は,最初の3章で論じたマクロなレベルの変化に対する大学人の特徴的な反応としてさまざまな企業的活動に関与している大学教員や管理者に焦点を合わせている。第4章では,成功している大学起業家が自分の仕事の利点と問題点をどのように評価しているかを検討した。われわれがインタビューしたすべての大学教員は水準以上の外部資金を獲得しており,彼らの所属部門は工学センターから物理教育に及んでいる。第5章では,企業的活動の特定の形態である技術移転――大学から市場への成果とプロセスの移動――に関わっている大学教員についての事例研究である。第6章では,市場に技術移転した大学教員に再び焦点を合わせ,彼らの仕事が彼らの知識についての考え方にどのような影響を及ぼしたかを検討した。教員の価値観,規範,信念の変化を探った。
結論(第7章)では,明らかになったことを要約し,部門レベル(センターや学科),カレッジ・レベル,中央の管理組織にそくして,大学教員や管理者の大学生活にどのような帰結が生じるかを論じた。大学のさまざまな部分について,市場からの距離が近いか遠いかという観点から分析し,大学教員や大学と市場との相互作用の増大が,どのようなインパクトをもたらすかについても示唆した。
産業革命を通じて,さまざまな国の大学教員は,市場の厳しい掟から自分たちを守りつつ,資本と労働の間でうまく立ち回った(Abbott 1988;Perkin 1989)。知的専門職は社会全体と暗黙の契約を結び,公共の福祉に私心なく奉仕する見返りに独占権を与えられた(Furner 1975;Bledstein 1976;Haskell 1977)。知的専門職という概念は,独占の見返りに市場の報酬を辞退する実践家ということになった。知的専門職は,自分たちは奉仕と利他主義に導かれていると主張し,利益を優先せず,依頼者と社会の利益を第一に考えると主張した。
多くの研究者は,どの程度まで知的専門職がこのような理想を実現しているか疑問を呈したが,20世紀前半の大半の知的専門職は直接市場に参画していなかった。彼らと市場との相互作用は専門職団体と法律によって媒介された。知的専門職は広告せず,顧客にではなく依頼者に奉仕した。彼らは開かれた市場で一定の標準的な料金を請求した。専門職と認定されていない人々は,さまざまな専門的サービスを提供することを法的に禁ぜられた(Brint 1994)。
大学教員は知的専門職の一部である。とはいえ,大学教員は,上級学位を独占して,他のすべての知的専門職を訓練し保証を与えているので,ある意味では最高の知的専門職である。この点で大学教員の地位は非常にユニークである。大学教員は,多くの点で,歴史的に他の知的専門職よりも,市場から隔離されていた。彼らは,しばしば国から資金を得ている非営利的な組織のために仕事をしてきたので,単独であれ集団であれ,サービスに応じた料金をとる職業人とはならなかった。さらに,カレッジや大学は市場や国家からの自律という伝統を有してきた(American Association of University Professors 1915; Berdahl, Levin, and Ziegenhagen 1978)。
20世紀後半を通じて,大学教員は他の知的専門職と同様,次第に市場に組み込まれるようになった(Slaughter and Rhoades 1990;Brint 1994)。1980年代,グローバリゼーションが,以下に述べるようなし方で,大学教員と大学の市場への動きを加速した。1980年代が転換点だったと考えられる。というのも,この時期に大学教員と大学は市場に組み込まれ,大学教員の仕事が,程度問題ではなく別種のものになったからである。市場への参画は,市場が依頼者の利益と同様に最低水準に重きを置くので,大学教員と社会との暗黙の契約が効力を失い始めた。知的専門職の訓練機関として大学を特別扱いする理由は,大学人の特権と同様に掘り崩され,大学は将来,他の組織と同じように扱われるようになるだろうし,大学人は他の職業人と似たものとなるだろう。
大学教員と大学をめぐる変化は,大学教員と大学が市場に入り込むにつれて複雑になり,研究大学およびその担い手と大学外部の世界との間の急速に崩れつつある境界領域で最も明瞭にみてとれる。こういった変化は中等後教育全体に深甚な帰結をもたらしているが,われわれは特に公立の研究大学に注目する。なぜなら,大学教員の仕事の性質の変化が,この部分で最も大きいからである。こういった変化は,高等教育の内部と同様,外部の組織,機関,社会的諸力によって駆動されているので,変化を説明するために高等教育関係の文献の範囲を越える理論や概念を用いる。変化の複雑さを取り扱うために,さまざまな理論,データ,方法を用いる。国際的なレベルでは,政治経済学の理論,グローバルな経済変化に関するデータ,高等教育や研究政策に関するさまざまなデータを用いる。国のレベルでは,オーストラリア,カナダ,イギリス,アメリカの高等教育財政のデータを用い,これらのデータを資源依存理論と結びつける。大学レベルでは,事例研究から得られたデータを解釈するのに役立てるために,専門職化に関するプロセス理論と科学社会学を用いる。本書を通じて,用語を説明し,馴染みがないかもしれない概念を定義し,いくつかの理論に関する理解を示し,諸理論がさまざまなレベルで互いに明確になってくる道筋を示す。読者には,しばしば複雑となる議論の展開を忍耐をもって我慢していただくようお願いしたい。本書で提示する素材は注目に値すると考える。
検討している政治経済上の変化はグローバルで構造的なものである。この変化が消滅して元の状態に戻るとはとても思えない。1970年代と1980年代に市場はグローバルになったが,それは環太平洋諸国の経済競争力の増大によるものと思われる。多国籍企業(互いに関係のない製品を製造する巨大企業)が,世界経済を支配するようになった。イギリスやアメリカのような既存の産業国は,世界市場に占めるシェアを環太平洋諸国に奪われた。既存の産業国の多国籍企業は,新技術に投資し,グローバルな市場で競争力を維持することによって,市場の喪失に対処した。これらの企業は,グローバルな経済で売れる,科学に基礎をおいた製品やプロセスをもとめて次第に研究大学に目を向けるようになった。
生物科学は,科学技術(あるいは技術としての科学[Forman 1994])が市場に徐々に組み込まれていった具体例である。1980年代以前,生物科学は基礎科学であり,この分野の大学教員は全米科学財団(NSF)の資金による研究に専念しており,学会や学術雑誌のために論文を書いていた。企業は非常に競争的でグローバルな市場のために成果を開発しようとして生物学者の研究に強い関心を向けるようになり,バイオテクノロジーの鍵となる分子生物学に投資を始めた。1980年代半ばまでに,分子生物学の教授の多くは,大企業に製品を販売するスピンオフ企業(大学や政府の研究所で開発された成果に基礎をおく企業)で普通株主権(専門知識の見返りに株を与えられる)を有するようになり,バイオテクノロジー製品に関する全米企業の諮問委員会の顧問になった(Kenney 1986; Krimsky 1991)。企業は,大学のバイオテクノロジーのための資金の45パーセントを提供した(U.S. Congress, Office of Technology Assessment 1991)。生物学科が分子生物学に特化して再編されたとき,多くの大学教員が起業家になった。
基礎科学が企業的となり,当該分野の大学教員が市場から一定の距離をおかなくなったのは生物学だけではなかった。1980年代,さまざまな学際的なセンターや学科(材料科学,光科学,認知科学)が作られたが,それらは急速に市場活動に組み込まれた。このシフトが生じたのは,新しい成果を求める企業と,大きな研究資金を求める大学教員や大学が手を組んだからであった。
経済がグローバル化するにつれて,産業諸国の企業セクターは,技術革新を強化して管理することによって,企業や企業が本部を置いている国が世界の市場で競争力をつけることができるように,政府にさらなる資源の拠出を迫った(Jessop 1993)。企業の指導者たちは,研究大学や政府の研究所における営利的な研究開発のために政府が資金を提供するように要望した。アメリカでは,かつては基礎科学の牙城とみなされていた全米科学財団が,1980年代に産学の共同研究センターを設置し,クリントン政権下では国家的な科学技術政策が,商務省に置かれた高等技術計画によって具体化された(Slaughter and Rhoades 1996)。イギリスでは,産学官の資金から成る学際的な研究センターが1980年代に出現した。オーストラリアは,イギリスやアメリカのモデルを真似て,1990年代に共同研究センターを設立した(Hill 1993)。カナダはマルルーニ首相のもとで,大学・産業界・政府の協力関係を発展させようと試み,大学の研究や国の研究審議会のための共同の貢献に対して大学の研究費を増額した(Julien 1989)。これらの四カ国では,市場向けの新しい製品やプロセスを作り出すための協力関係を発展させようとして,企業の最高経営責任者が大学のリーダーや政府の官僚とともに努力した(Slaughter 1990; Slaughter and Rhoades 1996)。高等教育に対する政府の支出が低下しつつあったため,大学教員と研究大学は企業や政府との商業的革新に基礎を置いた協力関係に前向きに取り組んだ。
高等教育への公的資金は減少しつつあったが,その理由は政府資金に対する要求の増加であった。1970年代,グローバルな金融市場の出現は,西側の産業諸国が巨額の債務を負うことを可能にした。これらの資金は,もっぱら初・中等教育,健康管理,「社会の安全」のような,すべての市民が求めるエンタイトルメント・プログラム〔特定集団の成員に給付を与える連邦政府のプログラム〕や債務返済のための留保金に用いられたが,アメリカの場合は軍備拡張にも用いられた。借り入れ額が拡大するにつれて,中等後教育プログラム,特に研究開発に対する連邦政府資金の割合が減少した(Slaughter and Rhoades 1996)。
アメリカの公立の研究大学では,通常連邦政府は学生のための奨学金と研究補助金,研究契約に対する資金を提供し,州政府が大学教員の給料と運営費を支払う。高等教育に対する連邦政府のシェアが低下するにつれ,州政府が負担の一部を引き受けた。なぜなら,州政府は健康管理や刑務所のようなエンタイトルメント・プログラムや委任プログラムに多くの予算を使っていたからである。1983年以降,州政府は周期的に財政危機(州の収入が支出に満たない)に見舞われ,高等教育の見直しが促進された。1993-94年,州政府は,高等教育に対する資金の絶対額(支出全体に占める割合の低下とか学生一人当たりの支出のインフレ調整額とかではなく)を初めて減らした。見直しは,市場に近接した部門や学科――外部から補助金や研究契約その他の資源や収入をより多く獲得できる部分――が自由に裁量できる資源の増加につながった。そして,州および連邦のレベルでの,財政上の不安定という条件が,市場と接点をもつプログラムや研究へ向けて大学教員と大学を努力させることになった。
資源を維持拡大するために,大学教員は外部資金をめぐって競争せねばならなくなった。外部資金は,応用研究,営利研究,戦略研究,目的志向研究などさまざまに呼ばれる市場関連の研究と結びついており,研究補助金,研究契約,サービス契約,産業界や政府との協力,技術移転,高い授業料を払ってくれる多くの学生,というかたちで提供される。大学および大学教員の,外部資金を獲得しようとする市場努力ないし市場類似努力をアカデミック・キャピタリズム(大学資本主義)と呼ぶことにする。
アカデミック・キャピタリズムという用語について同僚たちと何度も長時間にわたって議論した。ある人はこの言葉が適切だと言ってくれたが,別な人はこの言葉は,「資本家階級」(会議やフォーラムで定期的に親しく出会い,国の政策形成に強い関心を抱いている大企業の面々[Useem 1984])とのファウスト的取り引きを強く暗示すると指摘した。特にオーストラリアでは,社会民主派の同僚が,アカデミック・キャピタリズムという言葉は,大学人の労働に関してカレッジや大学で現在認められているよりもはるかに強烈な搾取のイメージを呼び起こすと指摘した。オーストラリアの別の同僚は,国の役割を軽くみているとした。というのも,基礎研究であれ応用研究であれ,大学やカレッジに対して,大学-産業間の協力に対して,また,大学周辺の企業(職員と目標に関して大学とつながりがあるが,法的には別の組織)によって取り組まれている利益を求める冒険に対して,大半の外部資金を提供しているのは,多くの場合,国だからである。概して,こういった議論(時には白熱したが)を通じて,私的部門と公的部門との間の従来の境目をぼやけさせている変化を表現するには,既存の言葉は不適切だということが明らかになった。同様の言葉の限界が,民営化と規制緩和の時代に出現しつつある多くの混合組織を記述するのを困難にしている。結局,他にもっと適切な用語を見いだせなかったため,アカデミック・キャピタリズムという言葉を用いることに決めた――大学の起業家精神(academic entrepreneurism)とか企業的活動(entreprenurial activity)といった言い方もあるが,これらはアカデミック・キャピタリズムを婉曲に言っているに過ぎず,利益を求める動きが大学内部に広がっていることを捉え損なっているように思える。
もちろん,キャピタリズム(資本主義)という言葉は,生産の諸要素(土地,労働,資本)の私的所有を意味しており,公立の研究大学に雇われている者を資本家と考えることは,一見すると,明白な矛盾のように思える。しかしながら,キャピタリズムは一つの経済システムとして定義されており,このシステムの中では,市場の力によって配分が決定される。このような言葉遊びには意味がある。われわれは,中心的な概念としてアカデミック・キャピタリズムという語を用いて,公立の研究大学を取り巻く新しい環境という現実を定義する――この環境は矛盾に満ちており,その中で大学教員と専門的なスタッフは競争的な状況に対して自らの人的資本蓄積を急速に消費しているのである。このような状況の下で,大学に雇われている者は,公的部門に雇われていると同時に,そこから急速に自立しつつある。彼らは公的部門出身の資本家として行動する大学人であり,国から補助金を得ている企業家である。
研究重視の大学の大学教員と管理者は国から補助金を得ている企業家であるかもしれないが,彼らの立場は,多くの点で,重要産業部門の企業研究者や企業家の立場に類似している。ここでの重要産業部門とは,重要な物資やサービスを生産し,多数の人々を雇用している巨大寡占産業のことであり,そこの労働者の多くは組合に加入し,給与の一部として社会福祉サービスを受けている(OユConnor 1973; Braverman 1975)。これらの産業の多く,例えば航空機,コンピュータ,エレクトロニクス,原子力,製薬,化学,農業などの産業は,さまざまな連邦機関,例えば国防総省,エネルギー省,航空宇宙局(NASA),農務省,国立医学研究所(NIH)などからの国家的な支援によって市場から護られている。これらの産業は,多くの国家的使命――何と言っても国防,食糧供給,健康――にとって重要だとみなされているので,連邦政府によって支援されているのである。こういった使命は非常に重要なので,それに貢献している産業は市場の気紛れに任せずに国から部分的な資金援助を受けるのである。これらの産業によって作り出される,科学に基礎をおいた製品やサービスの多くは,大学資本家が開発研究のために公的および私的支援を受けているのと同じ技術に依拠している。換言すれば,大学資本家は産業資本家が受けているのと同じところ〔国〕から同じ理由で補助金を得ているのである。市場,国,大学(もちろん,公立大学は州政府の専門機関である)は複雑で時には矛盾した仕方で関係しているのである。(国から補助金を得ている重要産業部門,基礎研究に携わる大学,市場志向的な研究の出現との間の関係についてのもっと詳しい記述はSlaughter and Rhoades 1996を参照。)
アカデミック・キャピタリズムに迫るもう一つの道は,広く認められている人的資本という概念を通じる方法である。言いたいことは次のようなことである。労働者に所有されている知識と技能が経済成長に貢献することを,今日では多くの人が知っている。概念的には,労働者のこういった能力が,生産の三要素(土地,資本,労働)の一つである労働の質に付加されることによって経済成長に貢献する。労働の質の重要性に関する実証的な証明は,少なくとも,国民成長計算モデルを構築したエドワード・デニソンの業績にさかのぼる(Denison 1962)。(この研究分野の1980年代中葉における最新の研究業績とそれまでの研究成果の総括についてはLeslie and Brinkman 1988を参照。)生産のための仕事に関しては,労働の質は主として義務教育と職場での実地訓練によって形成される。このことは経済成長に大学人が果たす役割を明らかにしてくれる。大学は国家が所有する稀少で価値の高い人的資本の貯蔵庫である。このような人的資本は,グローバルな経済競争に勝ち抜くために必要とされる高度な科学技術力の発展にとって必須のものであるという意味で価値がある。大学が所有する人的資本は,もちろん,学術スタッフに帰属している。かくて,特に価値があるのはアカデミックな資本であり,大学人がもっている特定の人的資本以外のなにものでもない。したがって,大学教員が自分のアカデミックな資本を生産に投入すると,彼らはアカデミック・キャピタリズムに関与している,ということになる。大学人の稀少で特殊な知識と技能は,個々の大学人,彼らが働いている公立大学,彼らと協力している企業,そして社会一般に利益をもたらす生産的な仕事に用いられる。専門的であると同時に実践的でもあるのがアカデミック・キャピタリズムなのである。
アカデミック・キャピタリズムは,大学や大学人に市場行動や市場類似行動をとらせる。市場類似行動とは,外部からの研究補助金や研究契約,遺贈基金,産学協力,教授が設立したスピンオフ企業に対する大学の投資,学生の授業料などさまざまな資金をめぐる大学組織と大学人の競争を意味する。大学組織と大学人が,こういった市場類似行動をとるのは,彼らが外部の資源提供者による競争に参加しているからである。大学組織と大学人が競争に勝てなかった場合は資源はない――無一文ということになる。市場行動とは,特許を獲得し,特許契約やライセンス契約を結ぶという活動,スピンオフ企業,大学周辺企業,産学連携など,それらが利益をもたらす場合,大学組織の側の利益追求行動を意味する。市場行動には,教育活動を通じての成果やサービス(例えば,大学のロゴマークやスポーツ施設の利用)の販売,食堂や書店からの利益配分といった日常的な活動が含まれる。高等教育の再構築について語る場合には,実際の組織変化(学科の縮小や廃止,別の学科の拡張や創設,学際的な部門の誕生)とそれに伴う資源の再配分を意味している――研究と教育に関する分業の実質的な変化,新しい組織形態(大学周辺企業やリサーチ・パーク)の誕生,古い管理体制を効率的に作り直して新しい管理体制を作るための組織。
本書は,アカデミック・キャピタリズムの登場を,以下の論点から跡づける――グローバルな市場の成長,大学人を応用研究に向かわせる国の政策の展開,高等教育に対する国からの支援手段としての一括補助金(従来の方式に応じて大学に付与される使途を定めない資金)の減少,これに伴って,大学人の市場に対する関与の増大,などである。データから見れば,静かな革命はすでに始まっていると考えられる。財政データの分析は,国の一括補助金から営利的努力を目指した補助金や研究契約へのシフトを示している。公立の研究大学の内部では,教育のための資金が少なくなり,研究のための資金,および大学が外部資金獲得の能力を高めるための資金が増大している。大学教員はCatch-22状況〔矛盾する規則に縛られて身動きがとれない状況〕に直面している。学士課程教育に努力するように言われても,ご褒美の多くは外部資金獲得と結びついているので,大学教員は外部資金獲得のために,教室から離れて研究へと向かうのである。
大学教授職の労働の変化に関する検討を,四つの英語大国――オーストラリア,カナダ,イギリス,アメリカ――について行い,特にオーストラリアとアメリカに着目する。主要な英語国を取り上げたのは,研究計画と研究方法が文書資料や財政データ,大学教員に対する徹底したインタビューや観察を必要としたためである(著者は二人とも英語しか話せない)。研究を英語国に限定したとはいえ,OECDの多くの出版物に基づいて,多くの西洋先進諸国の公立大学が,英語諸国で作用しているのと同じグローバルな力に突き動かされて,アカデミック・キャピタリズムへと向かっていることを指摘した。
私立大学は考察しなかったが,それは四つのうちの三カ国(オーストラリア,カナダ,イギリス)は独立(私的)部門が非常に小さいからである。アメリカは発展した私的部門をもっているものの,全学生数の20パーセントを占めるに過ぎず,比較的少数の私立大学のみが研究に深く関わっているに過ぎない。私立大学を研究対象としないというわれわれの判断の中でアメリカが例外のように見えるが,私立大学を含めないという判断の主要な要因は,アメリカの私立大学は政府からの一括補助金というかたちで資金を受け取っていないところにある――すなわち,大学を不安定にしているとわれわれが考えている主要な要因は,アメリカの私立大学には影響をおよぼしていないのである。アメリカの私立大学は長年の間さまざまな市場に組み込まれてきており,ある意味では,本書の最終章で考察する脱工業化時代の大学の原型ともいえるのである。
アカデミック・キャピタリズムへ向かう動きは一様ではない。実際,それは一様ではないという特徴をもっている。英語圏諸国の内部でさえ,アカデミック・キャピタリズムの度合いに違いがある。カナダの大学人は市場にあまり組み込まれていないようだし,アメリカの大学人は最も深く組み込まれているだろう。アメリカの高等教育組織は,常に営利活動にある程度は手を貸してきた。もっとも,ここ15年は過去の組み込まれの度合いをはるかに越えるものであり,前述したように,程度問題というよりは質の変化を示している。対照的に,イギリスとオーストラリアの高等教育の市場化は,それぞれ1980年代中葉および1980年代後半に急速に進んだ。
これらの国々のうちアメリカとオーストラリアに着目する。アメリカはよく知っているからであり,オーストラリアは1991年にフルブライト研究補助金を得て,大学人の労働の性質の変化と営利的な科学技術の原価と利潤を研究したからである。アメリカとオーストラリアに着目するという決定は偶然という面もあるが,この二つの国は,われわれが検討しようとしている政治経済の変化を被っている――アメリカは共和党の大統領の下で,徐々にそして急激な変化を,オーストラリアは労働党の首相の下で。アメリカとオーストラリアは政治的には大きな違いがあるにもかかわらず,両国の高等教育システムは,国の相対的な力,私的資本の力,中等後教育における変化の速さにおいて,われわれがアカデミック・キャピタリズムと呼ぶものに向かっており,システムを同じ方向に動かしている力を見るには理想的な状況を提供してくれるのである。
以下,本書の概要を紹介し,それぞれの章や節の背後にある研究課題や用いたデータとデータ解釈のための理論を簡単に紹介する。理論,データ,方法は分析のレベル(グローバル,国,大学,個人)で異なるが,ここでは相互の結びつきを説明することにしよう。理論,データ,方法についての詳細な説明は,詳細な引用とともに,それぞれの個所で示す。
高等教育を形成する国際的な変化
第2章では,グローバルな政治経済の成長を検討するとともに,中等後教育を企業革新に結びつけることによって国の競争力を強化しようとしているオーストラリア,カナダ,イギリス,アメリカの高等教育政策を検討する。高等教育と企業革新を結びつけることは,高収入で高い技術を伴う仕事の数を増やすための新しい製品やプロセスを通じてグローバルな市場におけるシェアを増大させて国富を産み出そうとする努力である。
第2章を二つの研究課題が貫いている――高等教育の再構築を促しているのはどのような力なのか,この力は四カ国の政策にどのように表れているだろうかの二つである。第2章のデータは,四カ国の高等教育に関連する政策文書,白書,法律である。方法は文書類の比較分析である。
第一の研究課題――どのような力が高等教育の再構築を促しているか――に答えるために,グローバルな市場の出現についての政治経済的な説明を検討し,研究大学にとってグローバルな市場がどのような意味をもつのかを探求する。変化が四カ国に共通して見られることから,グローバルな変化を作り出している社会的な力を解明してくれる理論を検討する。グローバリゼーションに関する三つの政治経済理論を概観する――シカゴ学派にみられるネオ・リベラル政治経済学(Friedman 1981, 1991; Friedman and Leube 1987),リベラル経済学ないしポスト・ケインズ経済学(Thurow 1985; Kuttner 1991; Reich 1991),ラディカル経済学ないしポスト・マルクス経済学(Jessop 1993; Barnet and Cavanagh 1994; Chomsky 1994)の三つである。これら三つの理論は,媒介するもの――市場,資本移動,資本家階級――に関しては全く異なっているものの,1980年代にグローバルな市場が既存の産業国家に出現し,社会福祉や教育に対する資金を減らす一方で企業の競争力を構築するための資金を増やすという状況を作り出しているとみている点では共通している。このような傾向は中等後教育にとって重要な意味合いをもっている。発展した産業国家の政策立案者たちは,研究と訓練のための裁量経費を高等教育の生産的側面に焦点を合わせたプログラム――ハイテク製造業,知的所有権の開発,生産者サービス(非生命保険や再保険,会計,広告,法的サービス,税務相談,情報サービス,国際的な商品交換・金融・安全サービス[Thrift 1987; Sassen 1991])といった多国籍企業の革新分野を補完する――にシフトさせ,教育や社会福祉プログラムのための国の資金を減らした。中等後教育に関しては,いくつかの学科,カレッジ,カリキュラム分野(例えば,いくつかの物理諸科学や生物諸科学,工学,ビジネス,法律)がシェアを大きくしたが,人文学,いくつかの物理諸科学(例えば物理学),多くの社会科学はシェアが小さくなり,教育,ソーシャルワーク,家政学といった分野もシェアが小さくなった。換言すれば,政策立案者たちは国のレベルで,市場の圧力に応じてであれ,国際的な資本移動に応じてであれ,資本家階級に応じてであれ,経済革新を促して競争力をつけるのに役立つような高等教育部門に対して国の資金を集中しているのである。
グローバルな経済における変化が,国の政策立案者をして資源を技術革新,知的所有権,生産者サービスといった分野にシフトさせているとすれば,オーストラリア,カナダ,アメリカ,イギリスにおいて影響を及ぼしている各国の法律や政策的方向付けに見られる変化を検討する必要がある。非常に一般的にいえば,これら四カ国が,基礎研究ないし知的好奇心に基づく研究から目的志向,営利的あるいは戦略的な研究へのシフトを促すような国家政策を展開していることがわかる。われわれは各国の政策が,高等教育の入口,カリキュラム,研究,中等後部門の自律性をどのように取り扱っているかに特に関心を寄せた。これら四カ国では,高等教育に影響を及ぼす政策は,グローバルな市場でのシェアを維持する,国富を創出する,高収入の職を増加させる,繁栄を作り出すといった修辞法を用いて決定されている。高等教育の入口に関しては,高等教育政策は,より少ない国家資金によってより多くの学生の入学を奨励している。多くの国々は授業料を値上げし,学生に対する補助金とローンの割合を逆転した。カリキュラムに関しては,各国の政策は市場に近い学科やカレッジに対する偏愛を示している。カナダを例外として,多くの国々は基礎研究から企業的研究へ方向を変えつつある。カナダを除く三つの国は,経済発展に焦点を合わせた広範な政策プロセスに,高等教育を組み込み始めた。端的に言うなら,四カ国のうち三カ国における国家政策はアカデミック・キャピタリズムに大きく舵を切ったのである。同時に,さまざまな国家政策が高等教育により大きな経済性と効率を要求し,その結果,大学は再構築とその他の調整へと向かったのである。
第3章では,市場行動や市場類似行動を促進するための国家政策の変化がカレッジや大学にインパクトをおよぼしたかどうかを見るために四カ国における中等後教育の財政を検討する。特に,第2章で論述した国家政策における変化が四カ国の支出パターンに具体的で計量可能な効果をおよぼしたかどうかを検討する。国のレベルでは,グローバルな政治経済理論よりも資源依存理論(Pfeffer and Salancik 1978)が有益であることがわかった。分析のレベルでは,政策における変化をもたらしたものは何かや新しい政策がどのように形成されたかなどには関心を払わなかった。われわれが分析したかったのは,これらの政策が作り出した高等教育の収入変化の国別パターンだったからである。資源依存理論は,公立の大学とカレッジが収入――特に組織にとって最も重要な収入――の維持と増加に注意を集中するであろうことを示唆する。公立の研究大学は国の政策的方向付けに応答し,市場類似行動へと動くと予想した。なぜなら,公立の研究大学は資金,特に研究費に関してはもっぱら国に依存しているからである。
国によって中等後教育部門(研究大学,ポリテクニク,コミュニティ・カレッジ)には若干違いがあるものの,一般的にいえば,結果は予測した通りである。中等後教育に投ぜられる国民総生産(GNP)の割合は絶対値としては常に低下したわけではないが,成長の度合いは低下した。さらに,収入は一括補助金から「競争」や「市場」を反映した資金にシフトした。全体として,高等教育に対する一般的な公的資金は低下し,特に在籍学生一人当たりの金額でみた場合はかなり低下した。しかしながら,販売やサービスのような他の資源からの収入の割合は増加したし,授業料が収入に占める割合も増加した。個人寄付,補助金,研究契約,販売,サービスも増加した。支出パターンは収入環境の変化を反映している。大学の支出に関して言えば,全支出との割合でみた場合,教育のための支出は減少したが,研究,公共サービス,管理のための支出は増加した。設備や図書館の運営や維持といった比較的自由度の大きい資金は大幅に減少したが,学生に対する援助は大きく伸びた。したがって,非常に一般的に言うと,四カ国の大学とカレッジは,公的手段による資金獲得から,授業料,研究補助金,研究契約,個人寄付,他の競争的資金へと収入パターンを変化させていると思われる。
四カ国の財政構造に関するわれわれの分析は,これら四カ国の中等後教育機関が市場活動および市場類似活動から受け取る収入が増加していることを示しており,このことはアカデミック・キャピタリズムが研究大学を越えて広がっていることを示唆している。公立の研究大学に関するわれわれの事例研究は,科学や工学に限定されない幅広い分野に属する大学教員がアカデミック・キャピタリズムに関与していることを示している。大学教員は,資源は国や州から,給料および研究のためのスペースと設備として自動的に提供されるとみなしているようであり,普通に組織から交付されるもの以上の資源を積極的に求めている。換言すれば,余分の資金は大学教員の行動を変えるのである。このパターンが中等後教育全体に当てはまるなら,アカデミック・キャピタリズムは大学人の行動の合言葉となるだろう。
政治経済の変化に対する大学教員と大学の反応,および資源依存:オーストラリアの事例
第4章から第6章までは,オーストラリアの研究大学から得られたデータに基づいて,第2章および第3章で述べた変化が,大学管理者,学科の指導者,大学教員の日常生活にどのような影響をおよぼしているかを検討する。二つの研究課題を提起する――アカデミック・キャピタリズムの利点と問題点について,管理者と大学教員はどのように述べているか,また,個々の大学人はアカデミック・キャピタリズムの勃興にどのように対処しているかの二つである。いくつかの事例に関するインタビュー・データを処理するために質的な分析を用いるが,いくつかのインタビュー・データは数値化して原価・利潤分類に利用する。また,さまざまな大学の学科による外部資金調達のパターンを比較するために大学の統計を用いる。
第4章は資源依存理論に基づく。思い切って単純化して言うなら,資源依存理論によると,重要な収入を失った組織は新しい資源を求める。1980年代の後半,オーストラリアの高等教育政策は,高等教育の財政を変化させ,その結果,大学教員は政府の研究資金を,大学の地位に伴う特権としてではなく,競争を通じて獲得しなければならなくなった。(政策のこのような変化は第2章で詳しく論じた。)政府の研究資金は,オーストラリアの経済発展に関わりのある国家的優先事項に向けられるようになった。連邦政府は,大学を質的保証(quality assurance)の仕組みを通じて監視し始め,目的や目標に叶っている大学を優遇するようになった。同時に,高等教育費に占める政府のシェアは低下し,大学教授と大学は政府以外からの資金を増やすように奨励された。大学教員と大学は授業料を全額支払う留学生を入学させるようになり,研究と訓練に関して産業界と連携を深め,市場に適した成果とプロセスを作り始めた。
換言すれば,大学と大学教員は,市場活動および市場類似活動に従事しながら,重要な資源を求めて競争しなければならなくなったのである。研究資金は,それが競争的に提供されるだけでなく,大学が何よりも威信を大切にするために,大学にとって重要な資源である。大半の大学教員は教え,多くの大学教員は公共サービスを行うが,ごく一部の大学教員のみが政府や産業界からの競争的研究資金を獲得する。研究は大学相互の間で,また大学の内部で差別化する活動である。資源依存理論によれば,大学教員は研究(および他の)資源を維持するために,そして威信を高めるためにアカデミック・キャピタリズムに向かう。別の言い方をすれば,大学教員にもっと多くの学生を教えれば多くの資源を提供しようと言っても,彼らが外部からの研究資金をめぐって競争するのと同じ熱心さで,教育のための資金をめぐって競争するだろうか,ということである。さらに,大学教員は外部からの研究資金を求めて選択的になる。彼らは基礎研究の資金を得ようと常々努力しているが,次第に,先端科学技術プロジェクトのための営利を目的とした研究資金を求めるようになる。これらのプロジェクトは国家的優先事項と結びついており,全国的あるいは多国籍的な広がりのある立派な企業と連携しているからである。
第4章は二つのデータを用いる。最初に,オーストラリアの二つの研究大学の財政記録を吟味する。外部資金の種類に関係なく,年間数千ドル以上を独自に稼ぎ出した部門を特定するためにこのデータを利用する。企業的な活動には,応用的な社会科学の研究契約から,知的所有権の開発を目指す工学の学科が得た資金に至る,広範なプロジェクトが含まれる。第二に,企業的な協定を結んでいる部門について,プロジェクトを代表する中心的な人々とこういった協定や関連の仕事に関わっていない人々にインタビューした。インタビュー分析の前半は,部門と大学にとってのアカデミック・キャピタリズムの利点と問題点に関する主観的な議論である。インタビュー分析の後半では,質的な変数を数値化するために,経済学研究で用いられている手法を適用し,質的な特徴を金額で概算して原価と利潤の比を計算した。
第4章で示したデータに基づけば,得られた資源が大学教員の地位や威信システムを維持強化し,ある程度の裁量経費を認める場合には,大学教員は資金的なご褒美を獲得するために進んで多大の専門的努力を行うと言えそうである。営利を目的とした資金が伝統的な身分や威信構造と直接衝突せず,しかも,科学技術と国家の経済発展は結びついているというような集合連想によって精神的な支えが与えられれば,大学教員は営利を目的とした資金を求めて非常に積極的に競争する。換言すれば,大学教員の行動は,高等教育の研究者が考えているほど変化が困難というわけではなさそうなのである。大学教員の地位や威信システムを危うくしない場合は,比較的わずかの余分の資金で大学教員の行動を実質的に変えることができる。資源依存理論では,このことは10パーセントの法則として知られている。
第5章の研究課題は,大学の管理者,センター長,個々の大学教員は,市場の変化や資源構成比の変化にどのように対処しているかを問うことである。大学教員は,自分の部門や大学,そしてキャリアへのアカデミック・キャピタリズムのインパクトをどのようにして感知するのか。彼らは政治経済の変化や国の高等教育政策の変化に対処するための新しい方策を開発しているか。新しい方策が登場しつつあるなら,それは組織に変化をもたらしているか。
第5章では資源依存理論と専門職業化に関するプロセス理論(Larson 1977; Starr 1982; Abbott 1988; Perkin 1989; Brint 1994)を用いる。資源依存理論は,大学教員が資金の不足に直面しているという場面を設定し,彼らが困窮に対処する可能性を提示する。しかし,資源依存理論は,前述した政治経済理論と同様,社会的および政治的な経済構造に向けられた制約のある理論であり,人間については集団にも個人にも着目していない。それに対して,専門職業化理論は,高い教育を受けた知的専門職の日常生活に深く基礎をおいているので,組織変化のドラマの中で社会的なアクターとしての大学教員を検討するのに役立つ。
専門職業化のプロセス理論は,専門職業化とは知識,理論,専門技術,利他主義では尽くせないプロセスだと考える――それ以上とは言わないまでも,組織的・政治的・経済的技術が,同じくらい重要である。専門職業化のプロセス理論は,知的専門職の積極的な働きかけ――特に,知的専門職が自分の職業生活や収入に対して大きな影響力を獲得しようとして,例えば国の免許法を通じて,政治経済に介入すること――を検討する。専門職業化のプロセス理論は,例えば産業革命の勃興(Bledstein 1976; Haskell 1977)や福祉国家の形成(Finegold and Skocpol 1995)のような政治経済の大きな変革期における知的専門職の行動を強調しているので,グローバルな経済の出現にあたって大学教授が自分たちをどのように位置づけるのかを理解するのに役立つ。専門職業化のプロセス理論は,政治経済理論(第2章)や資源依存理論(第3,4章)とも接点がある。グローバルな経済の勃興が,特に研究のための重要な資源に関して大学教員と大学の資源依存を激化しているからである。大学教員は大学組織と専門分野のレベルで専門的特権を擁護し強化するための方策を開発しようと試みることで,こういった変化に対処している。
第5章のためのデータは,3大学の8部門の47人に対するインタビューである。技術移転――大学から市場への成果とプロセスの動き――に深く関係している部門を選んだ。技術移転は市場と大学人との最も直接的な結びつきなので,詳しく検討するために技術移転に関係している大学教員を選んだわけである。技術移転は,特許やプロセス,登録商標や著作権といった知的所有権をもたらすし,市場向けの組織的なコンサルタント業務にもつながる(オーストラリアでは,大学を介した大学教員のコンサルタント業務については,報酬を大学教員が3分の1,彼が属するカレッジが3分の1,大学がそれぞれ3分の1ずつ受け取る)。
一般的に言うなら,大学教員と大学の指導者は,大学組織と専門分野のレベルでの資源構成比の変化に極端に敏感であることがわかった。オーストラリアでは,ヴァイス・チャンセラー〔学長〕は大学教員に企業家として行動するよう奨励している。彼らの望みは,特許使用料,直接販売,大学教員のコンサルタント業務の分け前といった利益になる活動を通じて資源を作り出す成果やサービスを開発することなのである。アカデミック・キャピタリズムを振興するために管理者たちが用いる方法はさまざまである。ある管理者は大学教員にイニシァティブを与えた。緩やかな政策ガイドラインを作って,大学教員が市場向けの成果やプロセスを発見し開発するように促す刺激を与えるが,それ以外のことはしない,というやり方である。別の管理者は特定の成果やプロセスに目標を定め,その開発を強力に推進する。さらに別の管理者は,複雑な技術の開発を支援するための大きな資源を創出しようとして,企業人や政府の指導者と協力する。最後の事例では,大学教員は,比較的安定した企業でパートナーとして活動するために学際的に協力するよう奨励される。
多くの場合,学科やセンターの指導者は,知的所有権をもたらす技術移転活動や大学教員のコンサルタント業務からの収入も含めて,大学教員の活動から収入を産み出す手法の開発に極めて熱心である。彼らは新しい収入をもたらしてくれる学際的な知識を創造するために新しい組織を活用する。彼らの作戦は専門化戦略というよりは企業計画に似ている。しばしば新しい部門に多数の専門的な職員やスタッフが集められる。彼らはセンターや組織の指導者には極めて忠実であるが大学教員とはあまり協力しないし教育にも関心をもたない。彼らはアカデミックな文化よりも営利的な文化にはるかに近く,自分の仕事に営利的な価値を導入し,自分のセンターを小さな会社のようにし,営業活動を拡張し,利益を増やすよう努力する。
大学教員の反応は,中心的な管理者やセンターの指導者の反応よりも多様である。すべての正教授,多くの助教授,一部の若い教員が,企業的活動と知的所有権の開発を前向きに捉えている。大学教員は,特に外部団体との連携の強化,自分たちの部門の威信の向上,経済との密接な結びつき(コンサルタントの機会,学生の雇用機会),金銭的利益の増加に価値をおいている。〔インタビューの対象となった〕大学教員は,元来応用科学者か専門職大学院(professional schools)の出身者であるため,企業的な仕事を自分たちがこれまでやってきたことの延長とみなし,知的所有権に関しても,自分の仕事の当然の延長とみなす。若い教員,学位取得研究員,大学院生は,アカデミック・キャピタリズムにそれほど好意的ではない。彼らは,自分たちは今や二つの場面,すなわち基礎的および営利的な場面で優秀であることを証明するよう期待されているため,業績に対する期待が2倍になったと感じている。
第6章では,知識の性格についての大学人の考え方が変化しているかどうかを課題とした。大学教員は今なお他の何ものにもまさって基礎的で理論的な知識に価値をおいているのか,あるいは市場の圧力と資源依存は大学人の考え方を変化させているのか。大学教授は,利益を産み出す製品やプロセスの発見や開発に携わっている場合,利他主義という知的専門職の規範にどのように対処しているのか。変化が生じているとすれば,その変化はあらゆる分野に及んでいるか,あるいは研究大学においては市場に隣接した分野に限定されるのか。大学教員が直面している環境の複雑さの故に,専門分野の境界を越える必要があり,アカデミック・キャピタリズムをめぐって出現しつつある考え方を理解するために,さまざまな理論に拠ることになる。第5章と同様,大学教員の側の行動変化については資源依存理論が役に立つ。再び第5章と同様,大学教員の規範,価値,信念の変化,さらには大学教員が組織のアクターとして規範,価値,信念をどのように表明するかなどを理解するために専門職業化理論に拠った。特に大学教員と市場との相互作用(Brint 1994)を詳しく検討するために専門職業化理論に注意を払った。われわれが研究対象とした大学教員の多くが科学者ないしは技術者であったので,科学と社会との接点を見るために科学革新の理論と科学社会学を用いた(Gummett 1991; Etzkowitz 1994; Gibons et al. 1994)。アカデミック・キャピタリズムに関与している大学教員は知識について再考するようになり,その結果,企業的な研究,特に先端科学技術における企業的研究やグローバルな市場のための革新的な成果やプロセスの発見に関わる研究を高く評価するだろうとわれわれは予測した。
データは,第5章のサンプルの一部,すなわちアカデミック・キャピタリズムに深く関わっている部門に所属する30人のテニュアをもった大学教員に対するインタビューである。学際的なセンターや学科といった部門レベルで,また,いくつかの専門分野や下位分野では,知識に対する考え方が大きく変化している。利他主義に関しては,アカデミック・キャピタリズムに関与している教授たちは両義的である。彼らは自分の研究が人類に利益をもたらすことを望んではいるが,儲かる研究についてもそれなりに語り始めている。彼らが自分の研究を営利的な目的のための資金で支えているのなら,他の研究者がそうしてはいけない理由はない。基礎研究と応用研究についても同じことが言える。彼らはまだ基礎研究が科学の基盤だと考えているが,企業的な研究が基盤の上に新しい複合物の地層を形成しつつあるとみなしている。業績は出版によって獲得されるものとは限らない――少なくとも部分的には,業績は市場活動や市場類似活動による成功も含むものとなっている。大学教員は知識についての考え方を管理者よりも早く変化させている。市場に近接しているハイテク分野の大学教員にとって,知識は発見を産み出す力であるのと同様に営利的な潜在力と資源を創出する力として価値がある。
結論の章では,中等後教育の再構築にとって,専門的仕事にとって,科学に関する新しい考え方にとってどのような含意があるかを考察した。事例研究で提示したデータに依りながらも,アメリカで現在起こりつつある中等後教育の変化について幅広く論じた。最後に,政治経済の変化に大学教員と大学の指導者が対処するための代替案を提示した。
われわれは以下のような結論に達した――アカデミック・キャピタリズムを適切に理解することは,大学教員とスタッフが自分たちの日常生活について適切な感覚をもつのに役立つ,成功したアカデミック・キャピタリスト(大学資本家)は大学の内部で個人的にも集団としても権力を獲得する,組織のすべてのアクターにとってストレスが増加する,権力の再配分の中で中心的な管理者は力を増すが中間管理職は組織の中での重要性が減少する,大学の共同管理という考え方は損なわれる。共同体としての大学――そこでは個々の構成員は組織全体の利益を第一に考える――という理念の消失がみてとれる。大学の活動的な部門へ権力を移す主な手段は,個々の部門に収入の増加の責任とそれを使う権限をともに認めることによって,予算を移譲することである。一括補助金を提供している政府と教育のための費用の一部を授業料で負担している学生は,要求を大学に実現させる力に限界があると思われる。この点では,特定の目的のために資金を提供し,その目的を達成するように求める人々に対する大学の反応とは対照的である。
本書を執筆するにあたって,われわれが最も強く願っているのは,公立の研究大学で見られる学士課程教育の衰退は,収入構成比に占める政府の一括補助金の割合の減少の当然の,ほとんど不可避の帰結であることを国と有権者に知ってもらいたいということである。このような傾向を逆転するには,国のより大きな支援と国の要求に対して大学がもっと責任を感じるようになる方法,あるいはその両方が必要であろう。結局のところ,競争的な市場という環境の中で,国の一括補助金と授業料収入は入学者数に比例して部門に配分しなければならないとわれわれは確信しているが,このことについて短期的および中期的に楽観できない。政府は,国が使われるべきだと考えている線に沿って大学が資源を配分するための動機付けを案出しなければならない。(第1章完)
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