学問の自由

――世界の現実と問題点――

フィリップ・G・アルトバック

(成定薫 訳)


 学問の自由は、世界の多くの箇所で攻撃にさらされている。エジプトのある著名な社会学者はエジプトの「名誉を傷つけた」として逮捕され、香港の大学の世論調査研究者は地域の有力者に批判的な世論調査結果を公表しないよう大学の学長から警告され、セルビアの大学人たちは体制に反対しているとしばしば逮捕されている(Landler 2000, Sachs 2000, Agovino 2000)。スハルト体制打倒に成功した民主化運動に参画していたインドネシアの大学人は、いかなる場合も表現の自由を決して認めなかったスハルト政権によってしばしば投獄されたり職を追われた(Human Rights Watch 1998)。マレーシアとシンガポールでは、ある種の話題については、政府の圧力によって、研究や出版はタブーとなっている。学問の自由は、世界中で決して安泰ではない。

 学問の自由は、大学の使命のまさに核心である。多くの人々は、高度に発達した高等教育システムは学問の自由なしでは存続できないと論じるであろう。21世紀初頭の現代、学問の自由に関する楽観論には根拠がある。旧ソ連諸国も、中・東欧諸国も、学問の自由に関して、十分とは言えないまでも、かなりの水準に達している。多くの国々や大学制度は、少なくとも、学問の自由と呼ばれるものが何かを認識しており、それを尊重することを表明している。とはいえ、学問の自由は安泰とは言い難いし、大学の中核的な価値に関心を抱く人々は用心深くあらねばならない。世界的な再評価が必要である。

 大学教授が抑圧的な政権の言いなりになっているような国はほとんどないが、一般的な緊張状態の中で、一時的に政府の取り締まりが厳しくなるということはよくみられるパターンである。実際、脅威――直面しているものであれ潜在的なものであれ――は大きいので、学問の自由に対する自覚を高め、一層確かなものとするための積極的な方策を講ずる必要がある。

 さらに、学問の自由は、驚くべきことに、国際的な協議事項の中で高い位置を占めていない。この問題は、学術的な会議でめったに議論されないし、ユネスコや世界銀行のような機関が出す宣言や報告書に登場しない(Burgan 1999, 45-7)。高等教育を指導し資金を提供する責任ある人々は、もっぱら財政問題や経営問題に関心を向けている。大学の使命と価値に対してもっと多くの注意が向けられるべきである。というのも、大学は学問の自由なしでは、潜在的な可能性を発揮できないからであり、登場しつつある知識を基盤にした社会に十分貢献することもできないからである。

 

定義の曖昧さ

 学問の自由は単純な概念である。本質的にはその通りだが、定義するのが困難でもある。学問の自由は、中世以来、教授が自分の専門分野において外部から干渉されずに教える自由を意味してきた。また、学生の学ぶ自由も含意してきた。学問の自由という概念は、十九世紀初頭のドイツにおける研究志向のフンボルト的大学の勃興とともに、さらに意味を明確された。フンボルト流の概念は、「教授の自由Lehrfreiheitと学習の自由Lernfreiheit」を神聖なものとした。

 学問の自由に関するこのような概念は、教室内部および教授の専門知識の範囲内で、教授に特別の権利を与えた。当初から、大学は知識を追求し伝達する特別の場所だと考えられた。大学人は、真理を探究するという使命を理由に特権を要求した。教会権力者も世俗の権力者も、大学に特別の自律権を容認するよう求められた。しかしながら、学問の自由は決して絶対的なものではなかった。中世の大学において、大学で教えることに関して、教会も国家もある程度影響力を行使した。ローマカトリック教会の教義と対立するようなことを教える教授はしばしば制裁を加えられ、世俗の権力に対する忠誠が求められた。それにもかかわらず、大学では、社会の他のどこよりも大きな表現の自由が存在した。

 十九世紀初頭のドイツ大学では、研究が大学の使命の一部であるという概念に拡張された。大学教授には、教室と実験室における研究と表現に関して絶対的ともいえるほどの自由が与えられた。しかし、学問の自由は必ずしも、広い政治的あるいは社会的問題に関する表現を擁護しなかったし、社会主義者や反対者が大学に任用されないことは学問の自由の侵害だとはみなされなかった。

 十九世紀後半、研究大学という理念が大西洋を渡り、学問の自由の概念は拡張された。二○世紀の初頭までに、アメリカ大学教授連合(American Association of University Professors AAUP)は、学問の自由を、専門知識の領域だけでなく、教室と実験室におけるあゆる問題を含んだものと定義した。AAUPは、学問の自由という概念を大学外での表現の自由という特権とも結びつけた。大学教授は社会における価値ある批判者とみなされ、あらゆる問題についての演説と著述の特権を付与されたのである。ラテン・アメリカでは、一九一八年の大学改革運動の結果、学問の自由に関する非常に幅広い定義が大学社会全体に適用されるようになり、公権力は大学の許可なく大学構内に入ることを禁じられるまでになった。「自律的な」ラテン・アメリカの大学という概念はこの時生まれたのである。

 こんにち、学問の自由の適切な定義をめぐってかなりの混乱がみられる。一般的に言えば、新世界(南北アメリカ)における幅広い学問の自由の概念が大学社会内部では受容されている。しかし、学問の自由の概念はどこにも詳しく述べられていないし、どこでも法的強制力をもっていない。ある国では大学と公権力がともにフンボルト的な狭い定義を前提にしているが、別の国では大学の内外で、新世界的な幅広い理念が支配的になっている。学問の自由に関して幅広く認められた理解は存在しないのである。

 大学や個々の教員が特権や自由を要求すれば、義務も生じるかどうかについては議論のあるところである。例えば、大学は明確な政治的立場をとるべきでないし、政治的な論争や運動に組織として巻き込まれるべきではないと論ずる人がいる。大学は、そしてある程度まで個々の教員は、客観的な分析ができるように、直接的な争いに距離を置く責任があると言われる。この論点は発展途上国では特に重要である。なぜなら、発展途上国では、大学人たちがしばしば独立運動に関係していたり、政治的な関与という伝統が存在するからである。例えばラテン・アメリカでは、教授も学生も軍部独裁に抗する闘いに積極的に参加し、一九六○年代及び一九七○年代の左翼運動をしばしば支援し、その結果、権力者の怒りが大学に向けられた。アルゼンチン、ブラジル、チリのような国々では、抑圧的な体制によって多数の教授や学生が投獄され、追放され、さらには殺害された。抑圧を認めるものはいないが、大学は党派的な政治からは距離を置くべきだし、個々の教員が政治的・社会的な問題について発言する権利と組織の中立性という概念は区別すべきだと論ずる人々がいる(Ashby 1974, pp.73-87)。アメリカ合衆国では、一九六○年代を通じて、組織としての大学がヴェトナム戦争に反対するというような問題に関して態度を明確にすべきかどうか論争があった。個々の教員や学生が反戦運動に参加する権利を認めないものはいないが、多くの人々は大学自身は中立的であるべきだと考えた。社会的・政治的領域における大学の適切な役割という問題は、学問の自由の役割をめぐる論議の中で未決着の部分として残っている。

 大学に対する政治的・イデオロギー的理念の影響をめぐる論争もあった。アメリカ合衆国では、「政治的正しさ(political correctness)」の批判者は、大学内の党派が自分たちの見解を大学の組織や専門学会に押しつけ、結果として、学問の自由の規範を冒している、と非難してきた(Kors and Silverglate 1998)。ラテン・アメリカや南アジアの多くの国々では、大学における任用・選挙・出版・研究に党派的な政治や人種的な問題が入り込んでくるのは自明のこととなっているが、世界の他の場所ではそのようなことはない。これらのの圧力は、通常、大学の内部から生じているのだが、学問の自由を危うくする。介入圧力は余計な争いをもたらし、大学の運営や教育研究に能力主義に反する要因を導入し、大学人相互の関係に影響を及ぼす。このような争いは、しばしば学問の自由と関係づけて考えられていない。もし、学問の自由が教育と研究の自由な追求を意味するなら、意志決定はもっぱらアカデミックな基準でなされるのはもちろん、意志決定に政治的あるいは他の要因が入り込むことに注意すべきである。

 多くの論者は、学問の自由によって付与された自由には、それに見合う責任が伴うと論じている(Shills 1991, 1-21; Poch 1993; Russel 1993)。高等教育における教育と研究に関わる人々は、学問的な仕事のあらゆる局面で真理と客観性に献身する特別の義務がある、というわけである。これらの論者は、大学人は政治に関与すべきでないと論じる――大学は政治的な機関ではないし、アカデミックな営みに関わるものは、大学が生き残れるかどうかは党派的な政治と適切に距離を置く能力にかかっていることを認識する必要がある。他の論者は、学問の自由に関してもっと絶対論的な見解をもっており、大学の教員は自分が適切だとみなすどのような活動にも参画する権利をもっているし、教員を代表する団体も同様の権利をもっていると考えている。今のところ合意はなく、その結果、学問の自由の適切な限界をめぐって少なからぬ論争が存在しているのである。

 

歴史的先例

 学問の自由には長い論争史がある。教会権力と世俗権力は、何世紀にもわたって、教育、研究、意見の公表について、大学社会に制限を課してきた。カトリック教会は正統教義に反するような神学上・科学上の教説を大学で教えることを禁じた。神学教授であったマルティン・ルターは、その神学的見解の故に、教会当局と対立し、教授職を解かれた。彼が大学での仕事を再開できたのは、プロテスタントになった地域のいくつかのドイツ大学が彼の見解に賛同するようになった後であった。多くの争いの結果、特に、十九世紀初頭の研究大学の勃興に続く争いの結果、表現の自由が徐々に拡大され、教授たちの教育と研究は寛容に取り扱われるようになった。

 しかし、学問の自由は、たとえ強力な歴史的伝統を有する大学の場合でも、常に争いの種であった。学問の自由の近代的な理念がドイツ産であるという事実にもかかわらず、ナチス・ドイツでは学問の自由は完全に抹殺された。第三帝国の時代、ドイツの大学では、教えられる内容に直接制限が加えられただけでなく、ユダヤ人教授や政治的反体制派とされた教授と同様、ナチスの新しいイデオロギーに同調しない正教授(終身在職権をもつ教授)は解雇された。このような動きに対してドイツではほんのわずかな抗議しか起こらず、ドイツの教授団体も学生組合も学問の自由に対するナチスの弾圧を支持した。多くの場合、大学自身がこの変化を押し進めた。一九五○年代の冷戦時代のアメリカ合衆国における反共産主義ヒステリーの中で、共産主義者と名指された人物を大学から追放しようとする政府当局によって学問の自由は挑戦を受けた。カリフォルニアやニューヨークといった公立大学において、多数の教授たちが州の規則によって職を奪われた。また、左翼的な教授を「あぶり出し」、解雇したり辞職に追い込んだりした場合もある。いくつかの大学は学問の自由の名のもとに教員を守ったが、外部の圧力に屈して教員を解雇した大学もある。この時期に実際に解雇された大学教員はそんなに多くないが、抑圧的な雰囲気の中で学問の自由は損なわれ、多くの大学人は解雇を恐れた。これらの事例は、たとえ強力な学問的伝統があり、学問の自由が理解されている国でも、大学は深刻な危機にさらされ得るということを示している。

 ラテン・アメリカの大学の伝統も、学問の自由に関する論争に対して一つの重要な考えを提起した。一九一八年のコルドバ改革において神聖なものとされた大学自治の理念はラテン・アメリカでは長らく大きな力をもってきた(Walter 1968)。学生の抗議に端を発したものが、アルゼンチンだけでなく多くのラテン・アメリカ諸国の大学の重要な改革を引き起こした。この大陸(南米大陸)の多くの国公立大学は、法律と伝統によって自治的である。このことは、学問の自由はもとより、国家との関係にとって意味があるム自治の理念は、ラテン・アメリカが政治的に不安定だった時期を通じて教授と学生を擁護する役割を果たした。教授と学生を完全に守ることはできなかった(特に一九六○年代及び一九七○年代を通じての軍事独裁政権の時代)とはいえ、南米大陸では高等教育に関して考える場合、彼らを守ることが中心的な課題となってきた。

 植民地支配の経験のある国々では、学問の自由は歴史的にしっかりと根付いておらず十分に擁護されてもいない。宗主国は、イギリスであれ、フランスであれ、日本であれ、どの国であれ、支配している人々の不穏な動きを恐れている。そのため、植民地に大学が設立される場合、宗主国の大都市にある大学をモデルにしながらも、宗主国の大学で認められている自由は植民地の大学には一般的に認められなかった。宗主国の恐れが正しかったことが明らかになった。しばしば知識人や学生が独立運動の担い手になったからである。かつて植民地であった国々の大学は、しばしば学問の自由を確立するために闘わねばならなかった。政府が安定を維持しようとして、すぐに大学問題に介入するからである。不穏な動きはなかなか収まらず、大学は、特に発展途上国の大学は、反対派の牙城であり続けている。もめ事が起こると、学問の自由はしばらくの間忘れ去られる。

 

現実

 もっと多くのデータがあれば、人権、汚職、その他の問題についてと同様、「学問の自由の世界指標」を作ることが可能だろう。このようなやり方は、有用ではあるが、これまで論じてきた学問の自由の定義という問題があるため、実行するのは非常に難しいだろう。以下の概観は、包括的な議論のために第一歩となろう。

厳しい制約

 学問の自由が存在しない国がある。おそらく最もひどい事例はビルマであり、ビルマの大学は何年間も閉鎖されてきて、ようやく再開されようとしているが、厳しい制約を課せられ、学問の自由はない。軍事政権は学生の政治運動を封ずるために大学を閉鎖したのだが、そもそもこの政権は大学人を信頼していなかった。政権が不安定な国々では、学生運動を弾圧するため、あるいは教員の批判を制限するために大学はしばしば閉鎖される。大学を閉鎖したがるような政権は、教員の学問の自由にも厳しい制約を課したがる――教室や研究の過程で表明される見解も含めて、教員が社会的・政治的問題に関して発言する自由に対しては特に厳しい制約が課される。

 この点、イランは興味深い事例である。反体制的な考えや運動が、何十年もの間、大学、特にテヘラン大学から生じた。学生と教員はシャー(王)に反対する運動を指導した。現在、大学人はイランの神聖政治の自由化を呼びかけており、政府やイスラム指導部の保守派は、大学を脅威だとみなしている。社会における権力争いの中で教授たちが捕らえられているが、大学が外部の力によってどのような影響を受けているか定かではない。

 大学が抑圧的な政府機構の不可欠の一部とみなされているような国々では、学問の自由に対する制約は、大学システムと政治システムに組み込まれている――社会不安や政治危機が原因となって制約が課されるというわけではない。北朝鮮、シリア、イラクのような国々である。

かなりの制限と危機の時代

 多くの国々では、かなりの程度の学問の自由が多くの学問分野に存在しているが、かなりの制約もある。反体制的だとみなされている活動に教授が関与することは許容されない。関与した場合の処罰は重く、大学での地位を失うばかりでなく、時には起訴されたり投獄される。中国、ベトナム、キューバなどの国々がそうである。学問の自由に対する制約は大学生活――特に政治的・イデオロギー的に敏感だとみなされている社会科学やその他の分野において――の重要な一部となっている。しかし、こういった国々でも、多くの分野で学問の自由をもっている国々と同様に、大学は一般的にはアカデミックな環境を享受している。国際的な科学的・学術的ネットワークへの参画は認められており、多くの専門分野では、教育と研究は政府によって最小限の制約を受けているにすぎない。一九八九年、中国の天安門広場で生じたような政治的緊張が高まると、政府の圧力は急激に強くなる。実際、中国の大学は、天安門事件後の数年間、政府の厳しい統制下に置かれた。これは体制批判の拠点としての中国の大学の歴史的重要性を示している(Hayhoe 1999)。結局のところ、一世紀前、中国の帝政(清王朝)は、大学を拠点にしたデモ隊によって倒されたと言えなくもないからである。

 いくつかのイスラム諸国がこのカテゴリーに該当する。社会に民主的な伝統がないこと、政治情勢が潜在的に不安定であること、大学内部の原理主義者と世俗的な勢力との間で知的な争いがあることなどが合わさって、大学人と政府との間の緊張を作り出している。いくつかの例外はあるが、大学は学問の自由や自治の強い伝統をもっていない。このことが、外部の圧力に対して教授たちを傷つきやすいものにしている。エジプト、アルジェリア、いくつかの湾岸諸国では、原理主義グループを支持している大学人は逮捕や他の制約に直面している。原理主義の体制下にあるスーダンでは、他の立場からの批判的な見解は弾圧される恐れがある。最近、著名なエジプトの社会学者が拘束された事件は、彼の批判的な意見に対する処罰であると多くの大学人はみなしている。

制限のある学問の自由という文脈の中での緊張

 多くの国々は比較的自由――特に、教室の中で、また、国家から政治的・イデオロギー的に敏感でないとみなされている分野の研究に関して――と特徴づけることができよう。一般的には、こういった国々は学問の自由を擁護していると表明しているが、しばしば深刻な問題が生じている。学問の自由に対する制限は明確にされることは少ないし、制限に違背した際に課される罰則は言明されないことがあるし、多くの大学人にほとんど理解されていない。これらの国々で、学問の自由の制限を試すようなことは危険だし、制限が存在しているという事実は、大学人の間に威嚇効果を呼び起こす。

 政府当局は、しばしば警告抜きで、かなり厳しい罰則を課すかもしれない。例えば、エチオピア政府は、理由ははっきりしないが政治的な抑圧の含みで、アジスアベバ大学の多数の教授を、最近、投獄した。多くの国々で、教室や公の論議の中で表明された反体制的な感情が物議を醸すであろうことは明らかである。セルビアでは、ミロシェビッチ体制に対する学生の反対運動は大学に抑圧をもたらし、政府は、結局はうまくいかなかったのだが、大学を支配しようとした(Sector 2000)。

 時代を通じて多くの学者にかなりの程度の学問の自由が存在している国がたくさん存在しているだろう。しかし、そういった国々でも、政治的危機あるいはその他の危機が大学や学問の自由に深刻な問題が生じるだろうし、多くの大学人に居心地のよくない雰囲気を醸成するだろう。アフリカやアジアの多くの国々がそのような状況にある。政府が弱体で正統性をもたず、しばしば植民地主義の結果として大学の伝統未確立な国々がそこに含まれる――そういう国々の大学は国家の支援に頼りがちである。大きな大学システムをもち、時代によってはかなりの学問の自由を享受しているナイジェリアは、特に軍事政権下では、学問の自由に対する制限に直面している。より小さなアフリカの国々は、一般的には大学の伝統が弱く、学問の自由は弱い。アジアについていえば、数十年の抑圧から脱したカンボジアは徐々に大学を再建しつつある。体制が不安定であること、数少ない資金源に依拠していること、クメール・ルージュ時代を通じての高等教育の徹底的な破壊のために、カンボジアにおける学問の自由を確立するのは困難だろう(Chamnan 2000)。

 政治的に不安定という条件のもとで学問の自由を構築するというのは大変なことである。大学はしばしば政治的・知的批判派の拠点であり、体制の不安定さを増すような機関に体制が自由や自治を与えようとはしない。大学人自身、学問の自由に馴染んでいないし、時には政治的な争いに巻き込まれているので、学問の自由を作りだしたり、自己規律を行使するような立場にはない。

限界のある学問の自由

 大学人の発言の自由に対する制約や教授が研究することに対する制約がある国々がある。これらの制約は、多くの抵抗があるものの、大学人によって広く受け入れられている。しばしば明示的でない規範に違背したことに対する制裁は、管理者による穏やかな注意から、失職――稀には法廷における糾弾――に至る。シンガポールとマレーシアは、ある種の研究課題や反対意見の表明を非公式に長く禁じてきた国である。民族的な衝突、宗教的な問題、地域的な腐敗などは、学問的な研究に不適切だとみなされている課題であり、特に研究上の知見が政府の政策に疑問を呈するような場合がそうである。これらの規範に違背したことに対する処罰は厳しいものとなりかねないので、大学人は微妙な問題に関して教室で言うことに注意深くなければならない。シンガポールでは、リー・クワン・ユー前首相が、国立シンガポール大学の教員の会議に時折やってきて、個々の大学人の著述をこき下ろしたり、自らが定義する国益のために働くように教員を激励したものである。

 多くの国々では学問の自由に対してこのような制限がある。政府当局は、良好な関係を維持している大学事務局に対して、予算配分や研究資金は教員の側の適切な学術的・政治的振る舞いに依存していると明言している。

学問の自由の復活

 学問の自由は、世界の全く異なる二つの地域で強化されつつある。一つはラテン・アメリカで、この地域は少なくとも一九一八年のコルドバ改革運動にさかのぼる学問の自由と自治の強力な伝統を有している。一九六○年代と一九七○年代にラテン・アメリカの多くの国々で生じた政治的混乱は、軍事政権、社会的不安定、ゲリラ闘争へと至った。多くの大学、特に主要な都市にある大きな公的で自治的な大学は、常に左翼的な立場から争いに深く関与した。いかなる場合も学問の自由に意義を見いださない軍事政権が、大学に対して敵対的となったのは驚くにあたらない。この時期、学問の自由と大学の自治の理念は大きく後退した。批判派として知られる教授たちは追放され、投獄され、さらには殺された。学生運動は徹底的に弾圧された。ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリその他がこのような状態にあった。

 ラテン・アメリカの大学は少なくともコルドバ運動以来、国内の政治に深く関与してきた。また、党派的な政治が大学内の選挙に、またある大学では学園生活全般に影響を及ぼしている。民主主義が再建された場合に、学問の自由を復活させ、さらには強化することが可能となるだろう。ラテン・アメリカの経験は、厳しい弾圧の後でさえ、学問の自由の強力な伝統が復活し得ることを示している。

 学問の自由が復活したもう一つの地域は、中部および東ヨーロッパと旧ソ連である。これらの国々は立派な大学の歴史を有しているムム世界で最も古い大学のいくつかはチェコやポーランドの大学である。しかしながら、学問の自由は、当初はナチス占領下で、また、大学を国家の召使いとみなした四十年以上に及ぶ共産党支配下に根底から破壊された。イデオロギー的な忠誠が要求され、政治的・学問的権威に遺灰した場合の制裁は、解職や起訴を含む、極めて厳しいものであった。学問の自由は、社会主義社会には適さない「ブルジョア的な」概念とみなされたのであった。

 共産主義体制の崩壊とともに、大学の状況は急変した。学問の自由は高等教育の中心的価値として復活し、共産主義時代のイデオロギー的な飾りは剥ぎ取られた。教育と研究は、もはやイデオロギー的・政治的目標に従属すると考えられていない。しかしながら、大学の変革は容易ではなかった。例えば、共産党支配に過度に忠実であったと認定された多くの教授たちは即座に職を追われたが、古い体制から引き継がれた資金配分や管理運営のやり方が、多くの場合、ほとんど残されている。

 この地域にかなりの度合いの学問の自由が存在していることに疑問の余地はない。今や昇進は能力によって行われている。大半の大学人は、いかなる教育・研究を行おうと直接の制裁を恐れることはない。長い大学の歴史、安定した民主的な政府、しっかりした経済、主要な西洋諸国との結びつきをもつ国々――チェコ、ハンガリー、ポーランドなど――は、学問の自由と大学の自治をを大切にする大学の規範をすみやかに再興した。学問の自由は、ベルラーシではまだ緒についたばかりであり、ウクライナや他の中央アジア諸国では危うい状態にある。前述したセルビアは危機に陥っており、ボスニア−ヘルツェゴヴィナとコソボの大学は徐々に再建されている。ロシアと、メチアル政権時代のスロヴァキアを除く中央ヨーロッパの多くの国々における状況ははるかに恵まれている。この地域において学問の自由の強力な伝統を構築することを困難にしている理由は、学問の自由の伝統が弱いこと、人口の一部しか代表していない正統性の乏しい政府に大学システムが依拠していること、数十年に及ぶ厳しい抑圧などである。

 

先進工業国

 主要な先進工業国にあっては、学問の自由が相当の力をもっていることは多くの人々が認めている。日本やドイツのような国では、一旦は学問の自由が廃棄されたが、第二次大戦後、学問の自由の強力な伝統が再構築された。アメリカ合衆国における反共産主義による学問の自由の制約もほんの数年続いたにすぎない。すべての先進工業国は、教育と研究における学問の自由を大切にしており、大学及び社会における教授の表現の自由を認めてきた。高等教育における教育と研究に対する制約は、たとえあったとしても、ごく限られたものである。このような一般的には健全な状況にもかかわらず、注目に価するいくつかの問題がある。

 アメリカ合衆国では、学問の自由に対する深刻な脅威は大学の内部にあると論ずる人々がいる。彼らは次のように主張している。主として社会科学や人文学の教授たちの間に「政治的正しさ」を強制しようとする勢力があり、いくつかの専門分野に対してリベラルないしは急進的な見地からみて正統とされる学説を押しつけ、これに反対する人々を沈黙させようとしている、というのである(Kors and Silverglate 1998)。近代言語学会のようないくつかの学術団体は、激烈なイデオロギー論争に見舞われた。実際、さまざまな考えをもつ大学人が制約を受けたり失職したという証拠はほとんどないが、いくつかの専門分野の政治化をめぐる論争は、大学内部の内部で考え方に対する寛容さをめぐる疑問を引き起こした。政治化、すなわち学術機関や専門分野に対するイデオロギーの影響はアメリカ合衆国に限らない。一九六○年代を通じて、イデオロギーは西欧における学問的政治学やいくつかの専門分野に一定の役割を演じ、多くの場合、大学における選挙や任用に影響を及ぼした。

 大学人が企業に深く関与したり私的に支援された研究が増大していることが研究費のあり方を変化させており、このことは学問の自由にも影響を及ぼしている、と論ずる人々がいる(Slaughter and Leslie 1997)。大学人は「企業化」され、大学のキャンパスを企業の利害が支配している、というわけである。企業の出資者に即座に結果を出せるような応用研究を優先して基礎研究が軽んじられる――基礎研究に対する政府の支援は減少するか、科学上の必要に見合うほどは増えない。研究資金のかなりの部分は、特に生化学の分野では、企業から直接提供され、研究成果は私有物とみなされる――特許など企業の利益につながっている。研究上の知見は、企業による資金提供ということで時には秘密にされる。このことは多くの人々によって、大学人がその研究成果を自由に流布する権利に抵触していると考えられている。基礎研究の未来は、資金配分のこのような変化によって危うくされているというわけである。

 通常、学問の自由の文脈の中で論じられることはないのだが、上記に関連した問題は高等教育における「経営管理主義(managerialism)」と呼ばれるものの増大である。すなわち、大学の管理運営に関して、教授団の権威から独立した管理者や事務スタッフの権力の顕著な増大である。学問の自由と自治とは関連しているが、管理におけるこのような傾向は教授団の自治と権力を弱める。大学の方針を決定し、カリキュラムを開発し、教室を取り仕切り、自由に研究課題を選択し遂行するという教授の権威が、このような傾向によって妥協を強いられているのである。権力と権威が教授団から専門的な管理者や外部の運営組織へと移行することは大学教授職の伝統的な役割に劇的ともいえる影響を及ぼすであろう――学問の自由にも大きな影響を及ぼすことになる。

 現在の状況をめぐる論議を締めくくるにあたって、大学教授自身が学問の自由をどのように考えているかを見ておくのがよかろう。十四カ国(アフリカを除くすべての大陸から選ばれた平均的な所得がある先進工業諸国)の大学人に関する調査によると、大学教授職が強力に守られているかどうかに関して、かなりの見解の幅が見られる。ブラジルとロシアでは、この質問に対して多数が否定的に答えたが、それ以外の国では75%以上が肯定的に答えている。とはいえ、イスラエルを除くすべての国で、教員の約20%が否定的に答えている。ほぼ同数の教員が、自分は研究教育に何の制約も感じていないと答えた。しかしながら、「この国では学者が出版することに対して政治的・イデオロギー的制約は存在しない」という命題に答えるよう求められた場合には、かなりの人々がそうではないと答えたムムアメリカ合衆国34%、イギリス25%、メキシコ27%(Boyer, Altback, and Whitelaw 1994, 101)。こういった事実は、大学人がこれらの国々における学問の自由の状況について当然ながら楽観的であることを示すとともに、若干の危惧を抱いていることも示している。

 実際、先進工業国における学問の自由に対する挑戦は非常に巧妙なものであり、ある場合には、ここで述べたあからさまな侵害のように直ぐにそれと分かり反対できるものより、一層悪質なものとなる。

 

何ができるか

 歴史の示すところでは、学問の自由は大学が機能するために根本的な前提条件であるばかりでなく大学(アカデミア)にとって中核的な価値である。ちょうど人権が国際的に重要となったのと同様に、学問の自由は高等教育の世界にとって最大の関心事とならねばならない。高等教育は国際的な広がりをもっている――ある国に影響を及ぼすような問題は他の国にも関係がある。学問の自由に関連する複雑な問題についての洗練された理解も要求される。以下の項目は学問の自由のための行動計画の一部である。

 学問の自由は、高等教育に関心をもつすべての人々にとって最重要課題でなければならない。しかしながら、現在のところ、学問の自由はほとんど議論されていない。学問の自由をテーマにした国際会議はめったに開催されない。大学という企業の主要なアクターは、財政問題、説明責任、組織の存続に関心を注いでいるように見える。

 学問の自由には誰もが認めるような定義が必要である。大学という枠の内部および学者の専門知識の領域の中での教育と研究の擁護というフンボルト的理念に限定すべきだろうか。あるいは学問の自由は、大学内外の広範な問題に関する表現、さらには行動の自由も含むべきだろうか。現在のところ、学問の自由とは何かに関する合意がないことが共通の理解と統一行動を困難にしている。

 学問の自由に対する侵犯は監視され、世界中に知らされねばならない。インターネットの時代、学問の自由の問題を注視し、学問の自由をめぐる危険な状況や傾向に関する情報を即座に広報するのは容易なことであろう。インターネットを基礎にした「早期警報システム」が情報を提供し関心を高めることになろう。

 学問の自由に対する侵犯を調査するためのもっと厳しいやり方が、重大な侵犯に対する国際的な関心を増加させるだろう。長年にわたって、アメリカ大学教授連合(AAUP)はアメリカ合衆国における学問の自由を監視してきた。学問の自由を侵犯していることが判明した大学は非難され、大学界はこの状況を通知される。侵犯が是正されると、非難も取り下げられる。非難されている大学のリストに掲載される以外の制裁はないし、実際のところ、AAUPによる非難はほとんど影響はない。これと類似の国際組織は疑問の余地があるし、組織するのは経費がかかるだろうが、学問の自由に対する意識を高めるには有意義な道具となるだろう。

 二○○○年半ばにシカゴ大学の人権プログラムによって組織された「危機にある学者」Scholars at Riskのような学問の自由のための連帯ネットワークは、迫害されている個々の学者を助ける有効な道具となるだろう。このネットワークは、学問の自由をめぐって世界が今どのような状況にあるかに注目を集めさせるという大きな目標をもって、困難な状況にある学者を見つけだし、彼を援助してくれる大学に送り込む。

 

結論

 学問の自由は高等教育の中心的な課題である。学問の自由は、大学に関するあらゆる論争の中心になければならないのに、おおむね無視されている。学問の自由は、経営上の説明責任、遠隔教育、あるいは新千年期における他の宣伝文句と同様に重要である。実際、教育と研究の中心的な仕事は、学問の自由がなければ、真に有効ではあり得ない。さらに、二十一世紀初頭、学問の自由は、教授を迫害することによって学問の自由を侵犯しようとする勢力からの挑戦や、新しい技術によるインパクトや伝統的な大学を再編することに伴うインパクトによる挑戦にも直面している。大学の未来は、学問の自由をめぐる健全な雰囲気に依存しているのである。


広島大学高等教育研究センター編『構造改革時代における大学教員の人事政策――国際比較の視点から(COE研究シリーズ5)』2004年、pp.99-111.