アカデミック・キャピタリズムとアカデミック・フリーダムの間:大学教授職の再定義をめぐって

 

成定 薫


 2004年4月の国立大学の法人化は、我が国の大学の歴史にとって大きな転換点となるだろう。法人化を契機に、大学の理念、社会における大学の機能と役割などが、当初はそれほど明確ではないが、徐々に、そして決定的に変化していくものと考えられる。

 国立大学の法人化それ自体は我が国に固有の出来事だが、法人化を促した背景と考えられるニュー・パブリック・マネジメントの導入やアカデミック・キャピタリズム(大学資本主義)の浸透は、知識基盤社会の進展とともに多くの国々に共通してみられる現象である。当然にも、20世紀末から21世紀初頭にかけての大学をめぐる大きな状況変化の中で、教育、研究、管理運営の中心的な担い手としての大学教授職のあり方も、問い直さざるを得ない。

 以上のような状況認識に基づいて、研究セッション「大学教授職の再定義」というテーマが設定されたと言えよう。セッションでは、3人の報告者を得て、過去、現在、未来という時間軸に沿って大学教授職とは何かが論議された。

 望田幸男氏は「歴史からみる大学教授職--ドイツの20世紀」と題して、ドイツ大学の量的拡大とそれに伴う「大学内社会問題」の発生について、氏の長年の研究成果を踏まえて次のように論じた。

 ドイツの大学は、19世紀を通じて学術研究のメッカとしての位置を確立した。大学教授(正教授)は、教養市民層の中核として、社会的に圧倒的な権威を獲得し、経済的にも恵まれた。しかし、学生数の増大に対処するために正教授ではない教員スタッフ(非正教授)が増加するにつれて、これら非正教授は、威信においても収入においても正教授との間に大きな落差が生じ、これが「大学内社会問題」として20世紀初頭以来しばしば取りざたされてきた。 「大学内社会問題」は、なかなか解決の目途が立たなかったが、ようやく1970年代になって一定の解決をみた。少数の特権的な正教授による大学運営が、1960年代末〜70年代の大学紛争の中で行き詰まり、大学運営の民主化が進められるとともに、大学教授職の機能分化と処遇の適性化が図られたからであった。筆者なりに理解すれば、「大学内社会問題」は、ドイツ大学がエリート段階的なシステムに固執する限り解決に至らず、マス段階に適したシステムを採用することによって終息したことになる。

 このような理解が許されるなら、加藤毅氏の「知識社会における大学教員」と題された報告は、マス段階からユニバーサル段階へと大学・高等教育が拡大するとともに、知識社会が進展しつつある状況の中で、大学教授職はいかなる存在とみなされ、どのような機能を担っているかを実証的なデータに基づいて明らかにしようとする試みである、と位置づけることができよう。

 加藤氏の報告によると、我が国の大学教員は、効率的に(もっと素朴な言い方だと「真面目に」)働いていないのではないかという社会一般の批判的な視線の中で、実際には長時間労働を強いられている。しかも、長時間労働の原因の一つがこの間の「大学改革」に伴って急増している会議や事務的な労働であるという皮肉な現実が加藤氏によって指摘された。

 大学教員は「象牙の塔」に立てこもって、アカデミック・フリーダムを享受しているのではないか、との社会一般の昔ながらのイメージとは裏腹に、近年の大学教員は、会議と雑務に追われ、授業評価にさらされながら教育・学生指導に努め、研究に充てる時間を確保するのに汲々とせざるを得ないという状況に置かれているのである。加えて、定常的研究資金に対する競争的研究資金の比重の増加などに見られるアカデミック・キャピタリズムの進展や、教育・研究の成果を社会に還元すべきだ(社会貢献)との要請の中で、大学教員は研究テーマの自由な設定(アカデミック・フリーダム)さえおぼつかなくなりつつある。

 知識社会は、大学・高等教育がエリート段階からマス段階へさらにユニバーサル段階へと量的拡大を遂げる中で、大学卒業者が社会全体に配置されることによって実現したともいえるのだが、知識社会の実現は、結果として、大学教授職から特権としてのアカデミック・フリーダムを剥奪した、といえるかもしれない。

 しかし、大学の本質は、やはりアカデミック・フリーダムにあり、それを体現しているのはテニュアをもった大学教授だというのが、生駒俊明氏の報告「大学の本質と教員組織」の主張であった。大学教授の経験と企業経営の経験を併せ持つ生駒氏は、そのキャリアからすれば意外ともいえるが、産学連携や大学教員の社会貢献には消極的あるいは批判的な立場を表明された。大学の究極的な使命は未来価値の創造にあり、それを可能にするのはテニュアをもった大学教授職が享受するアカデミック・フリーダムだというわけである。

 もちろん、生駒氏が19世紀のドイツ大学モデルを復活すべしと主張しているわけではない。大学をゴルフボールになぞらえて、コアとしての未来価値の創造を担うテニュア教授職と、シェルとして社会からの要求に応える多様な教員スタッフ(任期付き雇用)の二重構造と捉える、あるいはそのような方向に再編すべきだというのが、生駒氏の提案である。このゴルフボールを専門職としての事務職が支えることによって、大学は社会や権力から一定の距離を置きながら未来価値の創造に励むことができるし、同時に社会の要請にも的確に対応することができる、というのが生駒氏が提案する大学モデルである。

 ユニバーサル段階にある大学を機能的・効率的に運営していくためには、大学教授職の役割分化は不可避であろうし、実際、この間の大学改革を通じて、大学教授職はコア部分とシェル部分に機能を分化しつつあるように見える。

 しかし、大学教授職の役割・機能分化が、もし垂直的あるいは階層的な分化となれば、かつてのドイツ大学で生じた「大学内社会問題」の再発につながりはしないだろうか。また、研究資金獲得競争の激化がむきだしのアカデミック・キャピタリズムを育み、その結果、生駒氏が大学の本質と喝破したアカデミック・フリーダムを雲散霧消させてしまう危険性はないのだろうか。このような危惧を杞憂に終わらせる賢明な舵取りが、文部行政当局と大学の運営に直接携わる人々の課題であろう。

 諸外国とは異なって、社会の中に大学および大学教授職に対する尊敬の念が薄く、それに対応するかたちで自らの大学教授職に対する自負心ないしプライドが希薄な我が国の大学教員にとって明るいシナリオを描くのは難しい、というのが筆者の見通しだが、この見通しははずれてほしい。


広島大学高等教育研究開発センター(編)『大学教授職の再定義--第32回(2004年度)研究員集会の記録』(高等教育研究叢書83)、2005年10月、pp.90-92.