受講生の赤尾さんからメールが届きました。(赤尾-5

鉄腕アトムを見て

 アトムも、これまで見たようなフランケンシュタイン、キュリー夫人、アルジャーノンに花束を、ブレードランナーのように科学力を試したいということに何かしらの大義名分を与えそれを実行したと言う様子が見られた。そしてここでも天馬博士は自分の思い描いた形にはならなかったアトム(成長しない息子)を無責任にも捨ててしまった。ただアトムはレプリカントとは異なり自分の意思を発揮出来る状況にあり、しかも人間と共生しようとする心を持っていたため暴走するようなことはなかった。もちろんこの作品は子供向けであったため科学は大いに役に立つもの人を助けるものとして楽観的に描かれており私自身そういった気持を持っていることも否定できないが、人間の手に負いかねるような力も科学は秘めている事を忘れてはいけない。これの例としては同じ漫画作品である鉄人28号が挙げられる。この作品の主題歌でのリモコンひとつで正義の味方にもなれば、悪の手先にもなるという表現は、まさに科学の内包する正と負の可能性を表しているように思う。ここから科学はもちろん、それ以外の何かしらの大きな力を得たときはその正負の可能性を常に多角的な面から考慮して正の方向に働かすことが出来るように内省し行動することをこことがけなければならない。サイエンススタディーズ全体を通じてこれらの考えを学ぶことができた。


受講生の赤尾さんからメールが届きました。(赤尾-4

ブレードランナーを見ての感想

 レプリカント、それは人間のエゴが原因となり生まれた壊滅的環境や宇宙での危険な仕事を押し付けるために生み出された知能を持ったロボットである。またレプリカントは人間に対し厄介な感情をもたないように、製造から4年で寿命が尽きるように設計されている。

 この説明を聞いて、レプリカントもニュアンスは異なるものの以前講義で扱われたフランケンシュタインの怪物と同じように人間の都合で作られ、また廃されることが運命づけられた悲劇の存在であり、両者とも人格があるために自分自身の存在やどうすることも出来ない与えられた条件に対しどう生きるか死ぬかについて深く悩んでいるように感じた。フランケンの怪物のときには生の内側を扱う実存主義的に考えたが、今回のレプリカントについてはその実存主義のある種の限界である生の外側「死」について考える事となった。だが、資料やそれ以外の場面でも言われているように死を見つめることはよりよい生き方を模索し、自分を鼓舞することにもなるので根本のところでは大きなつながりがあると言えた。

 私は死と言うものは最終的な「生」に意味をつけるためのものだと思っている。人が死んだ時に「〇〇なひとだった」とか「あの人からはいろいろなものをもらった」とかいった話がされるのも他人が死を通じてその人の歴史に意味を見出した結果であるのだ。もちろん他人に評価されるために死を意識しておずおず生きる事が主な目的なわけではなく、生の限界つまり死を迎えるまで瞬間的な目標や人生の目的を達成しようと立ち向かう姿勢や遺された物が結果的に評価されていると言う意味である。生への執着というのは死ぬまでにやり残したことがあるから、納得がいかないから持つのだと思う。私は今際の際に、自分自身の人生に納得が出来る生きかたをしたいと言う思いがあり、それが出来れば他人が自分の人生から何かを見出す事も出来ると考えている。私は一昨年に祖母を亡くしたときにそれに気づくことができた。それはもちろん「死」を意識していなければ出来ないことであり寿命がなければ、「いつでもできる」といったことを考え間延びした人生を送る気がする。といっても、生きているうちは自分にも死が訪れるということを理解は出来ても実感はなかなか出来ないので、日頃から死についてあれこれ考えることは、ただ単に怖い、悪いという以外に大きな意味があると思う。またどの考えが正しいと言えるようなテーマではないので人とそういった話をしてみるのもいいかもしれない。その意味でも、『哲学の冒険』での死の意味についての記述は私にとって新しい考えで非常にまた納得の行くものだった。

 「長生きしたいんだよ、畜生」というロイの生への執着は自分自身納得の出来ない人生、レプリカントとしての決まりきった役割を超えたところに、ある人格としての自分が見つめた新しい生き方があったのだろうと感じ私は切なくなってしまった。また、そのロイとの死闘をおえたデッカードの「我々はどこから来てどこへいくのか」と言う台詞については、自殺した画家ゴーギャンの遺作のひとつの題名にもなっているように、切り離せない生と死の間をどう生きるかということを考えさせるような深い言葉であると感じた。


受講生の赤尾さんからメールが届きました。(赤尾-3

『アルジャーノンに花束を』

 名前くらいしか知らなかったこの作品に、私はたくさんの考えさせられる機会を与えられたような気がする。特に、他人と関わる自分自身のあり方ということを考えるにあたっては、やや耳の痛くなるような台詞もいくらかあった。

 チャーリーは頭がよくないことが、同僚たちとの会話の理解を妨げ、知りたい世界が見えないということの原因であると感じ、自分の状態に言いようの無いもどかしさを感じていた。ただチャーリーは純粋な人間であり、頭が良くなるために夜学で勉強することも怠らなかった。手術を受けたチャーリーは、一般人を超える天才的な頭脳を手にいれることができ、それから頭脳も明晰に、憧れていた先生とも恋仲になることができた。また身の回りのことが理解出来、順風満帆な生活を送っていけるようにも見えた。しかし、頭がよくなった事で、自分が同僚からいじめを受けていたこと、精神薄弱者を見下す人がいること、実験者が被験者の気持ちに目を向けずに自分の名誉ばかりを考えていること、実験の成果が一時的なものであることなどを知ってしまった。知能の成長に情緒がついていなかった彼は再び元の状態に戻り、人に見下されること、知能が成長したことによって得た様々なものを失うことをおそれ混乱した。そんなチャーリーが迷路で走り回るシーンは、彼の行き場の無い焦り、アルジャーノンと競争していた過去の自分に戻る恐れをそのまま表しているようで切なかった。

 劇中で特に私の印象に残ったのは、バーで知的遅滞者の給仕がミスをして客に嘲笑されたのをみたチャーリーが激昂するシーンである。チャーリーはその時その給仕に自分の過去の姿を重ねることで、自分がどのように扱われていたかを実感することになったのだ。

 人は自分とは違う他人と接するときに何を考えて接するのだろうか。手術を受ける前のチャーリーは人の思うところというものを理解できずに、自分の価値基準だけを頼りに誠実に他人に接していた。だが手術を受けてからは、他人の思惑を理解出来るようになってきたため、他人が自分とは相容れないような心を持っている可能性があることを理解出来るようになった。彼はそれから誠実ではあるものの、自分がただ単純に以前のような自分だけの世界に生きられなくなっていることに気づいて、苦しむこととなった。ようするにチャーリーは、以前の彼とは違い他人の心にあることまで気にしながら人と接さなければ無くなったのである。著者のメモのように、チャーリーは得られた経験と知識をもとに他人と自分との間に楔を打ち込む事となったのである。

 私は他の人ではないし、他の人は私ではない。経験、知識を共有することはできない。これまで触れて来たこと、経験してきたこと、知識、積み重ねた思考や悩みでもって形作られた価値観をもとに他人と関わるのである。ただ倫理的な価値判断に基づいて行動すればいいという簡単なものではない。

 人対して思いやりの心を持つということは、他人の内面を想像して自分のことのように思いやることができるということである。孔子の論語にあるような「己の欲せざる所は人に施すなかれ」がそれにあたる。この気持はとても大事なことであると私はおもう。しかしそこで注意すべきは、それは突き詰めて言えば主観的に他人の気持ちを想像しているのみにすぎず、他人にはなり切れているわけではないので、自分の思いつく気配り行為がすべて自分の思い通り他人のためになっている訳ではないということを心に止めて置くことが必要であるということだ。独善的なことが人を傷つけることもある。ところで劇中でウェイターを笑った客などは、さまざまな事において悩むということの経験が不足していることが原因で他人の気持ちを自分に投影することが出来ない、もしくは他人の気持ちを想像することさえしようとしない想像力のかけた人間であり、もう少し自らの行動を省みるべきであると私は思う。また教えられたことを頭の中にとどめる作業が得意だったり単純に物を知っていたりすることや高い社会的地位だけが価値だというのではない、むしろそれは自分の幻の万能感や驕りを肥大させることとなり、他人と誠実に付き合うための思考を停止させることを時として招く、それによって自分より(知識や立場などが)意識的にしろ無意識的にしろ劣っていると認めた他人をないがしろにしかねない。この私は他の人よりも頭が良い、偉いという思い上がり、つまり驕りという感覚は、ソクラテスの「無知の知」の考え方が揶揄するところとなる。

 私が言いたいのは、もちろん知識が多いこと地位が高いことは、価値があるといえる。しかしそれらの経験知を材料に他人を思いやる努力(思考すること)が出来なければ真に良い人間であるとはいえない。その点チャーリーは昔の経験からよりいっそう他人との関わり方について心を痛め、苦闘し、努力しようとしていた点で真に知的であると私は思う。給仕をあざ笑う客に対して憤りを見せたことからもそれが見えてくる。そうなるためにもまず無知の知を自覚して、人の心というものは人の数あるということを考え、自分の経験したこと得た知識だけを判断材料に概ねの人間の思惑を理解したという傲慢な認識をまず改めなければいけない。すぐにそうすることは難しく、仕方のないことでもある、人間である以上好き嫌いはあるだろうし、無意識の思いを封殺ことはほとんど不可能だろう。では、どうすればいいのか。私は、分からなくてもずっとわかろうと努力することを止めないことが大事なのであると考える。それはキュリー夫人の課題のときに少し触れたように、映画を見る、本を読む、自分とは違った境遇にいる人と接し、それらを材料に悩み苦しむなかで多種多様な価値観に触れ、自分の価値観というものの幅や深みを増長させて物事をよりリアルに判断出来るようにすることと似ている。相手の立場にたつといっても主観的にしか他人を思いやれない以上、その価値観を広げる行為は無駄ではない。時にそれは辛いことでもあるし他人を見れば自分の負の面を自覚することも多々ある、だが私はその努力を忘れるような人にはなりたくない。

『アルジャーノンに花束を』はこういったことを私に気づかせてくれるよい作品だった。


受講生の赤尾さんからメールが届きました。(赤尾-2

 私はまずマリーキュリーという名前を聞いても、「ラジウムを発見した人」というひとつの事実しか頭に浮かばず、その功績がどれほどのことで、それが科学における功績以外にどういった意味をもつものなのかも、それに至る経緯や苦労話なども、正直なところほとんど分かっていなかった。いろいろと思うところはあるのだが、私が今回映画や川島先生の著書を見て特に興味を持ったのは、政治的背景、女性の社会的地位の変遷と、それにともなって変化していく一女性としてのマリーの姿である。マリーを神話的に語ったエーヴの伝記、フェミニズム運動を迎え、家父長主義の価値観に疑問を投げ掛ける人が増え、また女性が人として主体性をもつことを認められ始めた頃に書かれたジルーとリードの伝記、それに20世紀最後という時代に即して女性像(怒りや友情の肯定)に基づいて書かれたクインの伝記、それぞれの伝記中におけるマリーの人格は時代によって制限され、あるいは解放されることで、マリーという人間は全く異なった目線で捉えられ続けている。私は、マリーがそれによってどんどん立体的で人間らしく魅力ある人物になっていく過程に注目した。

 今回見た映画はエーヴの伝記が元になっているようで(担当者:そうではありません)、伝記の中でマリーは良き妻、賢い母といった女性として理想的な面を持ちながら、抵抗の精神をもち勤勉で潔癖で誇り高い科学者としての顔も持つ偉人としてかかれている。また映画中でもマリーは異常とも思えるような研究熱を生涯発し続け、研究成果については金や名誉を度外視し、ただ科学の発展にその熱を注いだ結果であるというふうに描写されていた。マリーは、科学を通じて女性の社会進出のきっかけを作った科学界の聖女であり、また女性第一号である。その当時、女性の権利はかなり制限されており、権力や支配に対抗していくことや公的空間において個人的野心をもつことは女性的でなく、むしろ女性は成人してからは夫や子供など他人任せの人生を送ることが一般的とされていた。そのため女性は人としての主体性をもつ男性と一線を画した位置にいるのが普通で、同じ土俵にたつことすらあまり認められていなかったのである。そういった意味で主体性をもつ女性第一号としてマリーが評価されたことはとても大きいと思う。もちろんまだそういったマリーのような女性を受けいれる土壌が整っていなかったため、マリーが外国人であること、女性であることを理由にバッシングを受け続けたということから、これらがマリーの生涯における一種の足かせのような存在になったことも忘れてはいけない。この事実がエーヴの伝記中でのマリーを困難に耐えるけなげな女性にさせたのだろう。私はこの伝記に見るマリーから、たしかに素晴らしい科学者であり女性の鏡であるが、一方でどこかとっつきにくい、人間らしくないというふうな印象を受けた。

 一方でジルーやリードの伝記が出された時代では、政治的にも家父長主義に対して疑問が投げかけられフェミニズム運動が盛んになっていたため、女性が主体性を持つことが一般的にも認められつつあった。そしてセクシャリティな差別や、男女間でのジェンダー格差も以前よりは議題に挙げるに足るものとなっていたため、エーヴの時にあまり込み入った事を言えなかったランジュバン事件の報道の偏りに言及したり、科学は誰にとっても平等というわけでなく、政治的な事実(男女のジェンダー格差)に影響されうるということを証明したりすることとなった。そしてフェミニストのクインが伝記を記した時代では、女性が怒りの感情を、悲しみとして表す(隠蔽的な行為)のではなく、そのまま怒りとして表現することが認められたようで、マリーのために怒る友人やそのマリーとの熱い友情にも言及している。この3人の伝記によってマリーは私の中で、「男女」と並べて呼ぶには女性側が弱すぎる時代に、ひたすらひとりで耐え続けた末に栄誉をつかんだ神話的女性から、男性と同じように時として怒りや頑固さを見せる、主体性を持つある種人間臭い偉人へと変貌していった。

 マリーの科学への情熱や、精神的な強さ、バイタリティは(過去の事実であるため)一定であるが、伝記によってかなり異なった姿を見せたマリーのように、時代や捉える人によって見え方が異なることは今もかなり存在するのだろう。これを踏まえ私は、すでに知っている偉人や知人、ある事実に対してもっといろいろな見方が出来るように多様な価値観を獲得していきたい。価値観を得る方法としては、本を読んだり、映画を見たり、分野の違う人と話あったりすることが挙げられる。それができれば私は物事をもっと立体的、現実的な形で捉えることが出来るようになるかもしれないと思った。


受講生の赤尾さんからメールが届きました。(赤尾-1

 映画を見る前に実存主義について私の思うところを述べてみようと思う。

 私は一年浪人して大学に入ったのだがその一年間で受験科目として倫理を勉強していた。なので、実存主義についても少しだけ知識がある。その当時キルケゴール、ヤスパースなどの、人間の有限性を理解したうえで人はどう生きるべきかという思想に関して自分でも思うところがあり、励まされたり、感化されていった部分が多い。そういった面では実存主義を人間の無力さを意識しすぎることはなく、「よく生きる」ことに関して肯定的なとらえ方しかしていなかったは否めない。浪人中は大学に合格することが「よく生きる」ことにつながると考えながらそれを目標にし必死で勉強をしていたが、ひとたび合格してしまえば、そこからはまた具体的な目標を新たに立てねば気力を保てない、あるいはぼんやりとしてしまう状態になってしまった。目標を作りそれをこなしているうちは自分の「生き方」に満足することができるかもしれないが、その目標が作れない、またその目標の性質が自分で納得のいくものでなかった状況がこれからあると考えると自分の存在が何のためにあるのかわからなくなってしまうだろう。これは授業で配布されたプリントにあったシーシュポスの岩そのものであるように思う。そういった人のもつ「存在」のはかなさというものをこの映画をみて感じた。

 劇中の怪物は身体と脳を与えられてフランケンに見捨てられ、文字通り世に投げ出された存在である。この点においてはDNAを親から受け継いで、さまざまな人のいる世界に生まれた私たちとほとんど大差ない。(まわりに受け入れられるかどうかもその周りの環境に依存する)怪物は執拗に博士に対して復讐を仕掛けていたが、復讐が自己の存在のよりどころ、つまりこれが怪物にとっての人生の唯一の「目標」であったのだろう。それは映画の最後でフランケン博士が死んでいるのを見た時に号泣し、自分が死ぬことをわかっていながら自らの手で荼毘に伏そうとしたことからもうかがえる。もしあの場面で怪物が自らの手で博士を殺し、氷河に飲み込まれることもなく生き延びることが出来ていたとしても、怪物はそれ以上命を延ばして行こうとは思わなかったのではないだろうか。目的に対し真摯であればあるほど、それを失った後、退屈がそのの「存在理由」を揺るがしてしまうのだと思った。

 シーシュポスの岩を押し上げ続けることがたとえ同じことの繰り返しだといわれても、私は目標を達成する根気と、飽きることなくあらゆる物事に感動し目的をたて続けられるような精神を持ち続けていたいと思った。