E.アシュビー著(宮田敏近訳)『エリック・アシュビー講演集 科学技術社会と大学』玉川大学出版部、2000年、246頁。


 本書は、名著『科学革命と大学』(島田雄次郎訳、中央公論社および玉川大学出版部)の著者として有名なアシュビーの講演集である。これらの講演は、最も古いもので1959年、最も新しいもので1972年になされたとのことである(本書「序文」による)。原著Adapting Universities to a Technological Societyは1974年に出版されている。

 アシュビーは1904年生まれのイギリスの生物学者であった。とはいえ、彼の知的好奇心と活動範囲は、一生物学者として留まるにはあまりに広かった。イギリスの大学で学んだ後、ドイツやアメリカに留学し、オーストラリアの大学で教えたこともあれば、第二次大戦中は(オーストラリア公使館)科学顧問としてモスクワに滞在した、といった具合である。また、アシュビーは1950年、北アイルランドのベルファスト大学の学長に就任するなど、大学管理者としての経歴を歩み始め、1959年から75年までケンブリッジ大学クレア・カレッジの学寮長を務めるとともに、1967年から69年まではケンブリッジ大学の学長も務めた。アシュビーは、イギリスの大学をその中枢にあって経験するとともに、世界各地の大学の実状に通じるという希有な経歴の持ち主であったわけである。

 元来生物学者であったアシュビーは、大学を生物との比喩で考えており、このことは原著のタイトル(直訳すると、『技術社会への大学の“適応”』)にもみてとることができる。また、本書の随所で開陳されている。例えば、次の通り。

 

 生物の共同体のなかでは、そして大学の共同体のなかでは、新しい品種が現れるとき、そこに革新と交配という出来事がおこります。(17頁)

 大学は生物のように遺伝(伝統)と環境の産物であります。大学の伝統は明白であり、大学が何を標榜するかについて大学人のあいだにはコンセンサスがあります。つまり、卓越性、客観性、理性の陶冶、知識の内在的価値であり……このコンセンサスは、……力強い内部論理をつくりだします。大学環境とはそれをささえる社会的、政治的システムです。それは二つの主要な力によって作動します。二つの力とは入学しようとする志願者の圧力(顧客ニーズ)と卒業生を引き出す雇用者からの吸引力(人的資源に対するニーズ)です。……それゆえ、すべての大学において内部論理、圧力、吸引力という三つの力のあいだに動的な平衡状態が存在します。(173頁)

 

 すなわち、アシュビーによれば、大学は内部論理と圧力と吸引力という三つの力ないしはベクトルのせめぎあいと均衡の中から変革のエネルギーをくみ取ってきたのである。その結果、大学は中世に誕生して現代に至るまで、また、ヨーロッパから発して世界の至る所に、さまざまな変異種を生み出しながら、存続し発展を遂げてきたのである。換言すれば、大学には「知的専門職のための学校という機能に、紳士をつくるための教養学校、研究機関、共同体のための奉仕場所……」といった多様な機能が加増され、現代の大学は「多目的機関」となった(222頁)。

 ところが、大学は、単なる「危機」というよりは、これまで経験したことのないような「文明の転換期」に遭遇している、とアシュビーは考える(224頁)。だとすれば、大学は、科学技術の急速な発展によってもたらされた「文明の転換期」を、これまで成功してきた「適応」戦略によって、これまでと同様に乗り切っていけるだろうか、というのが本書全体を貫くアシュビーの問題意識である。そして、生粋の大学人として、大学の生命力・適応力に全幅の信頼を寄せるアシュビーの論調は、概ね楽観的であるかにみえる。

 しかし、この楽観論に、評者は本書の時代的限界を感じざるを得ない。というのも、本書が出版されて四半世紀以上経過し、大学はさらに大きな「文明の転換期」に遭遇しているからである。東西冷戦の終結とコンピュータ・ネットワークの普及の結果生じた、世界的な規模での市場原理の貫徹、いわゆるグローバリゼーションである。アメリカナイゼーション(アメリカ化)の別名とも言うべきグローバリゼーションの進展によって、社会や経済のシステムの多くが市場原理によって急速に再編されつつある。大学もその例外ではない。ところで、市場原理とは、畢竟、役に立つか役に立たないか、もっと露骨に言えば、儲かるか儲からないかという尺度でものごとを評価し、後者(役に立たないもの、儲からないもの)を、例えば、「構造改革」という錦の御旗を掲げて切り捨てることではないだろうか。

 このような状況の中で、大学が長い歴史の中で大切に守ってきた伝統=内部論理は、環境の激変に圧倒されて今や雲散霧消しつつあるかに思われる。また、多目的機関としての大学が培ってきた懐の深さというか柔軟性も急速に失われつつあるのではないだろうか。そして、このような動きは、大学が歴史的に獲得してきた多様性を失わせ、将来、別の方向の環境変化が生じた時の適応を困難にするのではないか。それは、大学だけでなく、社会全体にとっても取り返しのつかない深刻な事態ではないだろか−−などと、古い大学観から脱却できない(守旧派の)評者は考えるのだが、もし、アシュビーが健在なら、近年の「大学改革」について、どのような評価を下すだろうか、是非とも聞いてみたいものである。

 評者が、本書読後、このような感慨にふけるのも、本書の訳文がよくこなれていて、あたかも講演会場に居合わせているかのように、アシュビーの講演に耳を傾ける(読む)ことができたからである。この点、訳者の労を多としたい。ただ、「高等教育を民間企業に一任する」(120頁)という箇所は、我が国における国立大学法人化問題をめぐる議論との絡みで誤解を招きかねないので、増刷の折りにでも、例えば、「高等教育を私的営為に委ねる」などと訂正していただきたい。


『IDE 現代の高等教育』2002年3月号、66-7頁。