オーストラリアの高等教育改革

--大学の学校化?--


 日本の大学・高等教育は、しばしば「大学設置基準の大綱化」と一括される1991年 の文部省による政策の大転換によって、かつて例をみなかったほどの激動の時期を迎 えるに至った。現在、オーストラリアの大学・高等教育も、我が国のそれに匹敵する、 いやそれ以上の激動と試練にさらされている。

 ホーク首相率いる第三次労働党内閣は、1987年、大胆な行政改革を断行し省庁を統 合した。その結果、教育省は廃止され、雇用教育訓練省(Department of Employment Education and Training, DETT)が発足した。DETTの下に、国家雇用教育訓練局 (National Board of Employment, Education and Training, NBEET)が、さらに NBEETの傘下に高等教育を所轄する高等教育審議会(Higher Education Council, HEC) が設置された。
 DETTの大臣に任命されたJ.S.ドーキンスは、1987年12月に『高等教育緑書』 Higher Education: a policy discussion paper(Green paper)を、翌1988年には『高 等教育白書』Higher education: a policy statement(White paper)を矢継ぎ早に出し た。この二つの文書がオーストラリアの高等教育に革命ともいうべき大変革をもたら したのである。ドーキンスはかねてから、高等教育を国家目的に沿ったものにすべき だと考えており、雇用教育訓練相就任にあたってその考えを実行に移したのだった。 ドーキンスに主導された高等教育革命とはどのようなものだったのだろうか? K.J.ケネディは次のように要約している。

 政策転換の結果、オーストラリアの高等教育に生じた変化は広範なものだった−− 二元制度が解体された;卒業後授業料を支払うという高等教育費負担制度(Higher Education Contrubutory Scheme, HECS)によって利用者支払い制度が導入された; 企業経営的手法が制度の改変、政策立案、企業的発展と質の管理といったプロセス を推進している。今や、学長(Vice Chancellor)たちは学術的で真正な組織の守り 手というよりも大企業の経営者のようにみられている(Kennedy, 1995, p.5)。

こういった変化を順次みていこう。

 

二元制度の解体と教育重視

 オーストラリアには1989年、76の高等教育機関が存在したが、現在では37大学に統 合された−−そのうち2大学のみが私立大学である(Franke, 1991)。すなわち、改 革以前には、オーストラリアの高等教育は職業教育を重視する高等教育カレッジと伝 統的な大学が併存する二元制度(binary system)から成っていたのだが、1989年に この制度が廃止されたのである。
 ほぼ同時期にイギリスでも二元制度が廃止されたが、イギリスの場合はポリテクニ クの「大学昇格」という意味合いが強かった。そのためイギリスでは大学がほぼ倍増 した(グリーン, 1994, 「解説」)。一方、オーストラリアの場合は統合・合併によ る教育研究資源の効率的な配分と運用、すなわち「規模の経済」の追求が目指され、 高等教育機関が半減することになったわけである。
 このようにして新しく統合された大学(comprehensive universities)は、従来以 上に教育を重視するようになった。
 教育重視の方針は、大学は国家経済の発展に役立たねばならないとする政府の強い方針によってもたらされたものである。例えば、大学教育振興会議(Committee for the Advancement of University Teaching, CAUT)が設置されて、大学における教育 改革を目指す数多くのプロジェクトに資金を提供するようになった。また、高等教育基準会議(Committee for Quality Assurance in Higher Education, CQAHE)が設置 されて、大学における教育研究やサービスの質が厳しく審査されるようになったが、 CQAHEが最も重視しているのは教育である。
 大学(人)の使命が「研究と教育」にあることは言をまたないが、19世紀以来最近 まで、大学人の関心がややもすれば研究重視に傾きがちであったこともまた周知の通 りである。しかし、大学教授職をめぐる最近の論議は、従来の狭い意味での研究重視 の考えに疑問を呈している。例えば、アメリカの教育学者で大学論・大学政策に大き な影響力をもつアーネスト・ボイヤーは、大学人の仕事は、発見の学識(scholarship of discovery)、統合の学識(scholarship of integration)、応用の学識(scholarship of application)、教育の学識(scholarship of teaching)の四つの機能があると 論じている(ボイヤー, 1996, p.39)。このうち、発見の学識は狭い意味での「研究」 にほぼ重なるが、ボイヤーはそれだけでは現代の大学人の責務を果たすことはできず、 後の三つの機能、特に教育の学識を強調して次のように述べている。

 教育はまた、教師の理解と学生の学習とに橋渡しをする類推や隠喩や概念を含むダイナ ミックな努力でもある。教授方法は、注意深く計画され、絶えず吟味され、しかも教え るテーマに直接関係あるものでなければならない。教育家のパーカー・パーマーは、 知ることと学ぶこととは協同の行為だと、適切な見解を述べている。この見解によって、 偉大な教師は、知的関わり合いの共通の基盤を創り出すのである。彼らは、積極的な、 受け身的でない学習を刺激し、学生が批判的で創造的な思考者になるように、さらに、 そのようにして培われた能力を駆使して、彼らが大学を卒業した後もずっと学び続ける ように励ます(同書, p.50)。

 オーストラリアの大学における教育重視は、このような大学人自身による論議の積み重 ねの結果というよりも、政府による上からの指導という色彩が強い。とはいえ、オース トラリアにあっても、大学教育が「エリート」段階から「大衆化」段階に拡大し、さら には今回の改革によって「ポスト大衆化」段階を迎えつつある現実を踏まえれば、多く の大学人にとってボイヤーの言う意味での「教育の学識」の研鑽が喫緊の課題といえよ う。

 

効率の重視−−企業原理の導入と企業との連携

 ドーキンスによる大学改革の狙いは「規模の経済」の追求にあった。すなわち、大学・ 高等教育に配分される資源を、合併・統合を通じてより有効に活用し国家経済の発展に 役立てようというわけである。前述したように高等教育機関は半減し、逆に1校あたり の学生数は平均14,000人を越えるようになった。「規模の経済」の追求は、当然にも、 投入された資源の効率を重視し、大学のアカウンタビリティ(責任)を問いかけること になる。

 実際、各大学は毎年、教育に関してCQAHEに次のような項目について活動報告(portfolio) を提出しなければならない(Tennant, 1995, p.3)。

学部および大学院教育の全体計画
カリキュラム
評価
学習結果
革新的な学習・教授法の利用
学生に対するサービス、図書館やコンピュータなどの教育サービス
教員の任用、昇進、研修
卒業・就職

 CQAHEは各大学から提出された報告書をガイドラインに照らして評価し、その結果は 次年度の各大学に対する予算配分に反映されるという。もちろん、同様のことが研究に ついてもなされる。投資に見合う、あるいはそれ以上の仕事(教育研究)をした大学に は多くの資源を配分し、そうでない大学に対しては投資を減らすというやり方である。 大学に企業原理が導入されたといっても過言ではあるまい。
 大学への企業原理の導入は、教育改革への熱意を鼓舞し、大学に活力と新たな資源を もたらした。一方、カリキュラムを含めて大学の教育研究が、経済発展に役立つかどうかという観点からのみ評価されるようになった。そして、大学は一個の企業のようにな り、先の引用文にもあったように、学長は企業経営者のように振る舞わねばならないわ けである。
 大学は企業原理を導入しただけではない。大学教育がより実践的な職業教育を志向す るようになったことによって、これまで以上に企業との連携が求められるようになって きた。
 すなわち、情報化社会の進展によって高度化した企業現場で実践を通じて学ぶことは 学生にとって大きな教育効果をもたらすであろう−−企業現場での実践は「生きた知識」、 あるいは言語化しにくい「暗黙の知識tacit knowledge」を学ぶ絶好の機会となる。一方、 大学は一旦社会に出た人々の再教育の場として、あるいは生涯学習の場として活用されねばならない、というわけである。
 大学と企業との連携を促進し、投資効率を高める観点からすると、コンピュータの発 達と普及、そして情報化社会へ向けての基盤整備が不可欠だということになる。そこで、 オーストラリア教育ネットワーク(Education Network Australia, EdNA)という組織が 設立された。EdNAは、1999年までにすべての学校をリンクすることを目指している。

 

公平の原則と学生数の増加−−「ポスト大衆化」段階の大学

 二元制度の解体にせよ、職業教育の重視と企業との連携強化にせよ、今回の高等教育改革が労働党政権によるものであることを反映している。すなわち、高等教育からできる だけエリート的色彩を少なくしようとする方向で改革がなされているわけである。換言すれば、政府の介入は、高等教育に公平の原則なり平等主義を持ち込もうとしてなされ ているともいえよう。もちろん、このような努力は1987年以前からもなされていたのだ が、改革によって一気に加速されたのである。
 その結果、これまで相対的にみて高等教育の機会の少なかった人々−−女性、アボリ ジニ、障害者、遠隔地在住者、移民、下層階級−−にも大学の門が大きく開かれ、こう いった人々を対象にしたカリキュラムも用意されるようになった。かくて1982年に約34 万人だった学生数は10年後の1992年には約56万人に増加し、しかも1988年の改革以降5年間の伸びは42%にも達するという(杉本, 1995, p.75)。オーストラリアの高等教育 は「ポスト大衆化」段階を迎えつつあるといえよう。
 また、1988年以前には無料だった大学の授業料が、高等教育費負担制度(学生は在学中、授業料を国から借金し、卒業後、一定の収入を得るようになってから返却する。収 入が無かったり、少ない場合は返却しなくてよい)によって有料になったが、これも 「受益者負担」という形での公平原則の適用のように思われる。
 しかし、「公平の原則」に基づく非伝統的な学生の増加は、大学教育に多くの問題を提起している。例えば、英語を母国語としない学生が勉学に困難を感じるといった具合に、せっかく入学したのに、なかなか進級できなかったり、卒業できなかったりすると いう事例が増加しているのである。
 このような事態を改善していくためにも、前述したような、大学における教育の重視、 教育方法の改善といった努力が迫られているわけである。

 

結語

 オーストラリアの高等教育は、歴史的な経緯から当然のこととはいえ、教育研究の理念の上でも、管理運営の面でもイギリスの大学をモデルとしてきた(Morgan, 1996)が、 1980年代末以降、政府の強力なリーダーシップのもと、大きな変容を遂げつつある。 1980年代末以来の広範な政治的・経済変動とそれに伴う価値観の変化の波を大学も避けるわけにはいかないからである。
 そして、以上に略述したオーストラリアの大学の変革を一言にして要約するならば、 「大学の学校化」ということになるのではなかろうか。すなわち、「学問研究の自由」を掲げるエリート的な大学ではなく、公平の原則に基づいて、職業につながる有益な知 識や技術を効率的に教授してくれる大学=学校が追求されているのである。同じ事は1991 年の「設置基準大綱化」以降の我が国の多くの大学についてもいえるかもしれない。 もしそうなら、大学の学校化は「ポスト大衆化段階」の大学に共通した特徴といえるだ ろう。
 われわれ大学人の旧態依然たる大学観は見直しを迫られているのである。

追記:今回、この報告執筆にあたっては、文献資料のみに依ったが、いつか機会を得て、 変貌するオーストラリアの高等教育の現状を直接見聞したいと願っている。

 

参考文献
杉本和弘「1990年代のオーストラリアの高等教育改革」,『IDE 現代の高等教育』, No.370(1995年10月号),pp.72-77.
V.H.H.グリーン(安原・成定訳)『イギリスの大学:その歴史と生態』法政大学出版局, 1994.
E.L.ボイヤー(有本訳)『大学教授職の使命』玉川大学出版局,1996.
A.H.Franke, "Private Universities in Australia", Minerva, XXIX(No.3), 1991, pp. 294-320.
K.J.Kennedy, "Teaching and Learning in the University: New Directions for Australian Higher Education", Higher Education Quarterly, 49(No.3), 1995, pp.191-209.
K.Morgan, "Management and Administration of Universities in Australia and Britain" (Seminar Paper), 1996.
M.Tennant, "Comments on Higher Education in Australia"(Seminar Paper), 1995.


『ポスト大衆化段階の大学組織変容に関する比較研究(高等教育研究叢書46)』広島大学大学教育研究センター,1997年10月, pp.149-153.