T・ローザック『コンピュータの神話学』朝日新聞社出版局、一九八九年、三○九 + XX頁。


訳者あとがき

 本書は、Theodore Roszak, The Cult of Information: The Folklore of Computers and the True Art of Thinking, New York: Pantheon Books, 1986, pp.xii + 238の全訳である。

 本書の著者ローザックは、文明批評家として、なかんずく、対抗文化(カウンター・カルチャー)という概念を引っ提げて、現代科学技術文明を根底的に批判した人物としてつとに知られている。ローザックを一躍著名にした代表作The Making of a Counter Culture: Rflections on the Technocratic Society and Its Youthfull Opposition, 1969はいち早く邦訳紹介されたし(稲見芳勝・風間禎三郎訳『対抗文化の思想−−若者は何を創りだすか』ダイヤモンド社、一九七二年)、対抗文化の思想的・精神的系譜をたどるとともに、その現状と将来を概観・展望した野心的な著作Unfinished Animal: The Aquarian Frontier and the Evolution of Consciousness, 1975も邦訳されている(志村正雄訳『意識の進化と神秘主義−−科学文明を越えて』紀伊國屋書店、一九七八年)。また、ローザックの編集にかかるThe Dissenting Academy, 1967も研究者・大学人に対するラディカルな批判の書として紹介されている(高橋徹解説・城戸朋子他訳『何のための学問』みすず書房、一九七四年)。さらに、雑誌『現代思想』の一九七五年七月号は、「反文明の思想は可能か」を特集し、ローザックのWhere the Wasteland Ends, 1972の一部を訳載している(高橋葉子訳「幻想の共和国」)。

 しかし、現時点でわが国におけるローザックの知名度はそれほど高くないし、その著作が広く読まれているとはいえない。じっさい、訳者(成定)は前記邦訳書『対抗文化の思想』−−すでに絶版になっている−−を入手するのにずいぶんてまどった。訳者が勤務している大学図書館をはじめ、いくつかの図書館をさがしたが見つからず、ようやく知人の勤務先の大学図書館から借り出すことができた。しかも、この本に添付された貸出表は、訳者が最初の読者であることを示していた。アメリカの事情はいざ知らず、すくなくともわが国では、対抗文化という言葉やその主唱者であるローザックの名前が、話題にのぼり論議の対象になることはめったになくなってしまったのである。

 ローザックの名前や対抗文化という言葉が、わが国の思想界・論壇でかつて有してしたほどのインパクトをもたなくなった背後には、科学技術をめぐる論調の劇的ともいえる変化がある。すなわち、一九八○年代になって声高に主張されるようになった「(科学)技術立国論」に象徴されるような科学技術の復権とともに、科学技術に対する正面きった批判は七○年代のような勢いを失い、それとともに、熱しやすく冷めやすいわが国の思想界・論壇は、ローザックも対抗文化も忘れさろうとしているのであろう(科学技術をめぐる論調の変化については、佐和隆光『文化としての技術−−ソフト化社会の政治経済学』岩波書店、一九八七年、第三章「束の間の反技術」および第四章「技術の復権」を参照されたい)。もちろん、七○年代の対抗文化が目指したものの一部分は、反原発運動に代表される八○年代のさまざまな市民運動や消費者運動へと展開していったとみることもできる。とはいえ、流れが変わったことは否めない−−対抗文化論や科学技術文明批判などは、いってみれば一種の麻疹のようなものだったのであり、今、論ずべき課題は「国際化」と「情報化」の進展である、というわけである。ところが、ローザックは、その「情報化」に狙いを定めて矢を放った−−情報崇拝とそれにまつわるコンピュータ神話こそ打ち砕かねばならない、と。

ローザックが、情報崇拝とコンピュータ神話の解体に取り組むにはそれなりの必然性があった。というのも、『対抗文化の思想』以来、ローザックが一貫して戦いを挑んでいるのは、「テクノクラシー」だったからである。

 ここでいうテクノクラシーとは、産業社会がその組織的完結の頂点をきわめる社会形態をさす。それは人々が、近代化、今日化、合理化、計画化を語る時に通常思い描く、理想像である。……

 テクノクラシーのもとでは、万事が純粋にテクニカルになることを、すなわち専門家の配慮の対象になることを、熱望する。その意味で、テクノクラシーは、専門家の、もしくは専門家を雇うことができるものの、管理体制にほかならない。……

 テクノクラシーとは、統治するものが、専門技術者に訴えてみずからを正当化し、専門技術者は専門技術者でまた、科学知識に訴えて自らを正当化する社会だと規定すれば、事足りるであろう。そして科学の権威のかなたには、訴えるべき何物もない。……(前掲邦訳、八−十一頁)

 

 この意味でのテクノクラシーが、膨大な情報操作とそれを可能にするコンピュータに支えられ、さらに一層強化されていることは自明であり、ローザックは遅かれ早かれコンピュータに、というよりはコンピュータ神話に全面戦争をしかけねばならなかったのである。じっさい、ローザックは『対抗文化の思想』の第七章「現代の神話−−客観的意識」でコンピュータ批判の導火線にとっくに着火している。その批判の爆弾が、十数年の歳月を経て−−その間の情報崇拝とコンピュータ神話のひろがりは読者のよく知るところである−−ついに爆発したのが本書に他ならない。このような事情を考えれば、本書の出版はむしろ遅きに失したというべきかもしれない。

 さて、このような背景をもつ本書で、ローザックはどのような手順で情報崇拝とコンピュータ神話に挑戦しているのだろうか。まず、ローザックは「情報」という元来平凡な言葉がテクノクラシーのキーワードになっていった経緯、コンピュータの誕生とその社会的受容に働いたさまざまな利害関心、コンピュータが教育におよぼす(悪)影響へと筆を進める(第一章〜四章)。続いて、コンピュータが処理している情報なりデータとの対比で、そもそも人間の「思考」とは、また「理性」とは何かが逆照射される(第五、六章)。さらに、対抗文化とマイクロコンピュータの束の間の「ラブストーリー」とその破局についての興味深い叙述(第七章)をはさんで、いわゆる情報社会の危うい現実と、それを操るテクノクラシーに対する仮借ない弾劾が展開される(第八、九章)。最後に、あらためて人間の思考のもつ独自性と、トータルな人間形成の手段としての教育のありかたについてのローザックの所見が開陳される(第十章)。

 本書におけるローザックの見解がどれだけの説得力をもつかは、もちろん読者の判断に待たねばならない。ただ、第五章や第六章に展開されているローザックの科学史的あるいは科学哲学的な主張は、最近の科学史や科学哲学の一つの有力な−−支配的とはいえないまでも−−論議を踏まえたものであり、科学史研究の末端に連なる訳者は共感を込めながら邦訳にあたったことを報告しておきたい。また、コンピュータと教育という主題、さらにはロゴの評価に関しては佐伯胖氏の卓見があり(『コンピュータと教育』岩波新書、一九八六年)、同氏とトロン・プロジェクトの提唱者である坂村健氏との対談『コンピュータと子供の未来』岩波ブックレット、一九八八年)とともに、邦訳にあたって啓発されるところが大きかった。

 本書と訳者との出会いは、一九八六年、朝日新聞出版局編集部の山田豊氏によってもたらされた。その時点ではまだ原著も出版されておらず、タイプ原稿の分厚いコピーを前にして邦訳の意向を氏から打診された。著者の名前と分量の大きさに圧倒されたが、たまたま当時、勤務先で組織替えがあり、「数理情報科学コース」の学生を主たる対象にした講義(「科学基礎論」)を新しく開講することになったという事情もあって、コンピュータについて一度ゆっくり考えてみようということで思い切って引き受けることにした。そこで、コンピュータに関しては訳者よりもはるかに多くの経験を有する荒井氏の応援をもとめた。荒井氏は当時大学入試センターにあって、共通一次試験という膨大な情報と格闘していた−−ローザックに言わせれば「データ過剰」のまっただなかにいたということになる。このような事情を考えあわせると、皮肉なことだが、本書の邦訳が誕生にあたっては、わが国の大学・高等教育を席巻しつつある情報崇拝が大きく貢献しているわけである。

 邦訳作業にあたっては、序文、第一、五、六、七、九、十の各章を成定が、また第二、三、四、八の各章を荒井氏が分担したが、最終的に文体を整え、訳語を統一するなどの作業は成定がおこなったので、訳業の責任の多くは成定にある。ローザックは本書をワープロを用いて書いたと述べているが、もちろん、邦訳作業もワープロを用いておこない、徹底した推敲を重ねた。また、訳稿の推敲段階にあった一九八八年春、NHK教育テレビが、前記の坂村健氏をメーンキャスターとして「コンピュータの時代」と題するすぐれた特別番組(全八回)を放映してくれた。訳者は、この番組のビデオと本書の訳稿のコピーとを一九八八年前期「科学基礎論」の教材として受講生にあわせて提示し、情報社会とは何か、コンピュータとは何かについて討議する機会をもった。ここでの討議も訳稿の推敲に大いに役立った。特に受講生の一人安田雅俊君は、訳者の求めに応えて、講義とは別に全訳稿を精読し、いくつもの貴重な意見を寄せてくれた。ここに記して謝意を表する次第である。

 最後まで残ったいくつかのペンディング箇所については、山田氏が編集者としての力量を存分に発揮して調査し解決してくれた。そのひとつが、本書第六章末尾にあるESP(超能力)を用いた通信プロジェクトをめぐるトピックである。前著『意識の進化と神秘主義』などで、ESPにも強い関心を寄せているローザックがいかにも喜びそうなプロジェクトだが、どう考えても眉唾ものである。山田氏の湯原氏に対するヒアリングと文献調査の結果、一九八五年頃、郵政省を中心に「未来通信メディアに関する研究会」が発足しており、通産省や科学技術庁もこの種の問題に関心をもったことがあったということが判明した。これらが誤ってというか誇張されてアメリカに伝わったというのが真相らしい−−事情に通じた読者からの御教示を期待したい。

  訳者(成定)の大学院時代の恩師である伊東俊太郎先生が、トフラーやネイスビッツ流の情報社会の過大評価に対して、先生独自の文明史観から疑義を呈しておられるのを聞きおよび、本書におけるローザックの所論を御紹介したところ、大いに関心を寄せていただいた。そこで厚かましくも推薦の辞をお願いしたところ快く引き受けてくださった−−「瓢箪から駒」とはよくいったものである。

 わが国における情報崇拝を如実に示すエピソードを紹介して、このあとがきをしめくくりたい。最近、訳者の勤務先のすぐ近くに、公立図書館や公文書館などを含む立派な建物が完成した。訳者もさっそく利用させていただいているのだが、この施設は「情報プラザ」と命名されているのである−−本訳書刊行の暁には、何はさておいても、真先に情報プラザにある県立図書館に献本に行かねばなるまいと考えている。(一九八八年十二月)(荒井克弘氏と共訳)