受講生の萩原さんからメールが届きました。(萩原-5

 人の感情を持ったロボット。正確には人以上に正しい感情・倫理判断を持つ。科学の子と呼び、これからの科学の発展は素晴らしい未来を約束しているかのように描いている。原子力に対する期待は大きかったようだ。原爆が落ちた日本においても「使い方を間違わなければ」科学、原子力をうまく扱えるという楽観的思考が存在している。

 新旧のアニメを見ていると先生もおっしゃったようにいくつかの違いは見られる。手放しに科学をほめていた旧アニメに比べて、過ぎた力に対する警戒を示す新アニメ。女性の進出・親子関係(仕事で子供にかまってやれない親)、などの世相の反映。

 これらよりも新旧一貫して強く印象に残ったのが、天馬博士のアトムを生み出す狂気である。この狂気は今まで見てきた映画の科学者の狂気と同じものだろう。新アニメはそこまで見れなかったが、旧アニメの作り出しておいて、捨てる博士の態度はフランケンシュタイン博士に通じるものがある。新旧どちらにも描かれている、目的のために多少の禁忌は犯してしまう科学者の姿はきっとこの先も変わらないのかもしれない。この教訓的な姿を我々は自分を正しい方向に導くようにするべきだ。


受講生の萩原さんからメールが届きました。(萩原-4

 人の生と死の関係、人の生き方とはどういうものかを改めて考えさせられる話だった。なぜ死が恐ろしいのか。自分の考えている未来が失われるということを考えるととても恐ろしく、悲しいことだ。資料にあったように、より強い未来を持つものにとっては特に。反乱をしたレプリカント達は自分達の寿命の存在を知ったからこそより死が恐ろしくなったのだろう。そこには惰性や暗い行くもの下で生きているような人間に

はない生命の強さが見えた。彼らは本当の人間となんら変わりない存在ではないか?限られた命を意識し、未来のために懸命に生きる姿は作中の人間には見られない姿だ。ぼろぼろの地球を捨て、いやな仕事は自分達がつくった「人間」に任せている。自分から生をあきらめ、いやなことは弱いものに押し付ける現代と変わりがない。科学の発展がこのようなものを生み出すのならば、その前に人の心を発展させる方法を研究する次代なのではないだろうか。


受講生の萩原さんからメールが届きました。(萩原-3

「アルジャーノンに花束を」を観終えて、改めて高性能なものを使いこなす難しさを知った。知能を改善するという夢のような手術が何のリスクもなしにできるはずがない。そしてそのことから起こる難点も見られた。

 知能、肉体のどちらを扱うにしろ、使い手の心・考えは重要である。自制や慈愛の心を強く持っているのなら危険な扱いはしないだろうし、他人を侮るということもしないだろう。話の中で、チャーリーという弱い(と、思っている)者に対して、同僚は彼を馬鹿にしおもちゃのように扱いった。大学の教授は実験対象としてマウスと同列のように見ていたのではないかと思われる。学会に参加していた学者たちにも同じことが言えたのかもしれない。資料にあるように、他人に対する思いやりという能力が欠けている存在として描かれている。人に対してあからさまに馬鹿にしたり、悪口を言うのは恥ずべき行為であると認識するべきだ。

 人間の心の弱さも実感できた。急に賢くなっていくチャーリーに対する周囲の反応は自分にもあてはまると思えた。急激に変化するものに対して自分がどう接するべきなのかわからなくなってしまう。これは自分のアイデンティティに関するものでもあるだろう。弱いことが悪いのかどうかの判断は自分にはつけることができない。

 最後に、資料にあった手紙は進むにつれてたどたどしくなっていく。これを読みながらチャーリー・�Sードンが死んでいくのを感じた。確かにチャ−リーは死んでいないし、彼は心優しい人のままだろう。知能が低くなったからといって死んでるのと同じだと言うつもりも全くない。しかし、賢かったチャーリー・ゴードンは自分ではっきりわかるほどその思考が衰えていくのをどのように思っていただろうか?読んで自分はとても切なくなった。


受講生の萩原さんからメールが届きました。(萩原-2

 今回講義で知ったマリー・キュリー像は子供のときに本で読んだ伝記と比べると大きく違っていた。極貧生活や研究に対しての情熱は同じであったが、その根底にあるマリーの性格に驚いた。

 映画での彼女は自己中心的で、男勝り、計算高く、エネルギッシュな女性だった。また、キュリー氏と研究を進める上では、シュッツ氏と取引のようなものを行っていた。自分たちは研究が出来て知識探求欲が満たされればそれでよく、そこから生まれる功績はいらないという。科学を純粋なものとみなしていたのはキュリー氏の方で、彼女は他の事はどうでもよい様だった。とても聖女という言葉が似合う女性ではないと思う。それぐらいでないとこれほどの発見にはたどり着けないのであろうと納得してしまった。しかしそれでも、女性が社会で活躍するには困難な時代においてこのような女性の名が知られるようになったのはサの時代の政治、世相など様々な理由からだろう。その後、彼女の像は時代によって、筆者の性別によっても変わっている。女性が抑圧されていた時代から、男女の評価をより平等に行える時代になり真実のマリー像に近づいたのかもしれない。これは、見方によれば研究者達の知的欲求、表現欲求の結果と言えるのではないか。

 科学がなぜ発展するのかというと、そこに利用する人間の欲求が存在するからだ。勿論、人のためになるという側面は存在しているが、その根底はあくまでもその人の望みがあると思う。科学的発見を応用した技術の恩恵を受けたい人、技術力の発展によって力を示したい国・集団、単なる知的欲求を満たしたい人。マリーもその一人だし、このようなものがあって今の科学があるのは事実である。私はこれらのものが決して悪いとは思わない。知識はあくまでも知識でしかない。知識は積み上げて次の知識を得たり、技術を生み出すための道具だと思う。その知識を与えられた我々が考えないといけないのは、そこから生み出したものの使い道である。キュリー夫妻は放射能を発見をしたが、その後の原子力爆弾のことまでは責任は持つ義理はないだろうし、出来ることなら平和利用のみして欲しかっただろう。知識を持つことだけでは賢いとはいえないということは当たり前だが、その知識を過不足なく世の中の貢献に使うというのは非常に難しい。それが出来ないのであれば本当の意味での人類の発展はないのではないかと思う。もう一段階発展するためにもこれから努力していきたい。


受講生の萩原さんからメールが届きました。(萩原-1

 フランケンシュタインの「怪物」は暴走した化け物である。これが今までの私の見解だった。しかし、初めてフランケンシュタインの話を見て思ったことは、「怪物」は化け物ではなかったのではないか?ということである。確かに彼は人とは比べ物にならない怪力と異様な容姿を持って生まれてしまったかもしれない。しかし、それ以外の彼は人を助けた、友を欲した、自分の存在意義に悩んだ�A不条理な生をうけた、人を恨み復讐しようとした、理解者を欲した。これだけを見れば人間と変わりのない生き物である。もし、フランケンシュタインが彼を生んだ責任としてきちんと世話をしたのならこれほどの惨劇は起きなかったのではないかと思う。しかし、そのためには「怪物」が自分の生まれた理由が他の人を生き返らせようとした結果の失敗作であるということを受け入れなければならない。どちらにせよ、存在してしまったことの不幸には変わらない。彼が何も考えない、考える必要のない化け物であればどれほど彼にとって幸運だっただろうかと同情してしまった。

 これに似た話で、昔読んだ小説を思い出した。ある天才ピアニストの少年がいた。その少年の母親は、かつての自分のように怪我や事故で二度とピアノが弾けなくなるようなことを恐れて彼のクローンを弟として生んだ。息子が怪我や病気になったときにはそのクローン体の弟をテストボディーにするつもりだという。この話は弟の奇跡的な心の強さできれいな話としてまとめられていたが、実際に起こりうる話だと思うと気持ちが悪くなってしまった。

 どちらの話にも不条理なものに抗しようという意志があり、そこに関わる私欲が存在していると思った。そして、我々の科学力は確実に惨劇を起こすことのできるレベルに達しつつある。我々は不条理なものに抗するために不条理を生み出してしまうという愚を犯してはならない。「大衆のため」、「自分ならばそのような愚は犯さない」などと言い訳を考えているうちは手を出してはいけない領域がある。科学を信奉するのであれば、科学らしく原因と結果を予測し対応のできる行動をとるべきであると思う。