☆受講生の箱田さんからメールが届きました。(箱田-5)
アニメ鉄腕アトムを見ての感想。
私にはアトムもフランケンシュタインの怪物もなんら変わりない様に感じられた。フランケンシュタインも天馬博士も身近な人間の死に絶えられず、再生させようとした。しかしどちらも本人の思ったようにはいかない。単にアトムのほうがまだましだっただけだ。アトムは優しい心を保つことができた。
アトムが親同然の天馬博士に見放されたとき、非行にはしらなくてよかったと思う。あんなにパワフルな不良など手に負えない。他のロボットと手を組み反社会的・反人間的活動を展開していたらと考えると恐ろしい。これは冗談で言っているのではなく、十分にありえることだと思う。アトムは自ら考えて行動することのできるロボットだ。考え学習できるということは(たとえ人間に危害を加えてはいけないとプログラミングされていたとしても)環境に影響を受けて考え方を変えること(プログラムの自己改正)は十分にありうる。
生きるとは自ら考え学習し行動することだ。この定義に当てはまる生命を造ろうとする限り、造り出した命はわれわれ人間と対等でなければならない。人間より優れた能力を持たせたり、押さえ込んで支配しようとしていいものでは決してない。
☆受講生の箱田さんからメールが届きました。(箱田-4)
映画ブレード・ランナーを見ての感想
人間によって造られた人造人間、レプリカント。危険で過酷な誰もやりたがらない仕事をさせるために造られた人間。優れた能力を備えさせ、そのうえ扱いやすいように四年で死ぬようにしてある。
3つの疑問を持った。
なぜレプリカントの外見をあそこまで人間に似せたのか。レプリカントに仕事をさせるだけなら人間に似せる必要は全くないし、むしろ一目で人間でないと分かるほうが好ましいのではないか。自らと“似たもの”を酷使するのは違うと分かっていても心理的精神的につらいと思う。労働を強いるだけなら(人を相手にする仕事をのぞいて)ロボットで十分であると思う。
なぜ人間が手に負えないほどの力をレプリカントに与えたのか。従わせ、働かせるのなら制御可能な範囲内にしておかなければリスクが大きすぎる。
なぜレプリカントに自我を持たせたのか。人造人間とロボットは似て非なるものだ。自我を持ってしまうリスクを負ってまでもレプリカントに記憶を与えた理由がわからない。
タイレルは人間を造りたかったのだと思う。優れた人間そのものを造ろうとした。半端にうまくいったものだから、量産し仕事を与えた。その結果なのだろうか。やはり命を造るなど人間のやるべきことではない。
☆受講生の箱田さんからメールが届きました。(箱田-3)
『アルジャーノンに花束を』を見て『明日の記憶』荻原
浩 (著) を思い出した。『アルジャーノンに花束を』では、チャーリィは「より多くのことを知る幸せ」を選び手術を望んだ。しかし、知性を手に入れたことで、今までわからなかったことまでも理解しなければならなくなった。仲良くしてもらっていると思っていた同僚にからかわれていることを理解し、知的障害者に対する社会の冷たい態度を目の当たりにする(原作Daniel Keyes著 では愛する母に本当は捨てられたことも知ってしまう)。今まで気づかなかったことに気づきチャーリィは「知ってしまうことの苦しみ」から「何も知らずに生きる幸せ」を理解する。チャ−リィの苦しみはこれにとどまらず、アルジャーノンの死によって「忘れること・失うことへの怖れ」を感じ「知識・知性」というものに虚無感を覚える。
チャーリィの本当の苦しみは「忘れること・失うこと」であったと思う。『明日の記憶』でも主人公は若年性アルツハイマーにより記憶が失われ自分が自分でなくなっていくことを怖れる。原作の序文にも忘れることをチャーリィと重ねた読者がいた。最終的にはチャーリィはその知性を失ってしまうが、はたしてチャーリィは常に同一の人物だっただろうか?手術を受ける前のチャーリィ・知性を手に入れたチャーリィ・知性を失ったチャーリィ、彼らがみな同じ人物であったとは私には思えない。人間とは人格であると思う。
映画では「知ってしまうことの苦しみ」「何も知らずに生きる幸せ」を強調していたように感じた、私はやはり原作にあるような人格が失われていく苦しみこそ真の苦しみであると思う。手術により新たな人格が生み出され消えていった。科学がもたらす光の裏には、必ず影があるのだと思う。
☆受講生の箱田さんからメールが届きました。(箱田-2)
『キュリー夫妻 その愛と情熱』はやや史実とは異なる部分が多い様で、私の持っていたキュリー婦人像と映画のキャラクターとのギャップが気になりました。金儲けのために研究をするべモン、名誉のために研究をけしかけるシュッツ校長、そして純粋な探究心のために研究を行うキュリー夫妻。その対比を際立たせ
るための演出。さらに天才の持つ独特の奇矯さもユーモラスに描かれていること。映画としてはとても面白かったです。しかし、やはりなんともいえない違和
感が残りました。
キュリー夫妻の発見は後に放射線治療の技術と破壊兵器の技術という対極の方向に進んでいく。科学技術は諸刃の刃だとよく言われるが、発見者がどんなに純真でも、後世の科学者によってその発見は堂にでも利用されうるのだと強く思う。科学者の倫理は後世に名を残すような偉大な研究者のみならず、みな一様に必要とされる資質なのだと思う。
☆受講生の箱田さんからメールが届きました。(箱田-1)
フランケンシュタインは過ちを犯した。それは死者蘇生の研究そのものではなくそれを投げ出したことだ。至極中途半端なまま自らの作り出した生命を放り出したのだ。モンスターの不条理を生み出したのは博士の無責任さであると思った。
人格形成をつかさどるものは遺伝子とその人を取り巻く環境であると思う。人により作り出され、人々からモンスター・怪物として恐れられた名もなき存在。彼の人格はいかにして形成されたか。そもそも彼の遺伝子とは何であったのだろうか?身体はすべて他人のつなぎ合わせ能力としては優れていたかも知らないが、その中身は空っぽであったのではないか。彼を取り巻く環境など彼には悪い影響意外(以外)の何をも与えなかったように思う。
彼に生まれてきた意味はあったのだろうか、私には彼の中にそれを見出すことができなかった。むしろかれは生まれた意味・生きる目的を得るために行動したのではないかと思う。彼は‘友達’を欲していた。彼の行動はすべて生きる意味がほしかったからこそのものであろう。
対してフランケンシュタインはさらなる過ちを犯す、再びの死者蘇生である。しかも今度は研究や後世への発見という崇高な理念もなく、完全なる私利私欲のためにである。師曰く「過ちて改めざる
是を過ちと謂う」。フランケンシュタインの破滅は彼自身の過ちゆえのものだ。
フランケンシュタインの過ちによって生きる意味を失うことになる。手に入りかけた‘友達’も失い、さらには唯一彼を理解してくれる可能性を持った人物である彼の父、フランケンシュタインまで死んでしまったからである。
北極を目指していた船長は彼のこれまでの苦しみや境遇を博士より聞き知った上で彼に‘一緒に来い’と叫んだ。この言葉は彼にとって一番望んでいたものであったはずだった。しかし、わずかのところで遅すぎた。そのとき彼には生きる希望が亡くなっていた。
彼は果たしてモンスターであったのだろうか。見た目こそ醜かったものの、私には彼こそ真に人間であったと思う。彼はただ不運にも幸せを与えられなかっただけではなかったか。