東京大学の大学院(当時は理学系研究科)に科学史を学ぶ専攻があると知って、受験したのは1972年の秋のことだった。幸い合格通知をもらって翌1973年春に東京で勉学生活を始めた。伊東先生が指導教官を引き受けて下さった。
奨学金とアルバイト(主に家庭教師)で生活費と書籍代を工面しなければならなかったので、決して楽な暮らしではなかった。特に最初の1年は、慣れない土地での生活からくる心労と、科学史に関して基本的な知識さえなかった筆者には高度に思えた授業内容や討論に何とかついていくための努力というか苦労で相当参った。もし、指導教官の伊東先生が、ご自身で経験されたアメリカの大学院における厳しい教育・研究指導の方式を東大でそのまま実践されたのだったら、筆者は早い段階で落ちこぼれていたかもしれない。
何しろ、筆者は伊東先生のご専門のギリシア科学史、中世科学史、アラビア科学史、またその道具としての古典語やアラビア語などは全く勉強しなかったのである。破門とは言わないまでも指導を放棄されても当然だったのである。
今にして思えば、筆者のような不勉強な学生について、伊東先生は、さぞ不安に感じておられたのだろうが、実際には、研究テーマについても、研究方法についても、筆者の自由に任せて下さった。学生・院生各自の問題意識を最大限尊重して下さってのことだったのだろう。
1974年、東京と京都で開催された国際科学史学会での発表をベースにして、翌1975年春、修士論文「社会変革期における科学と科学者」を書き上げてようやく一息つくことができた。引き続いて博士課程に進学することを許されたが、この頃から、「科学社会学」という言葉が気になりだし、研究関心を科学史から科学社会学へと転換し始めた。この時も、伊東先生は筆者に苦言を呈されるどころか、ご自身が科学社会学的な議論に関心をもっておられたこともあって、大いに奨励していただいた。伊東先生が大学院の授業で取り上げて英語で読んでいたベン−デービッドのThe Scientist's Role: A Comparative Study, 1971の翻訳『科学の社会学』(至誠堂、1974)が出版され、その書評を『科学史研究』(No.115、1975年秋号)に書かせてもらったのはこの頃である。
大学院の入学試験で面接の際、伊東先生はじめ先生方から、「科学史を勉強しても就職は難しいし、学位の取得も困難ですよ」と厳しく言われていたこともあり、東京でのアルバイト生活に行き詰まりを感じていたこともあって、博士課程在学中、広島大学の大学教育研究センター助手の公募に応募した。確か2度目の応募で採用されることになり、1976年の夏、東京を離れることになった。
広島へ出発する前、伊東先生から西荻窪のご自宅にお招きいただいた。先生は、書棚からエドガー・ツィルゼルの『科学と社会』(みすず書房)を取り出して、「君にはこの本がいいだろう」とおっしゃって記念のサインをしてプレゼントして下さった。当時すでに絶版になっていた本でもあり、ありがたくいただき、今も大切にしている。その後、「就職祝いに食事をごちそうしよう」とおっしゃって、ご自宅近くのレストランへ連れて行って下さった。広島でしっかりがんばるように、と励ましていただいたのだろうが、申し訳ないことにお話の内容は憶えていない。しかし、普段は、研究三昧でいかにも天才肌の伊東先生が、一院生の就職に際して示された細やかで暖かい心遣いは、若輩だった筆者には、ことのほかありがたく、懐かしい思い出である。
伊東先生のご自宅を訪問したことがもう一度ある。1984年の秋、結婚間もない妻を同伴してご挨拶に伺ったのである。新婚旅行の報告などをしているうちに、話題が伊東先生の外国暮らしに発展し、アルバムを見せていただいた。ご家族との外国生活は、当然のことながら、先生にとって素晴らしい思い出となっておられるようで、先生は次第にお写真に没頭されるようになった。われわれ夫婦もお写真を通じて先生と一緒にプリンストンの豪華な家での生活を満喫させていただいた。爾来、われわれ夫婦の間では、ちょっと見始めたアルバムに没頭してしまう状況を「伊東先生になる」と表現している。
広島大学に赴任して、20余年。この間、大学教育研究センターから総合科学部に移って、科学史・科学社会学・科学論の教育研究にあたってきた。研究費などについて比較的恵まれた条件にありながら、これといった業績を残せなかった不明を恥じるばかりだが、定年まであと10年、先生のご期待に少しでも応えるべく研鑽を重ねたい。