書評:シェルドン・クリムスキー著、宮田由紀夫訳『産学連携と科学の堕落』海鳴社、2006年、266頁。
「一石二鳥」という言い方がある。近年、我が国の大学でも大いに推奨されている産学連携も一石二鳥を目指しているといえよう。大学における真理の探究の成果が、特許や知的財産権として富をもたらしてくれるからである。著者クリムスキーによれば、「(産学連携の)考え方では、大学と企業家的教員は発見を特許にして企業にライセンスしたり、教員の作った企業の株を取得することによって富を勝ち取るのである。民間企業は金銭的に魅力のある研究契約やライセンス契約を大学と結び、それが新薬や新技術といった価値ある製品につながることによって利益を得る。産学の協力がなければうまれなかったであろう新しい製品や治療法のおかげで社会も最終的には恩恵を得る」(3頁)。産学連携は、大学(および企業家的教員)と企業に利益をもたらすだけでなく、最終的には社会に恩恵を与えてくれるのだから、一石二鳥どころか一石三鳥といえるかもしれない。
アメリカでは、1980年のバイ=ドール法の制定によって産学連携が促進された。この法律によれば、政府資金(税金)を受けた大学や企業が研究を行い、その成果として発明・発見がなされた場合、その発明・発見に伴う特許や知的財産権は、当該の大学や企業のものとなる、とされたからである。バイ=ドール法の制定後、企業は当然のこととして、大学(および企業家的教員)も特許や知的財産権につながるような研究に精を出すようになった。この結果、1980年代後半以降、大学による特許取得数は飛躍的に増加した。1990年代以降、今日にいたるアメリカ経済の活況は、産学連携の成果だと見る向きもある。
一方、「二兎追う者は一兎をも得ず」ということわざがある。本書でクリムスキーが口を極めて弾劾している利益相反(Conflict of Interest)は、「二兎追う者」が陥りがちな過ちとみることができる。すなわち、利益相反とは、客観的であるべき真理の探求や公正であるべき臨床検査が、別の利益(経済的な利害関係など)によって曇らされてしまう、あるいは歪められてしまう可能性・危険性を指している。真理と富の二兎を追うことの困難さ、と言い換えてもよいだろう。クリムスキーは第1章で次のような利益相反の事例を挙げている。
事例1 ハーバードの眼科医が彼の会社の無認可の薬で利益を得る
事例2 科学者が製薬会社と研究契約を結んだために研究をコントロールできなくなった
事例3 政府の科学者が薬の試験を監督し製薬会社のコンサルティングをしている
事例4 利益相反に満ちたプロセスで認可された危険なワクチン
これらの事例は、アカデミック・キャピタリズム(大学資本主義)の進展(184〜187頁)が指摘されるアメリカでは、いかにもありそうな事例ではあるが、公共の福祉を重視する限り、あってはならないし、起こってはならない事例である。
このような利益相反状況はアメリカだけの問題ではない。最近、我が国でも、タミフルという薬剤をめぐって利益相反が問題になった(ただし、報道レベルで、「利益相反」という言い方がなされたわけではない)。この薬剤は経口型抗インフルエンザウイルス剤として我が国で大量に服用されているが、未成年者への副作用として異常行動を引き起こすとの事例が多数報告された。厚生労働省はタミフルの副作用を検討する研究班を立ち上げたが、研究班の委員(複数)がタミフル製造元の製薬会社から多額の研究費を受領していた事実が報道された。研究費を受領していた委員は研究班を外れることになったが、委員は研究費の受領については厚生労働省に報告していたという。すなわち、我が国でも、薬剤の効果や副作用を分析検討する医学者たちが、本来、公正中立であるべきにもかかわらず、研究費などを通じて薬剤の製造元と経済的な利害関係をもっていること、また、そのことが(報道されない限りは)特に問題とされない状況が存在していることが、この事件を通じて判明したわけである。
アメリカでも我が国でも、「一石二鳥」を狙う、あるいは「(真理と富の)二兎を追う」大学(および企業家的教員)が急増している状況をどう評価するか。アメリカでも我が国でも、大学が生き残る可能性は産学連携の強化推進しかない、との意見が多いようである。しかし、本書の著者クリムスキーは、利益相反状況の蔓延を心から憂えている。なぜなら、「大学と連邦政府によって支援される非営利研究機関が営利企業の領域になってしまったら、それらは独立した公平無私の教育の中心になるという役割を失うことになる。さらにそれらは社会問題・環境問題をかかえて困窮するコミュニティならびにすべてのレベルの政府に対する大学の科学者の多様な貢献、という公共の利益をはぐくむのに適した環境ではもはやなくなってしまう」(4頁)からである。
著者にとっての大学は、「一石二鳥」を狙ったり「真理と富の二兎を追う」場ではなく、「社会改良のために努力を惜しまない人々が権力に対して真実を語る舞台」である(4頁)。社会改良のために努力を惜しまない人々として著者が挙げるのは、生態学的危機を早くから指摘し、理論的・実践的に環境問題の解決にあたったバリー・コモナーであり、児童の健康への鉛の影響を調査し、鉛汚染源の除去のために尽力したハーバート・ニードルマンであり、ニューヨーク市のコミュニティのぜんそく問題に取り組んだルズ・クラウディオである(187〜202頁)。
このような著者の大学観・科学(者)観を「理想主義的」だと揶揄する向きもあるかもしれない。そのように言う人々に対しては、「大学が理想主義的でなくなったら、果たして大学と呼べるのか」と(著者とともに)問い返すしかない。
訳者はアメリカの産業政策や産学連携についての著作もあり、ボック著『商業化する大学』も訳出している。それらの実績に基づいてなされた本訳書は読みやすく、邦訳題『産学連携と科学の堕落』も原著者の真意をよく汲んでいる。
広島大学高等教育研究開発センター『大学論集』第39集(2007年度),pp.364-365.