サイエンス・スタディーズ演習

『ジーキル博士とハイド氏』を読んで

熊代佳世


 『ジーキル博士とハイド氏』はあまりにも有名な小説であるが、私は今まで読んだことがなく、今回このような形で読む機会に恵まれ、良かったと思っている。

 作品の大半は、弁護士のアタスン氏が探偵のように謎に挑む推理小説の形で進んでいく。アタスン氏が友人のリチャード・エンフィールド氏にハイド氏の異形を聞くところから物語は始まる。しかし肝心のハイド氏の異形については、「理由は分からないのにどこか不快で、醜悪なところがある。あれほど嫌悪を感じさせられる人間に出会ったことがない。しかし説明するのが難しい。なにがなんだか見当がつかない。」という説明にとどまっており、私たち読者は自分の想像力に頼るほかはなく、一層好奇心を駆り立てられる。しかし、倒れた少女の身体を平然と踏みつけ、悲鳴を上げている彼女をその場におきざりにするというハイド氏の行為は、”身の毛もよだつ光景””とても人間の所業とは思えない”、と表現されており、その残忍さはうかがい知ることができる。しかし不可解なことに、アタスン氏もよく知る非常に有名で、新聞にもしばしば名前がのる人物がその男と関係していて、ハイド氏への謎はさらに深まっていく。

 アタスン氏が「ジーキル博士の遺言状」を読み返すとき、その人物が”ジーキル博士”だということを私たちは知る。彼は医学博士、民法博士、法学博士、王立協会員で、遺言状には財産の一切が「友人で恩人のエドワード・ハイド」の所有に帰すべき旨が記されている。さらに、ジーキル博士が「三ヵ月以上にわたって失踪ないし理由不明の不在」という事態が生じた場合、前記エドワード・ハイドは直ちに前記ヘンリー・ジーキルの財産を相続する、と付け加えられており、事件を想像させる。

 アタスン氏とラニョン博士は古い友達同士であり、ジーキル博士とも知り合いである。しかしラニョンは博士は、「ヘンリー・ジーキルがわたしの手には負えなくなってから、もう十年以上になるよ。何しろ突飛すぎるんでね。彼は頭がおかしくなりかけているんだ。あんな非科学的なたわごとを振り回されたんじゃね」と、アタスン氏に語り、私たちはジーキル博士の研究内容に興味を持つようになる。

 ラニョン博士の物言いから、アタスン氏はますます実物のハイド氏を見たいという強い好奇心にかられ、「彼がハイド氏(隠れるの意味)だというのなら、わたしはシーク氏(探すの意味)になろう」と捜査を始める。そしてアタスン氏がハイド氏と対面したとき、やはり不快感を抱き、嫌悪と恐怖を体験する。だが、なぜなのかはどうしても説明がつかない。

 一年近くたった18-年10月、ハイド氏が狂人のごとく一人の著名人をステッキで殺害するという事件が起こった。アタスン氏は被害者と面識があったため、容疑者であるハイド氏の部屋を警部と訪れる。しかし彼の行方は知れず、人相書きも効果が期待できないありさまであった。ジーキル博士はというと、ひどくやつれた様子で彼とはきっぱり縁を切り、すべて終わったのだとアタスン氏に告げる。またジーキル博士は、「彼(ハイド氏)はわたしの助けなど必要としていない。今後は彼のうわさを聞くこともないだろうよ。」「誰にも話すわけにはいかないが、確信をもつだけの根拠が存在するんだよ」、と宣言する。この台詞は結末を知った上で読めば、納得のいくことだが、知らない時点ではジーキル博士がハイド氏をかばっているかのように思われる。さらにジーキル博士は「なにしろ自分で自分が信じられなくなったものだから」「命拾いのことなどより、わたしははるかに大切なものを学んだよ」「ひとつの教訓を得たんだ。しかし、アタスン、なんという教訓だったことか」と語り、この台詞が彼の研究に対するものだというこもあとあと分かる。

 ジーキル博士はハイド氏との縁を切り、事件とは関係ないように思われるが、アタスン氏の主任書記のゲスト氏はジーキル博士の筆跡とハイド氏の筆跡に奇妙な類似があり、多くの点で同じ筆跡だと断定する。アタスン氏はジーキル博士が殺人犯のために手紙を偽造したと解釈するのだが、ここはジーキル博士とハイド氏が同一人物であるという事実の伏線となっている。

 ハイド氏が消えた後ジーキル博士は、日常生活を一変させ二ヶ月以上にわたって平穏な日々が続く。しかし一月八日の晩餐会で会った後の十二日と十四日、十五日とアタスン氏はジーキル博士に面会することができなくなる。さらにおかしなことにラニョン博士が突然床に伏し、肉体は急速に衰え、博士の目つきや態度には一種のおびえの表情が見られる。ラニョン博士は「もはやジーキル博士には会いたくもないし、うわさを聞きたくもない」と態度を一変させる。ジーキル博士にことの次第を問いただすも、「わたしには、わたしの暗黒の道を歩ませてくれ。我が身に罰と危険を招いてしまったのは、もちろん自業自得なんだが、その内容はいえない。わたしが最も罪深い人間だとしても同時にわたしは最も悩める人間でもあるんだ。」とかたくなに明かそうとはしない。

 ラニョン博士の死後アタスン氏宛に封筒が残されており、その中で”ヘンリー・ジーキル”と”失踪”が遺言書同様に結び付けられており、アタスン氏は不審を抱く。そして物語は最高潮を迎える。ジーキル博士の執事プールがアタスン氏を訪問し、博士の書斎で犯罪が行われたのではないか、と助けを求める。書斎の中には人がいるが、返事は博士の声ではない。そして二人が強行突入すると、そこにはすでに命を絶ったハイド氏が横たわっていた。

 この小説における科学の取り扱いは事実に基づいたものではないが、ラニョン博士の手記の中でジーキル博士の薬品について書かれている。要約すると、散薬の中には単なる白い塩の結晶のようなものが入っており、薬ビンには血のように赤い液体が半分ほど入っていた。それには燐と揮発性のエーテルの一種が含まれ、嗅覚を強く刺戟したがほかの成分はラニョン博士にも見当がつかなかった。赤色のチンキ剤を数滴はかり、一包みの散薬を加えた混合液は、最初は赤味がかっているが、結晶が解けるにしたがって明るい澄んだ色になり、さらに音を立てて沸騰し、小さな蒸気の煙を発散し始める。その沸騰が突然やみ、それと同時に混合液は濃い紫色に変わる。それが徐々に色あせて、ついに薄い緑色に変化して完了する、というものである。鮮やかな色彩の変化が印象的であるが、どこか絵本の中で魔女がつくってそうな感じがする。

 ジーキル博士は、自分の理論を理解できないラニョン博士は「はなはだ偏狭な唯物論的見解に束縛され、超絶的医学の力を否定」し、「無知で俗悪で偏狭な衒学者で、彼ほどわたしをがっかりさせた人間はほかにいない」と失望をあらわにしている。また自分の実験が生命の危険をともなうことを十分承知していたにもかかわらず、特異で深遠な発見を目のまえに警戒心を解いてしまう。これらは講義で紹介された科学者に通じる特徴だと思われる。

 この小説は1886年に発表されているが、21世紀に生きる私が読んでも面白いと感じる。それはこの作品が科学を用いながらも、多くの人が持つ変身願望を一人の科学者に代行させ、その願望が時代を超えて普遍的だからではないだろうか。ジーキル博士は資産家の相続人として生まれ、優れた才能に恵まれており、名誉ある輝かしい将来を十分に保証されていたといえる。どんなに優れた人物でも欠点はあるものだが、彼の場合それが快楽にたいする旺盛な欲望で、彼は自分の享楽生活を隠し完全な二重生活を送るようになる。彼は善と悪の狭間で苦悶し、人間は単一の存在ではなく、実は二元的存在だという真理に到達する。彼は肉体が、精神を構成している幾つかの力から発せられた精気と光彩に過ぎないことを認識し、それらの力を現在の至高の地位から退位させ、かわりに別の肉体と容貌とを出現させるような薬品を調合することに成功したのである。

 この小説では、性善説と性悪説という永遠のテーマが一人の科学者によって一見克服されるのであるが、次第に本来の人格が乗っ取られ、最後には自ら命を絶つ結果に終わる。人間は善と悪のバランスを保ちながら生きていくしかない、ということになるのだろうか。人間であるが故の悩みを人一倍抱えていたジーキル博士が、苦悩する場面は非常に印象深く、変身をやめようとする決心が揺らぐ様など、人間の弱さをまざまざと見る思いがした。

 もし将来、この小説のようなことが可能になったら、私はジーキル博士のように挑戦してみるだろうか。今思うに私はジーキル博士ほど変身願望に飢えていないので、きっと自分では実験しないだろう。だが状況によれば…。

 最後に舞台がロンドンという設定であったせいか、シャーロックホームズのイメージを持ったまま読んだ。面白いと感じたのは推理小説のスタイルだったためということも関係しているかもしれない。

 

スティーヴンスン作 海保真夫訳『ジーキル博士とハイド氏』岩波書店、 2003