受講生の溝渕さんからメールが届きました。(溝渕-5

鉄腕アトムを見て

 私は一度もこのアニメを見たことがなかった。まず単純にびっくりしたのが、アトムを作ったのは、おちゃのみず博士ではなかったことだ。ちょっとショックだった。

 さて本題。このアニメも科学者の勝手な行動による発明品の話である。ある種フランケンシュタインと似ているところがあると感じた。愛する人を亡くし、その悲しみからロボットを作ってしまう。だが自分が作ったのにもかかわらず、思い通りに育たなかったからといって保持を放棄してしまう。ロボットからしたらいい迷惑であろう。一話目ながら科学者の責任感のなさを痛烈に感じることができた。だが、映像だからこう考えることができるのかもしれない。実在するロボットは、うまく人間の内面に溶け込むような目的で作られている。アトムがもし実在したら私もイライラすることが多くなるかもと思ってしまった。こういった問題は、これから時代を経ていくとだんだん増えていくだろう。いかにロボットのことを考え、人の未来を考え発明していくかが問われると思う。


受講生の溝渕さんからメールが届きました。(溝渕-4

ブレードランナーを見て

 舞台は2019年のロサンゼルス。ほかの惑星で住む人々。そしてこき使われるレプリカント。それに反抗して地球にやってきたレプリカントをブレードランナーが殺すという大きな流れである。酸性雨ばかりというのも今思うと皮肉な話である。この作品で一番深く考えさせられたのは、やはり「生」と「死」についてである。最後「思い出もやがて消える。時がくれば涙のように雨のように。」というロイがデッカードを助けたシーン。今まで殺すことしか考えてなかったロイが、死を目前にして死の恐怖を悟ったかのように天敵の死を助けた。今まで感じたことのなかったものがロイを襲ったのだろう。長く生きたい。4年間生きてきてそう思えたのだろう。そのときレプリカントも人間も大差はないと感じた。

 デッカードがレプリカントを愛したように。命ある間は、誰しも生きたいと思うものである。未来を奪われたくない。それが人間の心理だといわんばかりに。だが、文章中の「死はわれわれに害を与えない。」「生はなぜいいことなのか。」この言葉に関しては衝撃を受けた。死んだら生きることなど考えなくても良いし、生きているから害を受けるのである。この方面で考えたことはなかった。生きているのが当たり前。じゃあ死んだらどうなる。いろいろ考えたが、未来があるから生きるということしか出てこない。生と死の本質は、生きている間は結局見えないものなのであろう。


受講生の溝渕さんからメールが届きました。(溝渕-3

 アルジャーノンに花束をの感想

 私は今回初めてこの映画を見た。主人公チャーリー・ゴードンは大人ながら、知能の発達の遅れで幼児並の知能しか持たない。マウスへの知能発達手術に成功した学校の教授が同じ手術をチャーリーにも行う。その結果チャーリーは正常以上の知能を持つことができた。それと同時に過去の封印したい記憶も蘇ってしまう。私は、知能が低いことによる苦しみよりも、思い出したことによる苦しみのほうが大きいのではないかと思う。また、その後のマウス全体に見られた異常をチャーリーに話さず、手術成功を報告しようとした場面の教授の勝手さは、人間の傲慢さが鮮明に表わされていると感じた。またそれに、チャーリーが「あなたはマウス以下だ」といった場面は胸を打たれた。

 序文において一番納得させられたのは、「自分こそチャーリーである」というところである。年をとって知能が低下していくときの苦悩は、そのときのチャーリーと同じような心境になるのではないかと考えた。いつか、死んでしまったアルジャーノンのようになってしまうと感じていたはずのチャーリーが、今ある知能を使って、手術後の経過の研究を行うところは、自分が年をとったときに知能低下で苦しくなったとき同じように前向きに生きれるかとなったときの教科書になるであろう。


受講生の溝渕さんからメールが届きました。(溝渕-2

マリー・キュリーを見ての感想

 マリー・キュリーという人物についてはほとんど知らなかった。名前を聞いたことがあるというくらいだった。今回の映画は、マリーの次女エーヴによる伝記が元になったものであり、見ていてマリーの研究にかける思いとか情熱を強く感じることができた。エーヴの伝記は、マリー・キュリーを「聡明・良き妻・慈しみ深い母でもあった崇高な女性」と読者に思わせるようなものとして受容されたらしく、私は、この評価通りに彼女を見ていた。みんなに使ってもらって役に立ちたいという気持ちから特許を取得することを拒んだこと、ひとつの事象を証明するために多大な努力を惜しまないこと、素人の意見を聞いてその結果ラジウムを発見できたこと、金に目がなかった研究者の心を研究に対する熱心な心で変えたこと、すべていいように映った。

 だが川島さんの論文を読むと、エーヴの伝記の後出てきたリード、ジルー、クインの伝記によって、年を追うごとにどんどんマリーの像は、変わっていったとある。不倫スキャンダルやラジウムの危険性を知った上で研究を続けていたこと、外国人であるがゆえのノーベル賞受賞であったという思想や事実が出てきたからである。このことに関しては、男女の視点で評価が少し違っている。女性の著者は、自身のスキャンダルの経験から、男女格差を主としたことで論じているといったような違いである。エーヴが否定的な事実をあえて述べなかったので、映画ではまったく悪い印象を持たなかったのだと感じた。だが、いろいろな面があってもノーベル賞を受賞したのは、紛れもない事実である。ウランは、核兵器に使われたり、キュリー夫妻が当時思っていた使われ方とは違うかもしれないが、マリーの功績は後世にも伝えていかなければならないし、知っておかなければならないことである。


受講生の溝渕さんからメールが届きました。(溝渕-1

 フランケンシュタインを見て

 まず感じたことは、科学者は、ただ単に新しい発見をし、それを証明するために新しいものを作ればよいというものではないということです。作るならそれなりの責任を負わなければならない。発見しても常にリスクがある。そういうものだと強く感じることができた。日常で使っている便利なものも、こういった様々な思考と葛藤により生まれているものなのかなと少し考えることができた。

 本編において、フランケンシュタインを恨んで周りの人間を殺していた怪物が、最後フランケンシュタインが死んだとき、父親といって悲しんでいたシーンにぐっとくるものがあった。ハラハラしたり、感動したりと忙しい話であったが、怪物の気持ちを考えたり、フランケンシュタインの気持ちを考えたりしながら見ると結構おもしろかった。次も期待してます。