☆受講生の森内さんからメールが届きました。(森内-6)
「キュリー夫妻 その愛と情熱」の映画を視聴したわけであるが、私がこの映画を観て最初のマリー氏の印象は非常に人間性に富んでいるということである。マリー氏は女性初のノーベル賞を受賞し、世界初の2度のノーベル賞受賞も成し遂げたため世界中で偉人とされている。しかし彼女は決して非凡なことはなく純粋に好きな科学に没頭しながら、純粋な恋愛で結婚もしている。今回の映画では取り扱われていなかったが、彼女は夫の死後不倫の報道までされている。それが事実であれないにあれ、まるで女優でもあったかのような扱われ方である。このようなマリー氏の人生は今の私たちにどのような影響を及ぼしたのだろうか。私は残念ながら良い方向に影響を及ぼしているとは思えない。彼女が研究で生み出したものはラジウムというもので、現在では私たちに危害を与える軍事兵器に応用されている。フランケンシュタイン博士の研究と同様に彼女のこのような純粋な研究は結果として危険をもたらすのである。この世の中で必要とされている化学は大衆が必要とする科学であるため、自己満足の研究よりは名誉や財産を目的にした他者を満足させる研究の方が私たちの社会に良い影響を与える結果となるのかもしれない。
ここからは川島慶子氏の論文でもある配布プリントの「変貌する聖女:マリー・キュリーと20世紀の女性科学者伝」について自らの考えを述べる。まず第1章ではマリー氏の次女であるエーヴ氏によって書かれたマリー氏の自伝について記されてある。エーヴ氏はマリー氏についてラジウムの発見者としてのマリー氏だけではなく「聡明な娘、良き妻、慈しみ深い母でもあった崇高な女性」と記し、「決して怒りを見せない聖女」として扱われている。また、エーヴ氏は母が有名となった時期の記述について短くし、幼少期のマリー氏について多くの割合で記している。このことからエーヴ氏は私たち庶民に科学者としてのマリーではなく、尊敬する母としての姿を知ってほしかったことが伺える。マスコミは偉人を報道する際にどのような功績をあげたのかを大きく報道する。そこでエーヴ氏は本当に伝えるべきは残したものではなく、功績を残すまでの過程だということを伝えたかったのではないだろうか。
第2章ではエーヴ氏とは異なる視点から見た、リード氏、ジルー氏、クイン氏がそれぞれ出版したマリー・キュリーの伝記について書かれている。彼らの伝記にはランジュヴァン事件について大きく取り上げており、エーヴ氏によって描かれた聖女はこの事件の報道によって一気に変貌したのである。この事件の報道からマリーは悲劇を迎えることとなる。また、リード氏とジルー氏に限っては追い打ちをかけるようにマリー氏の研究結果に対しても批判的なことを述べている。彼らはこのようなことをすることによって、市民に何が伝えたかったのだろうか。何を期待してマリー氏を批判したのか理解することができない。一方クイン氏はこのランジュヴァル事件を肯定的にとらえている。また、女性の怒りさえも肯定的にとらえている。このクイン氏の伝えたことは非常に素晴らしいことであると感じた。このことはマリー氏を救うだけでなくフランスでの女性への考え方さえも大きく変えたのである。今の日本での政治では与党と野党とで醜い批判が絶えず行われていることは明らかであるが、そこでクイン氏のように物事を肯定できるものが社会に現れればこの社会はもっとよりよいものとなっていくのではないだろうか。もっとたくさんの視点から物事を見て判断できるものが社会で必要となってくる、と私は考える。
☆受講生の森内さんからメールが届きました。(森内-5)
私は課題のうち1の鉄腕アトムについての方で自らの考えを述べる。今回授業では白黒版の鉄腕アトムとカラー版の鉄腕アトムの第1話をそれぞれ見たわけであるが、単に色がついただけでなく変化しているところがいくつかあった。まずはアトムの誕生についてであるが、白黒版では亡くなったトビオを父である天馬博士がアトムというサイボーグにして生き返らせている。カラー版ではトビオが亡くなる直前に「最強ロボットを作ってほしい」と言って、それを実現させるために天馬博士がアトムというロボットを作った。これは人間を改造してサイボーグにさせるという考えでは限界があったからかもしれない。アトムを作るときカラーでは周囲からの反対があり、天馬博士はその反対を無理やり押しきってアトムを作っている。これは戦争の兵器に科学が使用されていることもあり、手塚治の楽観的であった科学観が修正されていることが伺える。また、白黒版でもカラー版でもそれぞれ異なる悪役が登場し、それはその時代に沿った社会問題を連想させるものでもあった。ストーリーだけではなくアニメーションも変化が加わっていた。白黒の方ではアトムがベートーベンの「運命」の演奏によって誕生するなど、ユニークなアニメーションがあらゆるところで見られた。しかし、カラー版ではそれらのアニメーションは省かれていた。これは手塚治にもっと子供に現実的に科学と向かい合ってほしいという考えがあったからかもしれない。
鉄腕アトムは人工知能で主題歌にもあるように心正しい倫理と心優しい感情を兼ね備えていたわけであるが、もし人工知能の作成が可能になったとしても私はアトムのような完璧な存在は増えてはならないと思っている。アトムのような存在が増えることによってアトムの存在から遠い者が次第に疎外されていくことが予想されるからである。この世は道徳のある人間もあればない人間も存在している。それらの双方によって社会は形成されているのに、道徳のない人間を完全に疎外してはとても生きにくい世の中になるのではないかと考える。なぜならアニメは敵役がいるから面白いように、変化のない人生などつまらないからである。これから先、もしかすると恐竜が絶滅して人間が生き残ったように、人間が絶滅してロボットが生き残って社会が形成されるかもしれない。このような世界に道徳のある者だけが存在することになれば、限りなくつまらない社会が形成されることが予想される。
配布された「未来に追いついて」という新聞の記事で西垣通氏は鉄腕アトムを批判的にみている。彼からすると、夢を見て神学論争をしていることが空しいのである。私はこの神学論争の何が無駄なのかを詳しくお聞きしたい。鉄腕アトムは日本の人々を明るくし、夢を持たせてくれた。それを西垣教授は大きく批判の言葉を述べているが、夢を見させることはどうしていけないのか。手塚治は科学と医学の限界を人一倍早く気付いていたため、当然鉄腕アトムの存在の可能性についても気づいていただろう。それでもこのアニメを描いたのは、このアニメを通じて私たちに多くの思いを伝えたかったのかもしれないが、彼の一番の目的は私たちに元気を与えることだったのではないのだろうか。私たちは夢を持って生きているが、それが現実不可能であるのならそのことは馬鹿げているのだろうか。現実不可能だから美しいとあるが、現実不可能でも美し�ュないものもあるし、現実可能なものでも美しいものは美しい。関係ないのではないだろうか。非現実のものは現実になってみないと判断できない。心を持つロボットの存在を実際に見てもないのに否定してしまうことの方が私は空しいと考える。
☆受講生の森内さんからメールが届きました。(森内-4)
アルジャーノンに花束を
この映画を授業で見るとき、ちょうど私は障害者の自立支援についての勉強を進めていた。そのせいもあってか、私の中でこの映画から生まれた課題は「障害を持った人の者の考え方」や「障害を持った人への私たちの接し方や考え方」など障害者を軸においた課題だった。しかしこの映画でのもっとも大きな課題は「知識というのは何のために存在するか」という知識を軸においた。そうは言っても知識の目的というのは人によって様々である。知識というのはこれからの将来をよりよいものにするためのものである。ほとんどの人が自分の将来のことを中心に考えているため、多くの大人は財産や権力や名誉を得るために勉強をしている。現代は知識がある者がお金を得て権力を握っていく社会であるから、こういった人が多くてもおかしくない。また、配られたプリントでチャーリイも「知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりに多い」とコメントしている。社会をよいものに変えるために選挙で選ばれた政治家が汚職問題などを起こすと、そのことを痛切に感じる。しかし、この世の中にはそのような人ばかりでなく純粋に人の役に立つために一生懸命勉強して知識をつけている人も少なからずいる。つまり世の中には自分のために知識をつける人と、人のために知識をつける人と大きく分けられる。
いま述べたことがこの映画に登場する、ストラウス博士夫妻の知識に反映されている。ストラウス博士の奥さんの方はチャーリイの知識が一気に成長したものの感情面の方は成長していないということをとても心配していた。反対にストラウス博士はその妻の考えを通すと自分の研究結果に傷がつくかもしれないという理由で、妻の意見を一切無視して研究を続けた。このことから研究結果よりもチャーリィのような患者のことを想って研究をしているストラウス夫人は人のために知識をつけていて、チャーリイの病状のことはあまり考慮せず、自分の名誉のために研究を続けているストラウス博士は自分のために研究を続けていることが分かる。この世で必要とされる人はストラウス夫人の方であるのに、実際にこの社会で権力を握っている人々はストラウス博士のような人である。権力を得ることを目的にした知識をつけている人の方がそうでない人より権力を握るのは当然のことであるが、私は人のために知識をつけている人に権力を持ってもらいたい。その方が社会情勢は良い方向に行くのではないかと考える。
また、序文の方のプリントには「もっと住みよい世界を築くためには、知識の探求に加えて共感する心を教えるべきである」と述べているが、住みよい世界を作るために共感する心が必要であるのはまさにその通りであると思う。しかし共感することを教えるというのは小学校の道徳で学習する。つまり「百聞は一見に如かず」ということわざもあるように、人間というのは人から教えられるだけでなく、様々な人の立場を経験しなければ共感するというのは難しい。だから私は修学旅行のような普段体験できないことを行うものをもっと増やして、よりたくさんのことを経験させることができれば少しは共感する心というのが身に着くと考える。
後半の方のプリントからは、チャーリイは知的障害を持っているにもかかわらず、とても周�閧ノ気を遣う人、かつ純粋な心の持主であることが伺える。私は障害者支援のためにボランティアをしているが、知的障害や自閉症など脳に障害のある人は勉強することが非常に困難である。この映画の主人公でもあるチャーリイも知的障害を持っているため、手術する前は勉強することがかなり困難であった。何不自由なく生活している私たちはそういった人たちの「知識」というものについてほぼ無関心である。そのため勉強することが困難な人々は自然とこの資本社会の輪から追放されてしまう。日本国内だけの問題ではなく貧困によって知識を得ることのできない人々も経済の場に入ることは困難である。なぜチャーリイのような、優しい心の持ち主がこのような目に逢わなければならないのか。私はそういった知識によって地位が決められるこの世界を受け入れることができない。どんな人も同じ人間なのだから平等でなくてはならない。だから知識が豊かな人はそれだけ恵まれている分、知識の少ない人に対して手助けをするなど、人間が障害や人種などの壁を越えてお互いに助け合いながら共生していく社会形成をしていくべきである。
☆受講生の森内さんからメールが届きました。(森内-3)
授業で配られたプリントの「哲学の冒険」を参考に「人間の生と死」について書いていく。まずこの映画ではレプリカントであるロイの死の直前のセリフによって、人間の死後には今まで培ってきた大きな思い出も一瞬で消えてなくなってしまうという苦境を見事に表しているというように、ディックはレプリカントというアンドロイドを通して私たち人間に伝えたいものを込めているようである。また、プリントの序論として「死で失うものを発見できれば、生きる意味を見いだせるかもしれない。」と書いてある。したがって私もこのテーマを軸に「生きる意味」を考えていく。
「死は生の限界であり、限界というのはその中に存在しないものであるから、生の中に死は存在しない」と319ページに書いてあるが、このことは「限界」という言葉を非常にうまくあらわしている。たしかに「限界」は存在するものの定まってはいないため、限界を越えた者にも限界がどこにあったのかなど判断できないようになっている。しかしこれが320ページに書いてある「人の死というのはその人に害を与えないのであるから、死ぬことは悪いことではない。」ということにはならない。まず、生きていることが楽しいと感じている人にとっての死はその人に害を与えることはないが、少なくとも楽しさというものを失っている。つまりプラスのものがゼロになったのであるから、この人の死は間違いなく悪いことである。また、私は大きな不幸な経験をした人ほど幸せを大きく喜び、不幸な経験をあまり感じたことがない人ほど幸せをあまりうれしく思わないという相関があると考えている。逆に大きな幸せを経験した人ほど不幸に対して大きく落ち込み、幸せな経験をしたことがない人ほど不幸に対してあまり落ち込まないというのも同様である。ここで私はひとつの人生論として、幸せや不幸を大きく感じるほうが生きているという実感を強く感じるので、人間らしく真の幸せな人生だと考えている。つまり幸や不幸をより多く感じる人こそが真の幸福者であり、幸や不幸を感じないほど真の不幸者であるため、最終的に全く感じることのできない死こそが最も不幸なものであると考えている。
322ページから335ページにかけては可能性と未来の違いを述べ、我々が死で失うのは可能性ではなく未来であると述べている。その未来をさらに概念的なものとそうでないものの2つに分けて考えている。そこから結論にかけて概念的な未来の方が非概念的な未来よりも強い未来を持っているため善悪にかかわらず概念的な未来のほうが生きる意味が大きいということが書かれている。しかし、人の持っている目的はさまざまであるし、その問題が生きる意味にマイナスに働いているという可能性もあるかもしれない。つまり私が言いたいのは、生の意味も死の意味もそれぞれ個人が決めるものであり、決して他人が決めたり比較したりできないということである。このプリントの著者は「死は無である」という思想とともに書いているが、死後の世界は宗教によって様々であるので宗教によって生きる意味、死の意味など様々であるのは当然のことである。また、このプリントの著者はどれだけ大きな目的を持っているかということを生きる価値の大きさに直結させたように、なにか基準をひとつに決めれば生きる価値の大小は決めることができる。しかし、「ナポレオンのように大きな権力を握ったものほど生きる価値は大きい」、「ビル・ゲイツのように金を稼いだ人ほど生きる価値が大きい」、「マザー・テレサのように社会貢献した人ほど生きる価値は大きい」など、基準というは無限に存在するため、生きる意味の大きさなど量れるはずがない。個人の考え方によって生きる意味は異なるため、それもまた当然のことである。
このプリントの結論では「死という終わりは生の価値のためにある」と書かれているが、これはまさにそうであると思う。人間の前には死の壁というものが立ちはだかっていてそれを超えることはだれにもできないため、人間は死ぬ意味から生きる意味をだれでも求めようとするのである。ゆえにそこから人間には生きる意味というのが生じる。人間の感じる「飽き」と関連しているのかどうかはわからないが、人間は同じ人が長く生き延びるよりも新しい生命がどんどん循環したほうが社会にとっても都合がよい。人間は寿命があるからこそ時間を大事にし、効率よく生きようとするのである。サイエンススタディで見た5つの映画の中でこの映画が最も深く考えさせられた。これからも人間の生と死については続けて考えていきたい。
☆受講生の森内さんからメールが届きました。(森内-2)
私がブレードランナーを見た感想として、最初に思ったことはだれも笑顔を見せないということである。戦争の真っただ中ということもあるのかもしれないが、人間の科学の最先端には人を幸せにするのではなく人を不幸にする力があるという印象すら与えられた。傘の棒が光ったり、パトカーが飛んだり、スキャナーが声に反応するなど、どんな大きな科学の発明がされようとも、結局それは当然のように扱われて誰もありがたみを感じなくなるのである。この映画でキーワードをひとつ作るとするならば「寿命」が適当であるかもしれないが、私は「科学による人々の暮らしの変化」というのもこの映画で考えるべき点であると思う。また、この映画の言語は英語を主体としているのに、中国語を話す人やお坊さんが登場していた。チマチョゴリを着ている人もいればサリーを着ている人もいて、さらには日本の着物を着た人が気球船の広告で登場しているなど、同じ地域にたくさんの国の文化が混ざっていて異なる国の人が共同暮らしているのがうかがえた。これはレプリに対抗するために人類が協力し合った結果なのかもしれない。理由がどのようであっても、「この世界の文明の変化として、いずれ人類は国境という壁を乗り越えて共同社会を形成していくが、そこに平和はない。」と、この映画の原作の著者であるディックが予測していると私は感じた。
以上の2点が私の感想であるがここからは配布されたプリントについて感想を述べたい。まず、後藤将之さんの評論が一部引用されたプリントに書かれている「アンドロイドの感情移入度測定検査から、究極的には感情移入能力によって敗北者になる」と�「うことと、「ディックは人間とアンドロイドを区別していないが、両者の中に人間性とアンドロイド性を備えている」の2点に着目した。まず感情移入についてだが、この仮説は根拠が浅く説明不足であると私は考える。まず蜘蛛の例の話であるが、いくつもの矛盾がある。感情移入によって餓死するというのなら、人間はどうして生きているのであろうか。仮に蜘蛛の世界で感情移入した蜘蛛は生き抜くことが難しいとしても、それは単に感情のない世界に感情移入したものが存在するのは極めて困難だと言っているだけであり、人間の世界というのは例外を除いてすべてが感情を持っている世界である。現在の人間社会においての政治と経済を例とすると、感情のない冷酷な人よりは感情を表に出して相手の気持ちを思いやる者が周りの信頼を得て権力を握っているケースが多い。そして学校を例にすると、感情のない者は友達もできず仲間にも入れてもらえない。つまり私の意見は、感情移入の世界では感情のない者は排除され、感情のない世界では感情のある者が排除され、結局その環境に適さないものは自然に排除されるというのが「感情移入」について妥当な考えであるということである。
次に人間性とアンドロイド性について述べるが、この考え方には大いに共感している。人間性、アンドロイド性とはそれぞれどのようなものであるか意見を伺いたかったが、プリントにはその双方が存在しているとしか書かれていない。人によってどのように考えるかは異なるかもしれないが、私の考えでは「人間性」というのは人間の持つ「意識」というものであり、「アンドロイド性」というのは「無意識」ではないのかと考える。「意識」という行為は人間しか備えていなく、「無意識」というのはコンピュータでプログラミングされたように何の考えなしに動くことであり、ほぼすべての動物がもっているためである。しかし私はその「意識」のみが人間の本来持つべきものであるとは考えていない。例をあげると「意識」をすることで運動パフォーマンスが損なわれるため、一流のスポーツ選手のほとんどは「無意識」に競技をしていることがあげられる。だからと言って「無意識」だけが人間の本来持つものでもない。その反対の例では小説家があげられ、小説に登場する人間というのはほとんどが人間の「意識」が描かれて話が進んでいくからである。つまり、私は「意識」と「無意識」の相互関係によって人間は形成されており、その双方に優劣はないと考えている。
今度は、桐村光太郎さんのプリントについて考えを述べる。「寿命」について書こうとしているが配られたプリントには書き出ししか書かれていないため、私は「レプリは人間によって作られたにも関わらず、人間に愛されず疎外されている。」ということに対しての意見を述べたい。私は本当に人間より能力的にレプリが優れているならば人間はレプリを見下しはしないと思うが、レプリは人間が生み出したロボットにすぎず人間よりも価値がないものと思われているのかもしれない。それは非常に残念な話であるが、人間がレプリの寿命を設定していることを私は悪いことであるとは思っていない。3年という寿命はあまりにも短いかもしれないが、それならば何年に設定されればいいのかという話になる。レプリは科学技術で作られたものであるから、必ず科学技術は発達し新しいレプリというものが誕生するので、古いレプリとはいずれ廃棄という形となる。それはどうすることもできない現実なのである。人間にも寿命というものがあり、それをどうすることもできない。むしろレプリは寿命が明確に決められているため、決められた人生を人間よりも効率よく生きることができるのだ。悲劇のレプリに対してそのような考えをするのは大変恐縮であるが、私はレプリの寿命についてそのように考える。
☆受講生の森内さんからメールが届きました。(森内-1)
今回はサイエンス・フィクション映画の「フランケン・シュタイン」を視聴しました。今回はあえて客観的に見ずに、主人公であるフランケン・シュタイン博士の立場に立って主観的に映画を見ていました。するとフランケン・シュタインの周りにいる登場人物は、人間性が強く個性に出てきていると感じました。主人公の妻であるエリザベスは常に登場人物を人生の軸にしていて、やぶ医者を目指していた主人公の大学での友人は「より安全により多額のお金を得る」ということを軸に行動していた人だったように見えました。主人公の息子も子供らしく思ったことをそのまま発言していて、無実の罪を着せられたジャスティを首吊りにした市民も人間性の強さを感じました。法律や大学、科学など現在と比べるとかなり違いがありますが、人間らしさは今と全然同じように見えました。
科学面においては人間を電気で生き返らせるという現実で再現できそうでしたが、電気うなぎを使っているところが非現実的でした。でも今回の映画では医学と科学を組み合わせて医療していましたが、現代でもそれを発展させればすごい医療に進化すると思いました。次の映画も楽しみにしてます。