受講生の森脇さんからメールが届きました。(森脇-5

 プリントでも言及されていたが、この鉄腕アトムと生みの親の博士の関係は非常にフランケンシュタインを彷彿とさせるものだった。博士は愛する人をよみがえらせたい一心で狂ったように研究にのめりこみ、命を作り出すが、自分の作った命を途中で自分勝手な理由で放り出してしまう。ただアトムのほうは博士に対して恨みを持ってはいないようだった。サーカスの団長にひどい目に合わされたときも反論をしたものの、恨んだり、襲ったりするようなまねはしなかった。アトムの力を持ってすれば、力ずくで何とかすることもできたかも知れない。しかし心優しい少年アトムはそうはしない。その心さえもつくられたものなのだからなんとも皮肉だと思った。もし心優しいというのが博士による設定だとしたら、本当に都合の良いものをつくったと思う。それで途中で投げ出すのだから人間の欲とは深いものだというのを思い知らされる作品だった。

 また二回目のアニメ化ではアトムの危険性が示唆されているが、よくよく考えればアトムは放射能などによる被爆の脅威を持っているのではないか。使いようによっては兵器にもなる。心優しい少年だからこそ皆のヒーロー的な存在になるのではないか。アトムは光と影を持ち合わせた子だと思う。その影の部分や理不尽さがただのヒーローアニメとは違うと思った。作品をたった一話みただけだが、ずいぶん考えさせられた。今はあの明るいオープニングもなんだか皮肉っぽく聞こえてしまう。


受講生の森脇さんからメールが届きました。(森脇-4

 この物語は「フランケンシュタイン」や「アルジャーノンに花束を」とは違って、科学者の意図が見えなかった。前述作品では科学者が欲や強い執着を持っていたが、この作品でレプリカントをつくった者達はろくに登場もせず、ただ淡々と仕事をさせるため、人間の利害一致のためという名目でレプリカントがつくられている。ご丁寧に寿命までつけられてレプリカントが反乱を起こすのも無理はないと思う。怒る彼らの表情はいかにも人間らしく、レプリカントの排除を命じるデッカードの上司はとても無機質に描かれていた。ここでいう、レプリカントと人間の違いとはなんだったのか。ロイは命を大切にしたがり、最後の最後で主人公を助けた。その死に顔は安らかで、彼の心を反映しているのか、それまで酸の雨の降る空はどよんでいたが、最後に少し空が晴れ、鳩が飛んでゆく。「お前たち人間には信じられない光景を見てきた。」と最後の言葉は皮肉混じりながらも憎しみの言葉ではない。ただの殺人者としてではなく、人間らしい一面をみせてロイは死んだため、人間とロボットの違いはさらに分からなくなった。

 また、文章中でデッカードがレプリカントである可能性が示唆されている。デッカードは迫りくる死に対し、心から恐怖し、また人(レイチェル)を愛す様子も見られる。私は完全に人間として捉えてこの映画を見てしまった。もし、デッカードがロボットなら、人間の定義はすごくあいまいなものになる。もし科学が発達しても人の知能を持ったロボットはつくらないで欲しい。きっとロボットも、人間も自分の存在に疑問を持ち不信感に悩まされてしまうと思う。

 この作品中で疑問に思ったが、なぜレイチェルには寿命制限がないのか。またなぜそれが分かったのか。危険要素がないからなのかは分からないが、ロイとの激闘のあと、あまりにあっけなくハッピーエンドを迎えた気がする。

 またもし、デッカードがレプリカントだった場合には彼にも寿命制限がついているのではないだろうか。そう思うと、最後の新天地への旅立ちにも幸福感とともに影が見られるような気がした。


受講生の森脇さんからメールが届きました。(森脇-3

 映画では手術は社会に適応するために知的障害を治すという名目で行われていたが、医学的にはとても画期的なものとなると思う。しかし倫理的に見るとどうであろうか。チャーリーは自らが手術を受けて知能を高めることを望んだ。しかし知能の遅れを障害ではなく、個性と捉えたら必ずしも手術が望ましいとはいえないだろう。

 天才を作るという言葉が映画のなかででできたが、天才とは何なのか。何が理解できれば天才であるのかは私には分からなかった。

 序文に「ぼくの教養は、ぼくとぼくの愛する人たち-ぼくの両親-のあいだに楔を打ちこむ」とあるが、確かに、チャーリーはパン屋の同僚との間に楔が打ち込まれたのかもしれない。知能が低いままであったら友だちのままだったかもしれない。キニアン先生のように知能が高くなることで関係が良くなる人もいる。しかし気づかないままのほうが良かったと思ってしまう人間関係が有ると思うとせつない。

 本文には「またりこーになりたい」とある。知能が高かろうが低かろうが、結局人間はないものねだりなのかもしれない。知能が高い状態でも人間関係に苦しみ、満足はできなかったのに、そのことを忘れてまた知能を求める。知能だけに留まらないが、例えば外見、権力、富など人間の欲求は尽きないと思った。


受講生の森脇さんからメールが届きました。(森脇-2

 キュリー夫人以外にも歴史的に著名な女性はたくさんいるのになぜマリーキュリーに限っては「夫人」とつくのか今まで知らなかったが、この映画をみてそれがキュリー夫人伝の筆者であるエーヴの意図であることが分かった。エーヴはマリーをただの科学者としてではなく、いろんな圧力と戦った女性として、またひとりの母としてのマリーを描いている。これは娘であるエーヴだからこそ描けたものではないか。エーヴは娘としての視点からマリーキュリーを描いていることが伺える。

 同じキュリー夫人を描いた伝記であっても、書く者の立場やマリーキュリーの捕らえ方が違えば、内容は全く違うものとなる。書く側の人間が生きた社会の環境や作者の思いが作品に大きく影響をする。純粋に人物の生き様やその人が生きた時代を表すのは不可能なのかもしれない。

 またピエールは「科学は純粋なものでなければならない」と述べているが、確かに科学は純粋であるかもしれないが、それを発見する人間は純粋ではない。だから、科学の発展にはつねに個人の感情や思想から政治、社会情勢に左右されるのだ。マリーキュリーが生きた時代に比べれば、まだ科学の発展が妨げられる要因は減ったかもしれない。特に女性差別による圧力は弱まりつつある。しかし次は男性科学者よりも女性科学者の功績を優先して称えようという逆差別が起こりつつある。女性が望んでいるのは保護ではなく平等であるはずなのに、今時代の流れが新たな障壁を生み出しているように思える。


受講生の森脇さんからメールが届きました。(森脇-1

「フランケンシュタイン」を見ての感想

 フランケンシュタイン・ビクターは化学と哲学を交えれば新たな医療が成り立ち、人をも生き返らせることが可能だと説いたが、前半は私も賛成である。医療をする上で患者の精神状態などは重要であり、科学だけでは解決できないことが存在するからである。しかし、人を作るいうことには断固反対である。倫理的に反することであるし、一番の理由は作った人間に対して責任が取れないからである。この映画からは大きな力に対する責任の重さがよく伝わってくる。

 ビクターは富や権力を求めていたのではなく、愛するもののためにモンスターを作ったわけであるが、そんなことをモンスターは知らない。これはわれわれ人間も同じで、生まれてきたことに対する理由を知らない。しかし私たちは生きてゆくうえでそれを見つけていく。そのためには誰かとともに生きてゆかねばならない。何のために生まれてきたかも知らず、誰の愛情も受けずに行けば私たちもまた、モンスターのようになってしまい、世間や他の誰かを恨みながら生きてゆくことになるだろう。

 モンスターには名前がない。ビクターは愛する妻を生き返らせたとき、しきりに名前を呼んで振り向かせる。そして「僕の名前を呼んでごらん」と自分の名前を使って歩み寄らせる。これは名前のないモンスターにとってはさぞ苦しいことであろう。モンスターはビクターのことを父親だといい、「名前もくれなかった」と言った。名前は個人を識別するためにも重要である。それによって自分は他の誰でもない自分なんだと思うことができ、またそれは親または近しい人間に与えられる特別なものである。しかしモンスターにはそれすらない。それどころか父親ビクターは自分を失敗とし、確かに自分は作られ、生まれてきて存在しているのに、なかったことにしようとする。

 作ったものには責任を持つべきである。大きな力を手に入れればそれほど大きな責任が付きまとってくる。核兵器も同じように作ったはいいが、責任が持てなければ、危険因子となりコントロールが聞かなくなるかもしれない。モンスターと同じである。まだ核兵器は自我を持たないが、今後知能を持ったロボットも作られるかも知れない。それはとても便利かもしれない。しかしコントロールが効かなくなればモンスターと同様、暴走してしまう。われわれの身近にもうフランケンシュタインのモンスターの危機が迫っているのだ。

 科学はこれからも発展していくだろう。この映画がから学んだように、その偉大な力への責任を作り出した科学者だけでなく、使っていく人間も背負っていくべきである。