受講生の長野さんからメールが届きました。(長野-5

 「鉄腕アトム」を見て、まずアトムがもともと2003年設定で完成される物語だったということに驚いた。本当にそうなっていたら、今は2010年だからアトムが誕生して以来7年も経ち、車も空を飛んでいる世界になっていたのかと思うとつい笑ってしまった。2030年設定に変更されているようだが、それもまた更新されるだろう。アニメーションを見て、アトムを作り出す動機や工程から「フランケンシュタイン」を想像せずにはいられなかった。人間自ら作り出しておきながら愛されないロボット。カラーアニメの方ではロボットに人権が確立されていたが、人間とロボットの共存は得てして難しいものだと思う。また、資料にもあった、「実現不可能だから美しい」という言葉は、まさに的を得た表現であると思った。

 アトムのように心優しく正しいロボットであれば、レーザー機能やジェット噴射機能が備わっていてもまったく問題ないだろう。しかし、もしそうでなければと思うと背筋がぞっとするのを隠し切れない。

 ロボット開発は今でもなお多くの科学者の夢と希望であると思うが、何のためにつくっているのか、つくってどう扱うのかをしっかり考えたうえで、ただの自己満足にならないよう臨んでほしいと思う。実現不可能なものを追い求めるのは人間の定め。科学の進歩とともにどこまで再現され行くのか期待していたいと思う。


受講生の長野さんからメールが届きました。(長野-4

 「ブレードランナー」を観るにあたって、普段からアクションものや人が死ぬような作品が苦手な私は「フランケンシュタイン」に引き続き、目を伏せながらの鑑賞となった。「レプリカント」は、人間ではないはずなのに、寿命が決まっていたりだんだん感情が芽生えていったり、血を流して死んでいったりとほとんど人間と変わらない様子で描かれていることに逆に恐怖を覚えた。資料を見ても、「ハリソン・フォード演じる『ブレードランナー』自身も人間であるとは限らない、むしろ『レプリカント』である可能性を示唆している」というような表現もあり、我々人間も(言ってしまえばそうなのかもしれないが)「つくり物」なのではないかという感覚にまで陥ってしまった。一方、最初の街中のシーンで主人公がうどん屋のカウンターに座ったり、飛行船のスクリーンに演歌歌手の姿があったりと、洋画であるのに日本の文化が盛り込まれているところがおもしろかった。ラストシーンで、ルトガー・ハウアー演じる「ロイ」が「ブレードランナー」を生かし、ゆっくりと自らの寿命を迎えるシーンはとても印象的で、その姿は人間そのものだったように思う。飛び立ったハトは、この闘いの終わりを告げるとともに、薄暗いニューヨークの街に平和(静寂)の訪れを知らせているように思った。また、最後にデッカードを殺さなかった理由を、「命を大切にしようを思ったのだろう」とくくっていたこともとても印象に残っている。

 「人間」と「レプリカント」の違いは、寿命が提示されているかいないか、ここではないだろうか。そしてこの違いが、両者の行動の違いに顕著に表れていると私は思う。「登場する人間たちが弱々しく無気力なのに比べ、皮肉にもレプリカントの方がはるかに生き生きとして」いると資料にもあったように、寿命のある「レプリカント」たちは、その生を延ばすために必死になっている。一方人間はと言えば、荒廃した地球では長すぎると言わんばかりに寿命を持て余しているのだ。どちらがいいと言うことはできないが、圧倒的に「レプリカント」の方が「人間らしく」生きていると言えよう。「人間は死に向かって生きる存在」とあったように、その運命から逃げることはできないが、いかに死にゆくか、それまでどう生きたかが重要なのだと改めて思った。人間の作った「レプリカント」から、人間のあるべき姿を学ぶこととなった。


受講生の長野さんからメールが届きました。(長野-3

 「アルジャーノンに花束を」を見て、現代の学歴社会を物語っているように思えた。配布資料にも「知能というものは、テストの点だけではない」と記されているし、誰でも頭ではわかっていることではあるが、実際のところうまく折り合いをつけられていない。テストの点数でいじめが起こったり、いい点数を取るために小学生のころから塾に通わされていたり、勉強を重視するあまり今ではテストの点数を取るための勉強方法を教えたりするものまである。では、人は何のために勉強をするのか。テストのため?いい点数を取って評価されるため?それらは過程であり、そして勉強は一つの手段であり、一番は「よりよく生きるため」と言っていいのではないだろうか。「よりよく」というとなんだかぼやけてしまうが、政治や社会情勢、今年の流行語など、「知る」ということを通して自分の興味を掘り下げ、楽しさを見出していく。そんな人間の持つ知識欲と、そ黷ノ純粋に喜びを見出していくチャーリーの振る舞いから、いかに自分が当たり前のことを当たり前として受け入れているかがわかった。小さなことに幸せを見出していくことが、人の心を豊かにし、めまぐるしく過ぎていくときの流れから(たとえ一時的だとしても)解放してくれる一つの突破口なのではないかと思った。

 しかし、この作品を見てひとつだけ疑問が残る。それは、一度知能を手にし、再び元の生活に逆戻りしたチャーリーは、果たして幸せだったのかということだ。「賢くなりたい」と望んでいたチャーリーであったが、一度得たものを失っていく彼のもどかしさを思うと、一言に「いい経験をした」などという言葉では言い表せないと思う。そういった点に焦点を当てつつもう一度この作品を鑑賞したいと思った。


受講生の長野さんからメールが届きました。(長野-2

 「キュリー夫妻」をみて、マリーの無欲で、自分のすべてをかけて研究に明け暮れる姿からある種の強さを感じた。女性であること、ポーランド出身であること、貧しさなど、さまざまな困難を抱えながら研究に没頭することができた彼女には、研究への強い執着が感じられる。彼女が「献身、無欲、自己犠牲」と形容されてきたことも納得することができた。特に、家事全般を家政婦に任せっきりで子供にも目もくれないマリーに嫌気がさし、とうとう家政婦が出て行ってしまうシーンは、母親失格と言ってしまえばそれまでなのだが、マリーの研究に没頭する様をリアルに描いていたように思う。また、これは広く信じられているマリーの聖母像を壊すのに成功したシーンの一つとも言えるだろう。

 また、夫ピエールとの恋愛もさわやゥに描かれており、二人の仲睦まじかった様子が手にとってわかった。夫妻での受賞は、昼夜を問わず研究を続けてきた2人への最高で最大のプレゼントだったと思う。そして受賞後もまた、新たな研究に励んだ夫妻は、地位や名声のために動かされる研究家ではないということを改めて物語っているように思う。

 私が「キュリー夫人」について知ったのは、小学校低学年の頃、図書館にあった伝記を手にしたのが初めてだった。ずいぶん前のことで記憶もあいまいなのだが、その時には彼女がポーランド人であること、女性であることで風当たりを感じていたことなど考えもしなかった。もちろん不倫の話なんかにもふれてなかったはずだから、私の中で彼女はまさに「化学者の聖母」と化していた。しかし、今回の授業を通して、彼女のノーベル賞受賞までの困難な道のりを知ることで、単なる知識としての歴史上の人物でしかなかったキュリー夫人が、血の通っていた一人の女性として私の中で描かれることになった。

 歴史において、成し遂げた功績などの確固とした事実は重視されるが、そうではないその根底にあるその人の人柄や成果に至るまでの道のり、その後を知ること、またその時代の社会的背景を探ることは、とても興味深いものだと思った。

また、それはその後のさらなる研究の発展に帰依する部分も多々あると思う。

 新たな発見による化学の進歩が輝かしい一方、今それを素直に喜べなくなっているのも事実である。新たな発見の利用法を十分に検討し、平和のために有効利用できれば、と切に願う。


受講生の長野さんからメールが届きました。(長野-1

 「フランケンシュタイン」を見て、人間の踏み入れてはいけない領域を見た気がした。人間の命の無限化はだれもが望むことで、死は恐れるところであるが、そこは変えることができない、変えてはいけないところなのだと思った。フランケンが研究を進め一人の蘇生人間を作ったことで(正確にはその後、それを見捨てたことで)多くの命を失い、多くの人を傷つけることとなった。科学の進歩には犠牲は付き物であるというが、私は今回のような犠牲は見ていられなかった。人間は過ちを犯してから初めてそれを過ちと気づく。悲しいことだけど、自分の目で見て自分が納得しないとそれを認めない、そんな人間の愚かさも同時に感じることができた。

 しかし、フランケンに作られた怪物が言葉を身につけ、徐々に感情を表現しはじめるところでは、怪物に愛おしさを覚えた。特に最後のフランケンが死んでしまったシーンで、涙を流し死を悼んでいた怪物は、人間そのものだったように思う。はじめから愛情を持って接していれば、怪物も凶暴化することなく、人間として暮らすことができたんじゃないかと思う。

 人間はなぜ、何のために生まれてきたのか。生を与えたかと思ったら今度は死を与えんとする。「フランケンシュタイン」を通して、怪物の存在と人間の存在とを重ねることができた。人間には限りがあって、そこを変えることはできない。しかし、有限だからこそそこに向かって限られた時間を生きることが大切なんだと思う。過ちを繰り返しながらも人間の運命にだけは背くことなく生きていこうと思う。