受講生の岡本さんからメールが届きました。(岡本-5

 ロボットを亡くなった息子の代わりとしていた所がフランケンシュタインと同じ発想だったので驚いた。身近な人や愛する人の死というのは誰にとっても苦しく受け入れがたいことである。そして抑えきれない心の動揺があるとき、人は自分を見失いやすいのではないだろうか。白黒版とカラー版の両方に見られた場面であるが、博士はロボットを作り息子の代わりにしようと思いついたとき、狂ったような高笑いをしている。よって博士はこの時点で理性を失ってしまっていると見える。この授業におけるテーマの一つである科学技術の暴走は、このように人の心に悲しみや恐怖、興奮などの強い感情が存在し、それらが自分で制御できなくなった状態の時に起こってしまうのでないかと思う。そう考えると人間は弱い。

 また白黒版において、博士は結局アトムをただのロボットとして扱うようになる。このように人間は、ロボットが人間に似たような体つきや、感情や理性を持ち合わせたとしても、都合が悪くなると簡単に物として扱ってしまうのだろうか。これから現実世界において技術が発展し、本当に感情を持つロボットが作られるようになったらどうなるのだろう。技術発展に伴って、ロボットの扱いに対しては人道的、非人道的とのボーダーラインの決定における論争が起こるかもしれない。

 白黒版とカラー版には、細かくはあるが違いがある。そしてこの違いは、時代に即して白黒版を修正したものと考えられる。まず白黒版においては亡くなった息子の代わりとして人型のロボットを作り始めたのに対し、カラー版では元々製作中であった子供型のロボットを事故の後に息子の代わりとして扱おうと思いついたという点が挙げられる。この点を主として、白黒版では息子の死がとても重くシリアスに描かれているように感じた。私が考えるに、これでは子供向けアニメにそぐわないとして変更されたのではないだろうか。手塚さんの作品では、このように科学や医療に関する道徳的な問題がとりあげられていることが多い。アトムの原作を読んだことがないので私には分からないが、白黒版が原作に忠実であり、元々のストーリーに手を加えすぎることなく死の印象を軽くするために考えた結果として、カラー版の展開に変更されたのではないかと考える。その他の違いとしては、先生の解説において指摘されていた、白黒版では博士の研究室のメンバーが男ばかりであったのに対し、カラー版では女が加わり、またその女が研究室において高い地位についていたという点である。これは時代に伴って男女平等の意識が高まってきたことが反映されている。

 これまでは23時間の映画がとりあげられてきましたが、今回は数十分のアニメにおいて多くの点で深く考えさせられたので、手塚作品はすごいなと思いました。


受講生の岡本さんからメールが届きました。(岡本-4

 私は自分がレプリカントであり、あと数年の命であったら、やはりそれを素直に受け入れることはできないだろう。しかしそれでいて私自身としては生と死のどちらがいいか、それは何故かという考えがはっきりとしていない。しかし何故死にたくないかと考えると、まず死には痛みや視覚的なグロさがイメージとしてあるからである。(実際に映画にも目をふさぎたくなるような場面があった)わたしにはそれが怖い。なので気に病むほど嫌なことがあったときには、「死にたい」よりは「消えたい」と思うのである。死であっても眠りにつくような安楽死であれば恐れはない。しかしこれは死ぬときに何が起こるかに対する考えであり、死ぬとどうなるのかは私にはよく分からない。そのよく分からない死という状態に追いやられること自体も怖いと感じる。

 また別の考えとして、十分な寿命をまっとうした後なら死もそう怖いものではない。最近私はひいおばあさんを亡くしたが、彼女は100年も生きたため「悲しい」よりは「おつかれさま」という気持ちを持った。それはきっと彼女が病院のベッドに横たわり、話す言葉も聞き取りづらく栄養を送り込むための管につながれていた姿を見たからだろう。つまり彼女には資料で述べられていたような未来がなかったため、死に恐れを感じなかったのかもしれない。しかしこれが自分の立場だとしたら、死が怖くないと言えるかは今の若い自分には分からない。

 レプリカントの寿命は人間の寿命とは異なる感覚である。体の衰えなく死ぬというのは、殺されることと同じである。つまりレプリカントの寿命とは殺される日までのカウントダウンといえる。そしてレプリカントの寿命には「痛みやグロさ」よりは「未来を奪われる」という恐怖が大きかっただろう。殺されるという恐怖と未来を奪われるという恐怖、理性を持つものはこの恐怖に支配されやすいのだと思う。私は恐怖というのは直感的なものであると考える。なので死の何が悪いのかと考える前に、人間は死に対してそれぞれの恐怖を感じていると思う。この恐怖から逃れられないレプリカントは、非常に苦しい思いをして生きていかなければならない。それは誰にとっても耐えられないことだと思う。生きたいと思うのは人間の本能なのではないだろうか。


受講生の岡本さんからメールが届きました。(岡本-3

 実験は成功する可能性とともに失敗する可能性もあり、失敗したときのリスクに責任を持てるものでなくてはならない。しかし失敗した結果どういうことが起きるか、何が失われるかは想定を超えるものである場合がありうる。よって命あるものを実験に使用する際にはお互いに理解と覚悟が必要であると考える。同じ種であり、理性をもつ人間を対象にする実験においてはなおさらだ。

 チャーリイの手術による効果は一時的なものであり、この実験は結果としては失敗であったといえる。そして自分の知能がまた元に戻ることを知ったとき、映画では過去の自分から逃げまどうチャーリイが描かれていた。チャーリイはこのとき過去の自分の何が嫌で逃げていたのだろうか。

 チャーリイは知能を手に入れると同時に、知能が低いと同じ人間であっても他人から見下され笑われる対象になるということに気付いたのだと思う。つまり同じ人間として平等に扱われなくなってしまうのだ。

 人間には、他人よりも良くありたい、優れていたいという欲がある。そのためには他人を見下したり笑ったりすることで自分より劣っていることを誇張したくなるのである。チャーリイは手術によって得た知能を再び失い、以前のように他人から見下され笑われる対象となることを恐れたのである。

 またチャーリイは過去とは違う自分として手に入れたアイデンティティーまでも失うことになる。いろいろなことを知り自分だけの考えを生み出したこと、恋をしたこと、全てが過去の自分にはなかったものであった。知能が元に戻ると、手に入れた人間らしさまでも失うことになる。

 そしてこの原因となった手術、言い換えれば実験における自分の権利が無視されていること、これが自分の知能が低いためであることにも気付いた。実験の失敗によって自分が多くのものを失うことに何の責任も持たなかった研究者。チャーリイは彼らの欲に振り回され利用されてしまったのである。

 彼の知能がこれからもずっと維持され実験が成功していたら、むしろチャーリイは幸せに暮らしていくことができただろう。しかしこの失敗によって、チャーリイを振り回した人間の欲だけが露骨に浮き彫りになってしまった。

 実験のリスクというものは無視できない問題である。特に人体を利用した実験、科学実験においては取り返しのつかない結果になることもある。そうならないためにも、実験においては研究者の欲や実験のリスクなどを冷静に考えなければいけない。


受講生の岡本さんからメールが届きました。(岡本-2

 この映画では、マリーの淡々とした受け答えやきっぱりとした性格からか、マリー・キュリーの人生における苦労があまり伝わってこなかったように思う。私自身これまでマリー・キュリーという名前と主な業績くらいしか知らず、この映画を見ることになったきっかけで友達からピエールがこの後亡くなるなどといった断片的な話を聞いたくらいであったためか、川島さんのテキストを読んで驚いた。(何しろ映画は一度目のノーベル賞の授与のシーンで終了し、その後の重要な苦労がカットされていた。ピエールが亡くなる前に終わったので私は驚いた!)

 映画ではマリーがポーランド人であることによって他人から卑下されていた印象が強かったと私は感じた。しかし実際に彼女が卑下されていたのには、彼女が女であったことに一番の原因がある。

 社会には女が入っていきづらい領域がいたるところにある。男女平等が叫ばれている現在であってもあるのだから、マリーが科学の分野に女として足を踏み入れた時には露骨に女が異端視される風潮があったわけである。

 私はオノ・ヨーコさんが好きで本や曲などを鑑賞しているが、彼女もマリーと同様に女であるために非難された人々の一人である。彼女はその個性的な表現スタイルから人々の注目を集めていた。しかし夫と対象的に、ステージに立てば「降りろ」と叫ばれ、レコーディングスタジオに入れば自分のマイクだけオフになっているなどの嫌がらせを受けることが多々あった、と自伝的作品に当時の苦労が記されている。そして「ビートルズを破壊した女」なぞと理不尽なこと言われてしまっていた。

 これらはやはり彼女たちが女であったことによる卑下である。とくに彼女たちのように、これまでにない新しいことをしようとすると余計露骨に嫌悪を示されてしまう。

 現代になって表面的には女の差別はなくなったが、やはり女が男の前に出るとなんとなく居心地悪ュ感じられることがあるだろう。自分で出来ることであってもとりあえず男の人に頼むことによって男女の関係をうまくいかせる方法だってある。これは男の性格でもあるので仕方ない部分もあるかもしれない。しかし例えこのように自分が女であるがゆえに不利な状況に立たされた時、マリーのように新しい分野に女として踏み込んでいった人々の勇気と信念を思い出したい。そして女同士助け合うことも重要だと思う。

 また放射線が人体に及ぼす影響について、マリーがそれを無視していたことが問題として挙げられることがあるが、私としてはそれに関してマリーが悪いとは一概には言えないと考える。なぜなら放射能というエネルギーを発する物質が存在するということが明らかになったのは、元々マリーの功績であるからだ。人はまずそれがどういうものか、どのようなものであるかを理解しなければ、良い・悪いは判断できない。またそれを利用する方法によってもその判断は異なってくるわけであり、マリーやピエールが願ったような人類に貢献する以外の使用がされた場合には、その使用方法を考えた人に責任があるのではないだろうか。この場合マリーの興味がラジウムの抽出という一点に集中していたがために放射線の影響に気が回らなかったわけだが、これによるマリーの過失は部分的なものであると考える。

 前回のフランケンシュタインのケースと比べると、マリーは科学を発展させ、フランケンシュタインは科学を利用したといえる。よってこの2人は立場が違うため、直接比較することはできない。フランケンシュタインに関しては彼の行動に過失があったと言えるだろうが、マリーの場合はそうはいかないのである。


受講生の岡本さんからメールが届きました。(岡本-1

 配布されたプリントでは主に生き返った怪物の側から、彼がなぜ存在するのか、人生の意味とは何かに焦点が当てられている。しかし私はこの映画を見て、何がこれほどまでにヴィクターを研究に没頭させたのかということを考えさせられた。

 ヴィクターが人間を生き返らせる研究に取り組むようになったきっかけは彼の母親の死であり、ヴィクターは愛する人を失うことを受け入れることができなかった。母親の死を悲しむのは誰でも同じである。しかしそこから人間をいつか死の恐怖や悲しみから開放させたい、生き返らせたいと考えたのには、ヴィクターが医者の家系の人間であった影響が大きくあると思う。科学者や医者は、不可能を可能にしていくために研究や実験を試み続ける人間である。つまり、試してみなければそれを不可能として受け入れることができない。なので一般の人なら死んでしまったものはどうしようもないと受け入れるところを、ヴィクターにはそれが出来なかったのではないだろうか。ヴィクターは愛する人を失った悲しみと、またいつか愛す

る人を失ってしまうかも知れない恐怖から、研究に対する衝動が収まりきらなかったのだと思う。

 結果として、生き返らせた人間を見てヴィクターは自分がしてしまったことの間違いを悟るわけだが、もしこの研究が成功していたらどうだっただろう。映画に出てきたクリーチャーは見た目が醜かったがために社会に受け入れられなかったわけだが、言語の習得も早く知性も優れていた。また自分を受け入れない社会への反発から凶暴な性格へとひねくれたわけで、元は素直で温厚であったように見えた。もし見た目もきれいに生き返らせることができていたら、死ぬ前よりも優れた人間になっていたに違いない。

 しかしそう上手くいかないことから、生と死の領域には人間の触れてはならない何かがあるように思う。人間は神にはなりえないということだろう。出来ることと出来ないことを見極めることは難しいことである。試してみないと分からないかもしれない。しかし人間には理性や知性があるので、何事もまず考えてみるに越したことはないと思う。