パッケージ別科目「社会のなかの科学」(2009年度後期)

(最終更新日:2010125日)


担当者から:期末試験は21日(月)1-260分)、総K203で実施します(持ち込みなし、座席指定)。


125日は、NHKスペシャル「明治--模倣と独創」の続きを視聴しました。

 明治政府は「富国強兵」・「殖産興業」政策のもと、明治5年、新橋-横浜間に鉄道を施設し、富岡に製糸工場を建設します。前者はイギリスの技術、後者はフランスの技術を導入したものでした。技術導入にあたって「お雇い外国人」に全面的に頼らざるを得ませんでした。

 近代産業の振興と産業基盤(インフラストラクチァー)の整備を目的として設置された工部省は、「お雇い外国人」依存の脱却を目指し、日本人技術者養成のために、H・ダイヤーらイギリス人教師の指導のもとに工部大学校を設立しました(1873年)。

 工部大学校の教頭として、イギリスからやってきたH・ダイヤーは、基礎・応用・実習から成るカリキュラムを通じて先進的な科学技術教育を実践し、優秀なエンジニアを多数養成しました。番組では、京都の琵琶湖疎水の事業を立案し、建設にあたった田辺朔郎の事例が紹介されていました。伝統技術と近代技術を組み合わせることによって、困難な土木事業を完成させたこの事業の成功は、明治期の技術移転の典型的なパターンを示すとともに、技術移転における「模倣と独創」の重要性を示しているといえるでしょう。また、疎水を利用して、水力発電所が建設され、その電力を利用して市街電車(日本最初)が運行されました。

 工部大学校は工部省の廃止によって存立の基盤を失い、1886年、帝国大学の設立を機に帝国大学工科大学となりました(現在の東京大学工学部)。工部大学校の歴史は短かったものの、明治期における指導的エンジニアの養成に果たした役割は大きなものがありました。

参考文献:

ヘンリー・ダイヤー(平野勇夫訳)『大日本』実業之日本社、1999年。

三好信浩『ダイヤーの日本』福村出版、1989年。

北政巳『国際日本を拓いた人々--日本とスコットランドの絆』同文館、1984年。


118日は、前回の補足をしました。

 1862年のロンドン博を幕府の遣欧使節団が視察し、1867年のパリ博には幕府と薩摩藩が別個に出展しました。このように19世紀後半の万国博は日本が欧米にデビューし、日本のイメージを売り込む場でもありました。

 

 続いて、欧米における科学技術の制度化の進展の中で開国し、近代国家建設に着手した我が国について考えるために、NHKスペシャル「明治--模倣と独創」の冒頭の部分を視聴しました。

 幕末期から明治初期に来日した外国人たちは、日本の文化、社会、生活を詳細に観察し、しばしば好意的・肯定的に記述し、欧米に紹介しています。一方、明治政府は「富国強兵」・「殖産興業」政策のもと、明治5年、新橋-横浜間に鉄道を施設し、富岡に製糸工場を建設します。前者はイギリスの技術、後者はフランスの技術を導入したものでした。技術導入にあたって「お雇い外国人」に全面的に頼らざるを得ませんでした。


17日は、19世紀の科学技術の制度化の進展に関して、1851年ロンドンで開催された第1回万国博覧会について議論しました。

 大英帝国の繁栄を基礎に、ヴィクトリア女王の夫アルバート公が主宰し、1851年、ロンドンで万国博覧会(The Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations)が開催されました。鉄とガラスを駆使した広大な水晶宮(Crystal Palace)が建設され、イギリスおよび諸外国から出品された1万4千点にもおよぶ展示品を見ようと、当時整備されつつあった鉄道等を利用して、イギリス全土から、さらに外国から約600万人もの観客が会場に押し寄せました。

 ロンドン博の成功をみた各国の主要都市も次々と万国博覧会を開催し、それを機に都市機能の近代化をはかりました。フランス革命百周年を記念したパリ博(1889年)ではエッフェル塔が建設されました。当初は塔の建設に反対する意見もありましたが、現在ではパリのシンボルとなっているのは周知の通りです。

 万国博の出品物に関して、部門別のコンクールが行われ、その結果、各国の工業力を競う場、万国博が一種の「産業オリンピック」の役割を果たしていたことも注目すべきでしょう。長く審査員を務めたイギリスのプレイフェア(18181898)は、回を重ねるごとにイギリスの出品物が劣勢になっていくことに危機感をもち、改善の施策を講じるよう有力者に手紙を書いています(1867年)。

 続いて、19世紀における科学技術の制度化を推進しようとした科学者自身による「科学(技術)立国論」を検討しました。

 上記のプレイフェアだけでなく、フランスのパストゥール(18221895)やイギリスのゴア(18261908)らは、それぞれ自国における科学研究、科学教育体制の不備を、他国との比較で指摘し、科学技術の制度化が急務であることを訴えました。パストゥールの「フランス科学についての省察」(1871年)やゴアの『国家発展の科学的基礎』(1882年)は、今日の科学技術立国論を先取りしたものとして注目に値するでしょう。


1225日は、クイズ番組「世界不思議発見 マルクスの熱血貧乏物語」の続を視聴しました。

問題2:当時の母親が赤ちゃんを静かにさせるために与えた物とは何か?

問題3:工場をスムーズに運営するため経営者が備え付けた物とは何か?

(問題3に関する補足:M.フーコー『監獄の誕生——監視と処罰』を紹介しました。フーコーは「近代」を支える制度や施設(工場、病院、兵舎、学校、そして何よりも監獄)を分析検討することによって、「近代」社会はどのような特質をもっているかを明らかにするとともに、そこで作用し、かつ再生産される「権力/権力関係」の本質を明らかにしています。もちろん「大学」もそのような制度・施設の一つです。)

問題4:事務員としての就職を断られたマルクスの欠点とは何か?


1221日は、19世紀におけるドイツの大学改革について議論しました(補足)。

 19世紀初頭のドイツの知識人・大学人たちは、沈滞した大学に再び活力を与えようとして「大学改革」について議論しました。その議論の中から、W.フォン・フンボルトルトらによって、大学はなによりも「学問(ヴィッセンシャフト)探求の場である」「大学人は先ず優れた研究者でなければならない」といった理念が唱えられ、「研究と教育の一致」という理念も語られました。かくて中世以来、知的専門職養成機関(教育機関)であった大学が研究機関としての機能をもつようになりました。このような議論の中で、「学問の自由」(Academic Freedom)という理念も強調されました。

 「真理探究の場としての大学」、「大学人はまず優れた研究者でなければならない」といった理念とそれに基づく人事政策は、大学人(とその予備軍)を研究志向に駆り立てるとともに、学問研究の専門細分化を促しました。ある分野で一流の研究者とみなされるためには、大家(たいか)や先輩研究者が多くいる既存の分野よりも、未開拓の新しい分野で仕事をする方が有利だったからです。新しいテーマや新しい研究手法を見つけだし、新しい知識を見つけだす(生産する)という今日一般的となった研究者の行動パターンが確立したのです。その結果、多くの専門学会が設立され、大学に専門的な講座や研究所が設置され、国家社会が科学の研究・教育を支援・奨励するという体制が次第に整いはじめました。このような事態を「科学の制度化」の進展と呼びます。

 

 続いて、19世紀におけるドイツの大学改革と現在進行しつつある大学改革を比較しました。

 20世紀末以来、我が国も含めて世界の多くの国々で「大学改革」が叫ばれていますが、現代の大学改革は、19世紀ドイツにおける大学改革とは様相を異にしています。現代の大学改革は、アカデミック・キャピタリズムAcademic Capitalism)の進展ということで特徴づけられるでしょう。経済社会を支配している資本主義の原理を大学にも適用しようというわけです。すなわち、市場メカニズムや競争原理を大学にも適用することによって、大学における教育や研究の内容を経済社会の要求に限りなく近づけようとしているのが現代の大学改革です。もはや大学は「象牙の塔」ではありえず、大学人(大学教師)は「孤独と自由」を享受することは許されなくなりました。上に述べた広島大学における改革もこの路線に沿ったものと言えるでしょう。19世紀の「大学改革」と現代の「大学改革」は、言葉は同じですが、その方向性は全く反対だといえるでしょう。

 19世紀ドイツ大学で成立した大学理念と現代の大学改革の中で推進されている大学理念を次のように比較対照できるでしょう。

大学理念の変容

アカデミック・フリーダム(19世紀~20世紀末)

アカデミック・キャピタリズム(20世紀末~現在)

大学は知的共同体

大学は市場経済の中のエンタープライズ(企業体)

大学の孤独と自由(象牙の塔)

説明責任、経営責任を問われる

大学自治(教授中心)

外部評価、経営協議会(外部の影響力強化)

研究と教育の一致

研究と教育の乖離(分業)

教師は研究者=教育者、学生は学問を通じて人格を陶冶

教師は(知の)資本家、学生は消費者

真理探究の場

(有用な)知識生産の場、能力開発機関

 

 最後に、「科学(技術)の制度化」の背景としての産業革命(産業資本主義の発展)について考えるために、クイズ番組「世界不思議発見 マルクスの熱血貧乏物語」を視聴しました。

 マルクスが『資本論』で分析した「資本主義社会」とは産業革命によって出現した社会であり、産業革命と科学技術の制度化とはメダルの表と裏のような関係にあるといえるでしょう。

問題1:マルクスが新ライン新聞の最終号に持たせた特色とは何か?


1214日は、19世紀におけるドイツの大学改革について議論しました。

 そもそも、「大学」という制度は、12世紀-13世紀にかけて、ヨーロッパ各地の都市に誕生しました。教会や修道院の附属学校が母胎になったとされていますが、教師組合なり学生組合を核とした知的共同体=学問ギルドとしてさまざまな法的権利(特権)を獲得し、中世ヨーロッパ社会で一定の役割を果たすようになります。大学の基本的な社会的機能は、聖職者、官僚、医師といった知的専門職の養成で、そのため、学部としてはそれぞれ神学部、法学部、医学部がありました。また、哲学部(学芸学部)があり、専門学部で学ぶために必要な「自由七科」(文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽)が教授されました。


127日は、「祖国・科学・栄光」の続きを最後まで視聴しました。

 E.P.の学生たちがフランス社会で果たしている(期待されている)役割や彼らの学生生活を垣間みてもらえたと思います。

 校長先生が誇らしげに述べていた「E.P.が設立当初から目指してきた三つの使命」、すなわち、

. 国家技術者(公務員)の養成

. 企業管理者の養成

. 科学者・研究者の養成

は過去二百年を通じて十二分に果たされてきたことがよく理解できたはずです。

 1814年、E.P.を訪問したナポレオンの姿と、1994年、創立2百周年を記念して同校を訪問したミッテラン大統領の姿は非常によく似ています。この事実は、この学校が近代フランス国家にとって果たしてきた役割を象徴的に示しているように思います。

 最後に19世紀におけるドイツの大学改革について議論しました。

 

 フランス革命とE.Pの設立はドイツ諸国にインパクトを及ぼしました。18世紀末-19世紀初頭のドイツは、小国家群に分裂しており、そのころ近代国家としての体裁を整えつつあったイギリスやフランスの後塵を拝していました。特にフランス革命の混乱の中から登場したナポレオンの軍隊にドイツ諸国は蹂躙され、このことがかえってドイツのナショナリズムを呼び起こし、ドイツの知識人たちはドイツの「文化・学問」によりどころを求めました。しかし、その文化・学問を継承発展させる場としてのドイツ各地の大学は、その多くが当時疲弊し沈滞していました。


1130日は、「祖国・科学・栄光」の続きを視聴しました。

 アンシャンレジーム(旧体制)の打倒を目標にしたフランス革命は、中世以来の伝統をもつ大学も解体しました。しかし、革命を維持発展させるために必要な人材の養成のために、革命政府は全く新しい構想の下に、1794年、エコール・ポリテクニク(以下EP)を設立したわけです。近代国家建設にあたっての科学技術者(テクノクラート)の重要性を認識していたところに、革命政府の先見性を見て取ることができるでしょう。

 フランスでは高等学校卒業試験(バカロレア)に合格すれば入学が保証されている大学(ユニヴェルシテ)とは別に、グランゼコール(大学校)というエリート養成学校があり、その頂点に理工系のE.Pと文系の高等師範学校(エコール・ノルマール・シュペリゥール)、さらに第二次大戦後設立された高等行政学院(エコール・ナショナル・ダドミニストラシオン、エナと略称)があります。

 フランスは文化大国として知られていますが、科学技術大国(武器輸出大国)でもあります。番組でも紹介されているように、フランスはロケット、原子力(発電および核兵器)、高速鉄道、航空機などの分野に卓越した実績を有していますが、これらはすべて軍事的な性格をもっています。フランスがEUの中で主導的な立場にあり、世界政治の上で大きな発言権を確保しているのは、フランスの科学技術力に拠るといっても過言ではないでしょう。この科学技術力を担っているのがE.Pとその卒業生なわけです。

 EP1794年の設立以来、全国一斉の学力テスト(筆記試験、口答試問)によって約400名の入学生を選抜しています。家柄や財力に関わらず、学力のみで選抜するという今日では普通となっている入学者選抜の方法は、啓蒙主義の精神に導かれ「自由・平等・博愛」をスローガンにしたフランス革命政府によって採用された新しい方法でした。

 E.Pの学生たちの学生生活と現在広島大学で学んでいる受講生諸君の学生生活との共通点と相違点などを考えてもらうと興味深いと思います。


1116日は、「アイザック・ニュートン」の続きを最後まで視聴しました。

 近年、「プライオリティ争い」など、ニュートンの多様な人間的側面が強調されるようになりました。

参考:中島秀人『ロバート・フック--ニュートンに消された男』朝日選書5651996年。

   D.H.クラーク、S.P.H.クラーク著(伊理由美訳)『専制君主ニュートン--抑圧された科学的発見』岩波書店、2002年。

 ニュートンをめぐっていくつもの「プライオリティ争い」が起こったのは、ニュートンの個人的性格による面ばかりでなく、科学者に対する報賞システム(rewards system)に起因することを論じました。科学者に対する報賞(名声、賞の授与、社会的地位、研究資金・設備・スタッフの増強など)は、研究業績が優れたものであり、一番手であることに対する評価や認知が前提になっているので、科学者はプライオリティにこだわらざるを得ないわけです。

 続いて、18世紀末19世紀における「科学技術の制度化」の先駆けとなったエコール・ポリテクニク(理工科大学校)について考えるために、同校の二百周年を期してNHKによって制作された「祖国・科学・栄光」というビデオの冒頭を視聴しました。


119日は、「アイザック・ニュートン」の続きを視聴しました。

 1670年代末、フックらロイヤル・ソサエティのメンバーは、天体運動を支配している力はどのようなものかを議論し、ニュートンに協力を呼びかけます。ハレーの仲介の結果、ニュートンはこの問題に真剣に取り組み、1687年、『自然哲学の数学的原理』を完成し出版します。ニュートンは、万有引力(普遍重力)というアイデアで天体運動と地上の運動を統合することに成功したわけです。

 ニュートン力学の根幹となっている万有引力(普遍重力)とは何か(万有引力の原因)をめぐって、ニュートン(を支持する人々)とデカルト派(デカルト流の機械論哲学を信奉する人々)との間に深刻な論争が起こります。というのも、神秘的な目に見えない力(オカルト的な力)を排除し、自然現象を粒子相互の衝突という機械論的な概念と用語で説明しようと務めていたデカルト派にとって、二つの物体が空間を介して引力を及ぼし合うという万有引力概念の導入は、自然の解釈に再びオカルト的な力を導入することになる、と思われたからです。万有引力の原因に関して、ニュートンは書物の中では「私は仮説を作らない」と述べていますが、個人的な書簡では、万有引力の存在を神の自然への働きかけの結果だと論じています。ここで、ニュートンの「科学的」探求と「非科学的(宗教的・神学的)」探求が結びつくわけです。

 ニュートンは、知的関心の領域が幅広かっただけでなく、政治(大学選出国会議員)にも、世俗的・行政的職業(造幣局長官)にも大いに関心を持ち、存分に力量を発揮しています。また、ロンド唐ナの社交界での生活も楽しみ、後半生は大学を離れました。さらに貴族(ナイト)にも列せられ、死後ウェストミンスター寺院に葬られるなど、科学者として稀に見る社会的・世俗的栄誉に恵まれました。


112日は、「アイザック・ニュートン」の続きを視聴しました。

 1660年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学したニュートンは、数学者バロウの指導の下、デカルトをはじめ、ガリレオ、ケプラーなど科学革命の担い手たちの業績を受け継ぎ、それらを集大成して、近代科学=近代的な宇宙観・自然観を構築することに成功します。しかし、その過程でロイヤル・ソサエティを舞台にした人間ドラマが展開されます。

 1665年~66年ペストの流行のため大学が閉鎖され、帰郷したニュートンは、天文学(万有引力)、光学(光と色の本性)、数学(微積分学)について重要な発見をします。1667年に大学に復帰したニュートンは、反射望遠鏡の制作が評価され、1671年、ロイヤル・ソサエティの会員になります。

 ロイヤル・ソサエティの会員になったニュートンは、1671年、ソサエティの機関誌『フィロゾフィカル・トランザクションズ』に発表した光学論文「光と色に関する新理論」をめぐってフックと反目するようになります。フックはロイヤル・ソサエティ創立初期からキュレイター(実験器具管理人)として実質的にソサエティを取り仕切っていた才能豊かな科学者でした。多方面に才能を発揮したフックは光学研究においても『ミクログラフィア(顕微鏡図譜)』を出版しており、その実績に基づいてニュートンの光学論文を批判したのです。フックの批判に気を悪くしたニュートンは、これ以後、ロイヤル・ソサエティと疎遠になります。

 ニュートンは、数学、力学・天文学、光学など(現代のわれわれからみて)正当な科学研究も行いましたが、同時に(われわれからみれば)非科学的な分野にも関心を示し、多くの時間とエネルギーをこれに注ぎます。錬金術、キリスト教神学、聖書年代学などです。われわれからみれば、両者(科学的分野と非科学的分野)は全く異質なものですが、17世紀の自然哲学者(natural philosopher)であったニュートンにとっては、両者は別のものではなかったのです。


1026日は、最初に先週の補足をしました。

 戦後の我が国の経済発展の歴史の中で、経済的な効率(生産性)ばかりが強調され、「環境」や「安全性」に対する関心が、生産者はもちろん消費者からも自発的には起こらなかったという事実も忘れてはならないでしょう。例えば、自動車の安全性向上(搭乗者の生命確保)や環境への配慮(排気ガス低減)などといった考えは、外国(アメリカ)での動きがあって初めて、本格的な取り組みが始まりました。戦中の兵器開発と戦後の経済発展に共通するパターンをみることができるのではないでしょうか。

 続いて、この講義のおおまかな見取り図を示した後、17世紀の「科学革命」The Scientific Revolutionの時代について論じました。

 17世紀中葉には、ヨーロッパの経済・文化の中心が貿易構造の変化に伴って、地中海・イタリアからアルプス以北(フランス、オランダ、イギリス)へとシフトします。この動きを象徴するように1660年、ロンドンに設立されたロイヤル・ソサエティ(Royal ociety of London)は、自然科学に限らず、学術研究団体のモデルとなりました。そして、RSが設立された1660年、ニュートンはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学しました。

 最後にニュートンの生涯を描いた「アイザック・ニュートン」(スカイパーフェクトTV、ヒストリチャンネル)の冒頭の部分を視聴しました。


1019日は、NHKスペシャル「エレクトロニクスが戦を制す」を最後まで視聴しました。

 太平洋戦争に際して、わが国とアメリカの科学技術力が戦争の帰趨を決定づけました。 アメリカ軍はレーダー・システムとVT信管を開発・装備して1944(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦で決定的な勝利を収めたのです。

 とはいえ、わが国の科学技術力が絶対的に劣っていたというわけではありませんし、高度な開発能力をもった人材がなかったわけでもありません。実際、レーダー(電探)の開発も進められていました(中川靖三『海軍技術研究所 エレクトロニクス王国の先駆者たち』講談社文庫、1990年などを参照)。しかし、わが国は「攻撃」兵器の開発に全 力をそそぎ、レーダーのような「防御」兵器の開発は後回しになっていました。

 同じことは戦闘機の設計思想にもみることができます。すなわち名機の誉れ高いゼロ戦は、航続距離と運動性能という面では確かに優れた能力をもっていましたが、パイロットや燃料タンクを守る装備に欠けるという致命的な欠陥をもっていました。それに対して、アメリカ軍のヘルキャットは、パイロットの安全を最優先にした設計思想が貫かれていました。これは人命尊重という考え方があるかないかとともに、パイロット養成に要する時間と費用を考えたアメリカ軍と「大和魂」を強調して経済合理性を無視した日本軍の違いに起因していました。

 「エレクトロニクスが戦を制す」で示された論点を以下のようにまとめることができるでしょう。

日本

アメリカ

攻撃優先、艦隊決戦主義、巨艦巨砲主義

航空機の発達を踏まえ防御を重視

ゼロ戦(攻撃に優れるが防御に弱い。パイロットの生命軽視)

ヘルキャット(パイロットや燃料タンクを防御。パイロットの生命重視)

電探(実用の域に達せず)

レーダー・システム(方向、距離、高度を探知)

有眼信管(アイデアのみ)

VT信管(砲弾の命中率を飛躍的に上げる)

 


105日は、ガイダンスをしました。

 最初に、授業フ進め方、成績評価の方法などを説明しました。

 続いて最初のトピックである「戦争と科学技術」について議論を開始しました。

 科学(技術)が社会的な存在であり、それ故、科学技術がどのよ、な方向で発展するかは、それぞれの社会の価値観・人間観・戦争観 が左右するということを確認するために、NHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争3 エレクトロニクスが戦を制す」(1995年製作・放映)の冒頭部分を視聴しました。

 この番組は、NHK取材班(編)『太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器「カミカゼ」を制す』(角川文庫、1995年)として文庫化されています。


シラバス

科目区分: 教養的教育 パッケージ別科目 科学技術と人間 人間・価値の視角

授業科目: 社会のなかの科学

授業科目(ふりがな): しゃかいのなかのかがく

担当教官: 成定 薫

(研究室の場所): C522

(内線番号): 6338

単位: 2

開設学部: 総合科学部

開設場所: 東広島

授業の形式: 講義

開講期: 12

週時間: 2

開設曜日時限: 後 月12

キーワード: 科学, 技術, 社会, 制度化, 科学立国論

パッケージの中でのこの授業の位置:

 科学の歩みを制度史・社会史の観点から概観することを通じて, 科学がすぐれて人間的営みであることを論じる. 同一パッケ�[ジの中では「現代技術と社会」と特に関連している.

授業の目標等:

 科学の歴史と現状を客観的・批判的にとらえる視点を養う.

授業の内容・計画等:

1.  戦争と科学技術

2. アカデミーと学会の成立

3. ロイヤル・ソサエティとニュートン

4. ニュートンとフック

5. エコール・ポリテクニクの設立

6. ドイツの大学改革とリービッヒの化学教室

7. ギーセン留学とロイヤル・カレッジ・オブ・ケミストリーの設立

8. 産業革命と万国博覧会

9. 科学立国論の系譜

10. 工部大学校から帝国大学へ

11. フォードT型車の登場

12. 核の時代

13. コンピュータと人間

14.(予備日)

15. 期末試験

講義内容は担当者のホームページhttp://home.hiroshima-u.ac.jp/nkaoru/に順次掲載する.

成績評価の方法:

学期期間中、出席を取るとともに随時小テストを実施し,学期末試験と併せて総合評価する.

テキスト・教材・参考書等:

成定薫『科学と社会のインターフェイス』(平凡社, 1994)(ただし版元品切れ)、ビデオ教材など視聴覚教材を多用する.