ポーリングの生涯

ーー科学研究と平和運動ーー

成定 薫(広島大学総合科学部/科学史・科学論)


☆略年譜

1901年 アメリカのオレゴン州ポートランドに生まれる。父は薬剤師。

 10年 父死去。

 17年 オレゴン農業大学(現在のオレゴン州立大学)に入学。

     アルバイトをして生活費・学費を賄いながら勉学に励む。

 22年 オレゴン農業大学卒業後、カリフォルニア工科大学(Cal Tec)大学院に入学。

     研究テーマは、X線回折を用いた結晶構造の分析。

 23年 エヴァ・ヘレン・ミラーと結婚。

 25年 化学で学位を取得後ヨーロッパへ留学。ミュンヘン(ゾンマーフェルト)、コペンハーゲン(ボーア)、チューリッヒ(シュレーディンガー)で、当時、形成されつつあった量子力学を創設者たちから直接学ぶ。留学の間、母死去。

 27年 Cal Tecに新設された理論化学の助教授に就任。以後、1964年までCal Tecを拠点に研究・教育に携わる。Cal Tecの化学科を化学研究のメッカに育て上げる。

 30年 正教授に昇進。

 31年 化学結合を量子力学を用いて解明した画期的な論文を発表(化学と物理学の結合=物理化学)。

 39年 『化学結合論:分子と結晶の構造』出版。

 30年代後半からタンパク質(特にヘモグロビン)など生体分子の構造に関心を向ける(化学と生物学の結合=生化学、分子生物学)。

第二次大戦中 軍事研究に携わる(爆薬、酸素計、人工血漿など)

 47年 アメリカ化学会会長に就任。この頃から核実験反対運動・平和運動に積極的に参加。そのため、50年代には、マッカーシズムの攻撃対象となるが、断固として自らの主張を貫く。パスポートの発行を却下され、自由な海外旅行を制限される(研究活動に支障)。

 53年 DNAの「3重らせんモデル」を発表(間違い!!)。ワトソンとクリックの「2重らせんモデル」(1962年、ノーベル生理学・医学賞)に栄誉を譲る。

 54年 ノーベル化学賞受賞

 57年 『一般化学』出版。(大学の標準的な化学教科書)

 58年 核実験に反対する科学者1万人以上の署名を国連に提出。また、『ノーモアウォー』出版(邦訳1959年)。広島大学図書館には当時の学長森戸辰男に贈ったポーリングの署名本(1959年8月5日付け)が所蔵されている(資料参照)。

 60年 核実験反対運動に(対する共産主義者の関与に)関して議会に喚問。堂々と論戦。

 63年 部分的核実験禁止条約締結を機に、ノーベル平和賞受賞(1962年度分)。

    世界各地からの祝福に反してCal Tecは冷淡。ポーリングはCal Tecを去ることを決意。以後、民主主義制度研究センター、カリフォルニア大学サン・ディエゴ校、スタンフォード大学で研究。この間、ビタミンCの効能に関心を深める。

 70年 『ビタミンCと普通の風邪』出版。

 74年 協力者ロビンソンらと「体内成分調節医学研究所」(後に、ライナス・ポーリング科学医学研究所)を創設し、ビタミンCの効能の研究に没頭。ビタミンCの大量摂取が、風邪だけでなく、精神分裂病やガンにも効果があると主張したが、医学界からは概ね否定された。また、後年、ロビンソンと決別する。

 81年 妻エヴァ死去

 94年 ポーリング死去(93歳)。

     ポーリングは、生涯を通じて、約600篇の科学論文、約200篇の社会的・政治的論文を執筆し、さらに専門書、教科書、一般向けの著作を多数出版した。

 

☆ポーリングから学ぶこと

 境界を越える自信と勇気/批判や失敗を恐れない

 科学研究の中で:ほぼ10年ごとに研究テーマを変え、結晶化学から、物理化学へ、生化学・分子生物学へ、健康科学(医学)へと研究領域を広げた。

  科学研究を越えて:戦闘的自由主義者として、核実験反対運動、平和運動に関与。

 ポーリングの限界?

 自らの直観に確信(自信)をもっていたため、他者の批判を受け入れない。

  協力者(ロビンソンら)の存在と役割を軽視。

 

☆参考文献

L・ポーリング(丹羽訳)『ノーモアウォー』講談社、1959年。

L・ポーリング、池田大作『生命の世紀への探求』読売新聞社、1990年。

テッド・ゲーツェル、ベン・ゲーツェル(石館訳)『ポーリングの生涯:化学結合・平和運動・ビタミンC』朝日新聞社、1999年。