受講生の柴田さんからメールが届きました。(柴田-5

 今までこの授業で科学についての映画を見てきた。人間は賢く、いろいろな発見をし作ってきた。そのおかげで私たちの便利な生活は出来ている。しかし、賢くなりすぎたのではないかと私は思った。「アルジャーノンに花束を」や「キュリー夫妻」は科学の世界での名誉や国による張り合い女性に対する差別を描いた作品である。その科学の発見は私たちの生活に役立つものでもある。今よりももっと便利に、という考えからさらに研究を重ねその最終段階が人造人間ではないかと考える。人造人間を作ることがわるいことかと言われると私は悪いとは思わない。ただ人間はいつも人間主義である。機械は感情をもってはいけないと考える人が多いだろう。今回見てきた「フランケンシュタイン」でも「ブレードランナー」でも感情を持った人造人間を人間は受け入れてこなかった。受け入れないだけではなく、自らが作ったのに殺そうとする。もし、なんの感情もなく停止をするという場合ならあるが、感情を持ったものを殺すという行為をするのであれば私は人造人間を作るべきではないと考えた。ただ私の中では機械が感情を持つことは空想の世界にしかみえないので、ロボットを作るなとは言わない。

 今回考えたことは科学の発見はすばらしいが、入りすぎた()科学で人間そのものを変える行為はゆるされないことだと考えた。


受講生の柴田さんからメールが届きました。(柴田-4

 私はブレードランナーを見て、フランケンシュタイン・アルジャーノンに花束をに引き続き科学による人間の酷さを感じた。どの場面も酷く印象に残っているが、一番印象に残った場面は最後のラストシーンでデッカードを殺そうと思えば殺すことが出来たのに、殺さずに命をひきとったところである。解説の理由で「命を大切にしたかったのだろう」と言った言葉に、今まで自分も殺されようとしてまた、大切な仲間も殺されたのにどうして殺さないの・・・と思ってしまった。もし憎しみしかなく、また自分の命もあとわずかなときに大切な仲間を殺した奴がいたとしたら、私なら最後にそいつを殺してやりたいと思う。殺したところでどうにもならないのだが、そう行動してしまう人間は多いはずだ。テレビでも親や知り合いが殺されたとき、私が犯人を殺してやりたいという人も多い。

 その中でロイがデッカードを殺さなかったのは、ロイは死への恐怖を知った。また、何かしたい夢もあったと思う。デッカードもロイたちを追っているとき、また屋上から落ちそうになったとき死への恐ろしさを知り、必死に生きたいという心があるように描かれているように見えた。それがロイに伝わったのかもしれない。その生きたいという気持ちを、何かしたいことがあるのに決められた死を知ったロイは無駄にできなかったのではないか、と深読みかもしれないが私は考えた。

 この映画を見て一番考えさせられたところは人間とレプリカントの違いはなんなのか、である。私が考える違いは、寿命がわかっているかわかっていないかの差でしかないのではないかと考える。最初は感情もなくただ機械として作られた者かもしれないが、実際は感情も現れた。悲しみや愛情が表れたとき、それもまた機械になるのか。レプリカントは人間が作ったものだが、人間も細胞から作られて進化しただけの作られ者だと思う。それを感情があらわれたなどで殺されるのはいかに残酷なことをしているのだろう。この映画ではレプリカンとの方がいきいきと描かれており、人間のほうがなんの希望も夢も無くただ生きているというように描かれているように感じた。実際現代もどのくらいの人が生き生きと生きているだろうか。人造人間や科学の進歩を描くことにより、私には人々が何のために生きているのだろうか、死がどうゆう意味を持つのだろうか、生きている間にどのようにあなたは生きるのか、と言われているように感じた。このように思ったのは、最初の酸性雨によりどんよりした背景は人々の何の希望も持っていない心をあらわしているようで、最後の晴れた背景は意図人が夢や希望をもったようにみえたからだ。


受講生の柴田さんからメールが届きました。(柴田-3

アルジャーノンに花束を

 今回この映画を最後まで見て感じたことは、人間の科学技術は人間にとってどこまで踏み込んでもいいのだろうか、ということである。フランケンシュタインのときもそうであったが、人間を生み出すことや、また人間の生まれ持ったものでなはなく変えてしまうのは倫理的に考えてしても良い行為なのか考える。

 最初は主人公の障害者が出てきて、知能が低いために社会でのいじめや差別化をされていることが目に入った。実際、私たちの世界でよくあることである。大学での研究での知能を高める研究でマウスに脳手術をすることにより、マウスは目覚しい効果を挙げ今回は主人公よりの知能が勝った。確かに人間の感情で、マウスに負けることは悔しいことであり、知能が伸びることを望むかもしれない。実際に私も頭がいい人はうらやましいから。しかし、急にのびた知能により生まれる感情によるとまどい、それまで感じなかったことに関する苦しみ・悲しみという感情があるなら高い知能などいらないという人ももしかしたらいるかもしれない。また、今回に関しては完全なる人体実験であり、その脳実験がマウスに成功したのでもなく、人間に成功するかもわからない状態で実験を行うのは許される行為ではないと考える。さらに私は人間の病気を治すために行われる動物実験が好きではない。確かに今までその動物実験があったからこそ今現在たくさんの医療品や人間の病気が治るようになっているが、なぜなんの病気でもない動物が実験で死ななければならないのだろうかと考えるとどうしても、胸が痛い。名声を得るための人体実験ほど醜いものはない。今回の実験ではすでにマウスが失敗しているにも関わらずそれを隠してまで名誉を手に入れようとした。とても醜い。映画での主人公のセリフ「私のこれからの未来がわかりますか?」というシーンで、これから知能が落ちていくのがわかっていてまた今までのような暮らしになると考えるとどれほど苦しかっただろうか。一回高い知能を手に入れ、恋という感情を手にいれ幸せな時を過ごしていたのに、低い知能のときのことを考えもう今のようには過ごせないと低い知能になるまでの間ずっと苦しまなければならない。また、失敗である人体実験を論証する論文が正しかったとき、どれほど絶望しただろうか。フランケンシュタインのとき同様、科学者は実験される側のことも考えてこれからの新たな実験をしなければならないと考える。


受講生の柴田さんからメールが届きました。(柴田-2

 今回「キュリー夫妻 その愛と情熱」という映画を見た。

 私はマリーキュリーもピエールキュリーも聞いたことがなかったので、想像とかはなくただ先生が初めに配っていただいたプリントから頭の中で、マリーキュリーはとても研究熱心で寝ることも惜しんで家事や育児をして理想の女性のイメージがあった。しかし、実際映画でのマリーキュリーは家事や育児は家政婦に任せて科学の追及だけに熱心な女性のように描かれていたように思える。仕事熱心な女性はどこにでもいるので、私はこの映画ではマリーキュリーに憧れるとは思わなった。この映画で伝えたかったことは、女性でも熱心に取り組めばノーベル賞もニれるということや、科学の世界で女性差別はなくなったということなのだろうか。映画の途中で国籍が他国だとどうとか女性だから・・・という内容があり最後にはノーベル賞をとり歴史に残る名誉が与えられた。ということしか伝わらなかった。

 また、映画の中でウラン以外に未知の物質(バリウム)を見つけたのは使用人のおかげではないのかと感じたが、実際それ以上使用人がでてくることもなく、手柄は研究をしたピエールとマリーだけならどうなのかと思う。19世紀は国対抗で科学の発見を競っていたと書いてあるが実際今も国でも争っているのではないかと感じた。たとえばテレビでノーベル賞に選ばれた人が日本人であれば大々的に取りあげられ、名誉を与えられていると私は思った。映画の中で名誉を求める科学者と金儲けのための科学者との対立も見られたが実際にどっちがすばらしい科学者かと言われたら、私はどちらも素晴らしい科学者だと思う。

 私たちが日常使うようなものを発見する科学者がいなければ今の便利な生活はできておらず、まだ世界は進歩していなかったと思うからです。

 前回と今回で科学の映画を見たが、このような科学者達を見ると本当に自分は世の中に何も貢献していない小さな人間だと感じた。


受講生の柴田さんからメールが届きました。(柴田-1

「フランケンシュタイン」という映画を見て

 私はフランケンシュタインと言えば、真っ青で四角な顔で頭に釘がささっているイメージがありました。しかし実際は、博士のほうがフランケンシュタインで世の中の一般的なイメージとは少し違って驚きました。

 フランケンシュタインは家族思いで、いきすぎた愛情が人の死を受け止めることができず、踏み込んではいけない科学の世界に入ってしまった。人間は物事を考えることができ、感情がある。そのなかでどこまでが許されることで、どこまでが許されないのだろうか。私が思うには、科学者は好奇心が高い人間でその好奇心や思いつきがこれまで人類に与えてきた影響は大きい。ゆえに科学は追求できることまで追及をすればいいと思う。しかし、それは本人やものだけであって他の人を巻き込゙ような科学の発展は許されるべきでないと思う。

 今回のこの映画は人間の強欲な感情がモンスターを生んでしまった。そのモンスターにも私たちと同じような感情があり、しかし人間ではないということで感情は受け止められず人間は差別をした。確かに私が今ここでモンスターを見たらおびえるかもしれない。では、人間とこのモンスターの違いとはなんなんだろうか。ただお母さんのおなかの中から生まれてきたか、そうでないかの違いしかないと考えた。

 今回の映画でわかる実存主義、どうして私が存在するのか。これに答えはない、偶然地球ができ、人類が出来、今この時代に私が存在する。ただこのすごい偶然で私は今生きていると思っている。