書評(10)

 

『進化論を拒む人々−−現代カリフォルニアの創造論運動』鵜浦裕(勁草書房、一九九八年)

 他の多くの面と同様、科学技術の面でも世界をリードしているアメリカで、国民の約半数はダーウィン流の生物進化論を認めていない、という驚くべき事実がある(本書、三三−三六頁)。これらの人々は、人間(ヒト)の起源について、「聖書」の記述に依拠した「神による創造」という見解(「創造論」)を支持しているのである。明治期に進化論が紹介されるや否や、何の疑問も抱かず、素直に受け入れた(信じた?)日本人とは違って、何という「頑固さ」だろう。

 著者は、創造論者たちの研究・教育上の拠点である「創造研究所」を訪問調査するなど、具体例にそくして、現代アメリカにおける進化論と創造論のせめぎ合いの現状とそこから生じている混乱を詳細に報告している。現代アメリカの一断面がここにある。

 著者は「科学的な進化論」の側に立って、「非科学的な創造論」を奉ずる人々を論難する、という立場をとっていない(かにみえる)。このスタンスは、一部の人々には不満かもしれないが、本書の価値をむしろ高めているように思う。

『OLたちのレジスタンス−−サラリーマンとOLのパワーゲーム』小笠原裕子(中公新書、一九九八年)

 著者の定義によれば、「OLとは、正社員として、現在及び将来にわたって管理的責任を持たずに、深い専門的もしくは技術的知識を必要としない一般事務的、もしくは補助的業務を行う女性」ということである(本書一○頁)。この定義にあるように、責任を与えられず、補助的業務に甘んぜざるを得ないOLたちではあるが、彼女たちの存在と労働がなければ、サラリーマンの仕事は、あるいは企業の業務はたちまち滞ってしまう。ここにOLたちの「レジスタンス」の可能性が生じる。換言すれば、サラリーマンにとって、仕事を進めていく上でも、出世競争に勝ち抜くためにも、OLたちの協力が不可欠なのである。OLたちのレジスタンスをくらったら身の破滅なのである。両者の間に微妙なパワーゲーム(かけひき)が成立するゆえんである。この辺の事情は、『週刊文春』で評判になり、NHKでTVドラマ化された「おじさん改造講座」で活写された通りである。

 OLの経験もある著者の分析はまことに周到で、ずいぶん勉強になったが、「自分は一般企業のサラリーマンではなく、大学に勤めていて本当に良かった」というのが偽らざる感想である。

『本音のクルマ選び'99』(別冊宝島四一九号、一九九九年)

 つい先年、自動車運転免許を取得した。ドライバーとしては先輩の妻から古い自動車を譲り受けて乗っている。そのうち買い換えねばならないと思っていた矢先、目にとまったのが本書である。タイトルに「本音の」とあるのは、具体的・個別的に「この自動車はいい、悪い」という評価が下されていることを意味している。百点満点で採点までしてある。最低は9点、最高(メルセデス・ベンツEクラス)は81点である。いかにも参考になりそうだが、本書の執筆者=評者たちの自動車に対する価値観が「ヨーロッパ車こそ、本当の自動車だ」というところにあるので、実際のところあまり参考にならない。

 確かに、本書の評価項目の中に「バリュー・フォア・マネー」はあるのだが、それは評価全体の十分の一を占めるにすぎない。しかし、よほどのカーマニアでなければ、クルマ選びの中で最も重要なポイントは価格ではなかろうか。もちろん、本書の執筆者たちは「クルマを値段中心に選ぶなんて、クルマとはどういうものか、分かっていない!」と怒る、ないしは嘆くだろうが。

 昨今、大学でも学生による授業評価が始まっている。そのうち、われわれ教師一人一人が百点満点で評価されるようになるかもしれない。その際、どのような基準で評価・採点するか。クルマの場合よりも難しいことは間違いない。


『不死鳥』第38号(1999年3月)