塚原修一・小林信一(共著)『日本の研究者養成』玉川大学出版部、1996年、346頁。

 タイムリーな書物である。
 1991年、文部省は大学・高等教育政策の大幅な手直しに踏み切ったが、その重要課題の 一つは大学院の整備拡充である。言うまでもなく、研究者の大半は大学院で養成されてい る。また、1995年、科学技術基本法が制定され、我が国は科学技術立国を目指すことを内 外に宣言したが、その実現には大量のそして優秀な研究者が不可欠である。かくて、研究 者養成という課題は、1990年代の我が国の学術行政と科学技術行政の要(かなめ)となっ ているといえよう−−研究者養成のあり方、規模、問題点などを見極めることが、今後の 学術政策と科学技術政策を実りあるものにするための出発点なのである。
 タイムリーな書物といえば、新聞や雑誌の記事をかき集めた「きわもの」めいた軽薄な 書物を連想する向きもあるかもしれないが、本書は、その手のものとは無縁の労作である。 すなわち、本書の根幹をなしているのは「9件の社会調査による、のべ1万4千人」のデ ータである(本書、2頁)。著者たちの実施した9件の社会調査は、1980年代を中心に、 最も古いもので1976年、最も新しいものは1992年に実施されており、あしかけ16年におよ ぶ著者たちの地道な研究の成果が本書に集約されているわけである。怠惰な評者は、社会 調査などやったことはない。しかし、社会調査が準備段階から結果のとりまとめまで、ど れほど膨大なエネルギーと時間を(おそらくは費用も)要求するものであるかくらいの見 当はつく。本書は、A5判で300頁をはるかに越える大著だが、この書物の背後には、その数 十倍いや数百倍もの調査票と、これら大量のデータを分析・検討した著者たちの長年の労 苦が存在していることになる。
 さて、研究者養成というが、そもそも「研究者」とは一体誰か。評者は、本書を読んで 初めて知って驚いたのだが、各種の統計で「研究者」の定義もしくは範囲が異なるのであ る。著者たちは、国勢調査、科学技術研究調査、学校基本調査・学校教員統計調査を周到 に比較検討したうえで、1880年から1995年に至る「日本の研究者数」を一覧表にまとめて いる(41-2頁)。この表を作成するだけでも相当の根気と時間と作業量を要したであろう と推察されるが、約百年にわたる研究者数の変遷を一望することによって、近代日本の歩 みの一断面を見通すことができ興趣が尽きない。
 とはいえ、著者たちの主たる関心は歴史よりも現代に、さらには将来の予測にある。換 言すれば、著者たちの研究の背後には、強い政策的関心がある。かくて、第3章では2000 年および2010年における研究者の需給予測がなされている。いくつものモデルについて詳 細で周到な予測がなされているが、1996年になされた最新の予測では、「博士修了の研究 者が供給超過となる可能性が高い」(83頁)ということである。
 研究者需給が超過するか不足するかという問題は、企業研究所、国公立研究所、大学 (産・官・学)といったセクター間の、あるいは一定のサイクルで消長する専門分野間の 研究者の移動がスムーズに行われるかどうか、という問題と密接に関連している。もし、 超過した部分から不足の部分へと移動がスムーズに行われるなら、問題の深刻化は予め回 避できるからである。本書の第5章から9章が、もっぱら研究者の移動(配置転換や転職 も含めて)の解明にあてられているのはそのためである。忖度(そんたく)するに、著者 たち自身が、それぞれのキャリアの中で、多かれ少なかれ専門分野を移動した経験を有す るからであろうか、研究者の移動問題についての調査とその分析は、本書の中でも特に周 到で熱のこもったものとなっている(かくいう評者自身、専門分野移動経験者である)。
 著者たちは第9章「大学における研究者の流動化」で、研究者の流動化のメリットとデ メリットについて、配慮の行き届いた論議を展開しているが、前述のように、本書全体を 通じての著者たちの基本的スタンスは流動化の推進(換言すれば、流動化に伴う弊害の除 去)にあると考えられる。その意味で、現在、政治的に多くの論議を呼んでいる、大学な どの研究者に対する「任期制の導入」をめぐる論議に、本書は大きな影響を及ぼさずには いないだろう。この意味でも本書はタイムリーである。政策科学としての「社会工学」を 専攻する著者たちの面目躍如というところである。最終章「研究者養成のあり方」には、 著者たちの「結論と提言」がまとめられている。多忙な読者には有り難いだろう。


『IDE 現代の高等教育』No.390(1997年9月号), 64-5頁.