森際康友編『知識という環境』名古屋大学出版会、1996年、278頁。

 分析哲学の世界では「知識とは正当化された真なる信念である」とする個人主義的な知識観が 長年まかり通ってきたという(本書、2−3頁)。本書に寄稿している7人の著者たちに共通 しているのは、このような伝統的な知識観を根底から批判し、できるだけ早く葬り去ることが 現代哲学のあるいは現代に生きる哲学者の最重要課題であるとする問題意識である。このよう な問題意識は、科学という営みとその所産としての科学知識を社会的・歴史的文脈の中で捉え ようと努めてきた評者にとっても共鳴できるものである。
 それでは、伝統的知識観に取って替わるべき新しい知識観とはどのようなものだろうか。編 者の言葉によれば、「知識を私たちの環境世界の不可欠の一部をなす生活システム、ある意味 で生態系の一部である、とする」(9頁)ような知識観である。別な言い方をすれば「場とし ての知識」ということになる。すなわち、「道具としての知識と異なり、場としての知識は手 段ではない。知識は自分の置かれている場を定義する重要な要素となると同時に、その場その ものとなるのである。こうした場としての知識の一翼を担うからこそ、個別的な人間的知識は、 その場を自己の選好にしたがってより効用の高いものにしていく際の手段としてだけでなく、 場所としても機能するのである。このような知識観をここでは〈知識という環境〉と呼んだ」 (256頁)というわけである。やや奇異な感じを与える本書のタイトルには著者たちの最も 基本的なメッセージが込められているのである。
 7人の著者たちは、「場としての知識」あるいは「知識という環境」という知識観では共通 の認識に立っている。しかし、それぞれが自らの知識観を展開する具体的な視点・戦略におい ては、まさしく「7人の哲学者がいれば7つの哲学がある」という状況になる。とはいえ、本 書は単に7人の論文を適当に編集したいわゆる論文集ではない。というのも、各論文には、そ れぞれに別の論者による痛烈な「批判」が寄せられており、その批判に対して、原著者による さらに痛烈な「応答」がなされているからである。このやりとりを通じて論点が一層明確にな るのは当然であろう。著者と批判者のやりとりは、まさに丁々発止と言うべきで、評者のよう な哲学音痴も思わず唸ってしまう見事さである。著者たちが、研究室や小さな会議室で、ある いは居酒屋で、時間を忘れて「知識とは何か」をめぐって論争している場面が目に浮かび、読 者は自分もその場に居合わせているような気分を味わうことができる。各論文に「批判」と 「応答」を付すという本書の試みは、多くの読者にとって本書を近付きやすいものしていると いえよう。
 編者「あとがき」によれば、本書は約10年前から始まった研究会の所産であるという。10 年にもおよぶ著者たちの切磋琢磨と人間的交流の蓄積があってこそ、遠慮会釈のない批判の応 酬とその結果としての本書のような知的実りが可能になったのであろう。
 翻って考えるに、われわれの周囲にはこのような知的な切磋琢磨や人間的交流が果たしてあ るだろうか。「大学」という場ないし制度は、本来そのためにこそあったのではないか。しか るに昨今の大学は、われわれがよく知っているように、目の回るような忙しさの中にある。そ の結果、ややもすれば、研究も教育も単なる仕事、さらに言えば義務でしかなくなってしまい がちで、学問する「歓び」を忘れてしまいそうになる。少なくとも評者は自らがそうなってい ることを認めざるを得ない。しかし、本書を通じて、「知識という環境」が最も濃密に存在し ている大学に自分がいることの意義を再認識することができた。一見、哲学の専門書のような 本書を、あえて『大学論集』で紹介しようとされた編集担当者の慧眼に敬意を表する次第であ る。


『大学論集』(広島大学大学教育研究センター)、第27集(1997年度)、p.194.