書評:R.B.フラー『クリティカル・パス』梶川泰司訳,

白揚社,1998年,617頁.


 著者のバックミンスター・フラーの名を聞いたことのない人は,今では多いかもし

れない。

 本書でフラー自身が言及しているように,読売・日本TVグループの総帥だった故

正力松太郎氏が彼の後援者だったという事情もあって,日本のマスコミでもフラー・

ドームが話題になったことがあった。だが,フラーが亡くなってすでに15年たち,今

や,彼を論ずる人はもちろん,知る人もそう多くはないのではないか,というのが評

者の印象である。

 しかしフラーの思想は現代に生きている。本書を開けばすぐわかるように,フラー

は「宇宙船地球号」「生命圏」「エコロジー」「衛星TV」などといった,今まさに

,私たちが利用している多くの技術システムを構想し,私たちが直面している重要な

課題の存在をいち早く指摘していた。また,フラーが(そういう用語を使っているわ

けではないが,内容的には)「インターネット」を構想していたことも間違いない。

その意味で,フラーは生きている,あるいは彼を知らないものはいない,と言えるだ

ろう。

 たとえば,「宇宙船地球号」というコンセプトについていえば,フラーは早くも

1963年に『宇宙船「地球号」操縦マニュアル』という書物を出版している。もっとも

,フラーにとって「宇宙船地球号」というコンセプトは,「成長の限界」を示唆する

消極的な概念ではなく,むしろきわめて積極的なものである。

 フラーの基本的なメッセージは,「もし現在までに科学によって発見された宇宙を

支配している物理的諸法則が,投資される原料の単位重量当たり,単位エネルギー当

たり,そして単位時間当たりの性能がずっとすぐれている生産活動に使用されるなら

,どの人間もかつて経験したことのない高い生活水準で全人類を生活させることがで

きる−−しかも持続可能な形で」(219ページ)というものなのである。彼の視野は

,惑星地球を越え,はるか宇宙全体へと広がっているのだ。

 実際,彼の考えは,「1900年の時点で人類の99%が置かれていた貧困レベルから,

(1980年までに)全人類の60%を20世紀以前のどの王様,君主またはその他の権力者

たちが享受していたよりも高い生活水準へ押し上げた」(227ページ)というまぎれ

もない事実によって証明された。

 そのような豊かな可能性を阻むものがある。それは「世界権力機構」としての主権

国家であり,「貪欲な法律家資本主義」である,というのがフラーの分析である。

 本書の前半を成すこの分析は,一般読者にとって必ずしもわかりやすいものではな

く,また,説得的でもないように評者には思われた。フラーの真骨頂は,政治学,歴

史学,経済学にあるのではなく,やはり彼のいう「デザインサイエンス革命」を遂行

するための具体的・技術的な提案にあり,本書の後半には彼の独創的なアイデアがあ

ふれている。

 とはいえ,正力氏から依頼があったという高さ3700mの東京タワーの図面(507〜

508ページ)や,「海に浮かぶ都市」「浮遊する球体」(502〜503ページ)といった

空想的な図に象徴されるフラーの技術至上主義にはいささか辟易させられる。また,

個人的な趣味で言えば,いかに量産可能で合理的な住居だと言われても,「8メート

ル径のフライズアイ・ドーム」(471ページ)に住みたいとは思わない。

 しかしそれは,天才の考えは,凡人・俗物には理解しがたいということなのかもし

れない。


『日経サイエンス』1999年4月号,154頁.