受講生の高田さんからメールが届きました。(高田-5

 鉄腕アトムの第一話をみて、こんな始まりとは知らず驚いた。アトムといえば、博士によって生み出された少年ロボットが人々のために活躍する明るい話のようなイメージだったのだ。しかし、第一話では人間の男の子トビオが死んでしまい、その子の代わりにというよりその子を生き返らせるつもりで作られたのがアトムであった。アトムはトビオとして一生懸命お父さんである博士のために頑張るが、トビオとしてアトムを扱っていた博士は思い通りに成長しないアトムに腹をたて、売り飛ばす。やはりここでもフランケンシュタインやブレードランナーのような作り出した側の身勝手さを感じる。勝手に作り出しておいて、いらなくなったら排除してしまうのである。心をもつアトムはお父さんとして慕っていた博士に売り飛ばされ悲しむ。本当の人間であったなら許されないであろうことが、ロボットだから許されてしまう。売り飛ばされたさきでも団長からひどい仕打ちをうけるが、それでもアトムは優しい心をもちつづけ、壊れた建物の中からちゃんと団長を救い出す。ある意味人間より優しい心を持つロボットであるアトムは、この授業で見た映画の中の自分勝手な人間にとって理想のロボットなのかもしれない。


受講生の高田さんからメールが届きました。(高田-4

 この映画は実は見た事があった。しかし、一度見ただけでは理解しきれない事や見落としがたくさんあり、また、私が見たのにはなかったシーンがあった。(私が見たバージョンには最後に二人が自然の中を車で走り抜けるシーンはなかった。)二度見たが、二度とも抱いた疑問は、デッカードはレプリカントであるかというものである。レプリカントであるとするならば、レプリカントをレプリカントに殺させるという残酷な話である。自分たちの寿命を知り、長生きしたいと訴えるレプリカントたちの願いはそんなに悪いものとは思えない。もし自分はレプリカントではないかと考え、そうであったならば、寿命が決められていることは嫌だと感じるだろう。授業資料のように考えると、未来に明確に望むものがあるのかというとそこまで強く意思があるわけではないが、今自分が関わっている人々との関係を決められた期間で断ち切られるのは嫌だし、健康な体であるならなおさら自分の行動を死によって制限されるのは嫌である。感情を持ち始めたレプリカントたちは人間に反抗してくる可能性があるため危険であると決めつけすぐ排除しようとするのは人間の勝手である。この映画を見る限り、授業資料の中にもあったように、デッカードは自分の命が危険にさらされたため正当防衛としてレプリカントたちを殺しているので、反抗するレプリカントたちをどんどん殺しているような印象は受けにくいが、ブレードランナーの仕事はそれである。勝手に作り出しておいて、いらなくなったら排除する、というのはまるでフランケンシュタインのようである。もちろん、放っておけば人間が危害を加えられる場合、何らかの対処は必要かもしれない。しかし、作ったものだからといって、人間ではないからといって、少なくとも感情をもつものや命をもつものを排除していくことには違和感をおぼえる。この映画にはストーリー自体にも、題材にも、様々なものに深く考えさせられるところがある。


受講生の高田さんからメールが届きました。(高田-3

 この話が以前日本でドラマ化されたとき少し見た事があったのでおおまかなあらすじは知っていたが、以前見た時とは違う感想を持った。以前は、チャーリーが一度得た高い知能を失ってしまうとき、もう一度頭がよくなる方法はないのか、ずっと頭がいいままいられればいいのに、と感じた。しかし今回は、そもそもチャーリーは頭が良くなって本当に幸せだったのだろうか、という考えにいきついた。つまり、チャーリーの知能を高める手術というものが本当にいいものなのかどうかというところに疑問を感じたのである。これは、フランケンシュタインの時のように、死んだ人を生き返らせることはいいことなのか、という疑問と通じるものがあるように思う。チャーリーは頭が良くなったがために、自分の能力がやがては失われてしまうことを知り、以前のような自分に戻りたくないと恐怖を感じていた。まるで別の人を見るかのように、以前の自分を否定していた。それではチャーリーをいじめていた人たちと同じになってしまうのではないだろうか。しかしチャーリーはそうして別の立場に立って自分を見つめることができた、とも言える。それにより、人々から以前の自分がどのように見えるのかを体感でき、からかわれている人に手を差し伸べることができたのだ。また、授業資料の最後に載っているチャーリーの手紙には、チャーリーが本を読んだときいい気分だったという気持ちがつづられている。頭が良くなりそしてまたもとに戻ったこと、それはチャーリーにとって良かったことなのかどうか、この手紙を読むと分からなくなる。


受講生の高田さんからメールが届きました。(高田-2

 キュリー夫人についての伝記のようなものを小学校のときに何気なく手に取り読んだことがある。読書の時間に読むための本として選んだだけであったが、今でも内容を覚えている。それは、それまで名前しか知らなかった人がどんな人か初めて知った印象の強さもあるが、勉強や研究に他のものを犠牲にしてでも向かう彼女の姿や、彼女を襲う様々な試練が印象的だったこともあるだろう。そしてその時覚えていた本の内容が、今回授業で見た映画の中にたくさん出てきたので、映画の内容はすんなりと頭に入ってきた。キュリー夫人といえば勤勉で潔癖な女性という固いイメージがあったのだが、映画の中の彼女は少し違って見えた。もっとユーモアを持ち合わせているような、柔らかいところもあるように見えたのだ。また、彼女がピエールに出会ってからラジウムを発見するまでの話しか描かれていなかったため、パリへ出てくるまでの苦労やピエールの死などのつらさがなく、そのぶんラジウムを発見するまでの研究のつらさが描かれていたように感じた。


受講生の高田さんからメールが届きました。(高田-1

「フランケンシュタインを見て」

  フランケンシュタインがモンスターではなく、そのモンスターをつくった人の名前だということは知っていたし、あらすじをきいたことはあった。しかし実際に映画を見て、ただ恐ろしいモンスターをつくりだしてしまったという話ではないと強く感じた。死から逃れたいと考えたフランケンシュタイン博士が人を生き返らせる方法を見つけようとした気持ちは理解できなくはないが、やはり死を受け入れるべきではないかと思う。なぜなら、生き返らされた人が本当に幸せかどうかと考えたとき、モンスターの気持ちやエリザベスの気持ちは生き返りたいと思っていなかったと思うからだ。

  また、あんなに残虐なことを行ったモンスターが、最後にフランケンシュタイン博士を失ったとき悲しむ姿を見て、人間と同じように心を持っているのに、あまりにひどい仕打ちを受けたために惨劇をひきおこしてしまったモンスターを可哀想に感じた。