受講生の高木さんからメールが届きました。(高木-8

.テレビアニメの先駆者であり、現代の日本のアニメ業界の礎を作った作品「鉄腕アトム」は、アニメ作品単体としての出来はかなりの純度を保っていたものと思われる。と言うのも、現在のアニメ作品と異なり、千差万別の多様性の中から生まれたものではなくその存在自体が希有である故に外部からの商業的圧力が小さく済んだからである。また、その先駆性は視聴者からの反応をあてにできない。そういう意味では「鉄腕アトム」は視聴者への迎合を図ることができない中、もしくはそういう概念自体が存在しない中で自立していた。

 しかしながら、それは同時に「明らかに善であろう」という憶測を根底に持つ話を流す必要性に駆られる。倫理、道徳を外した話を流すのではアニメに対する判断を決めかねる当時の視聴者の気分を害しかねない。アニメは子供が見るものという先入観が大人を潔癖にし、問題があろうものなら即刻それを排斥せねばなるまいと思わせる。したがって、有りもしない批判を考慮に入れ、制作には細心の注意を払う事になる。

 これは自浄作用の様に見えて実はそうではない。確かにこれはその社会に適合する形を取るだろう。しかし、社会に適する事が即ち善であると考える事は極めて独善的である。社会に対する善の履行や阿りは体制への受動的な肯定であり体制側の非を覆い隠す事になる。だが、このような経緯を持った「鉄腕アトム」が当初から当時の社会風潮に逆らっては市民権を確保する事は不可能であった。吟味を受ける前に危険分子として愛想を尽かされてしまえばそこまでであり(所詮、必需ではなく娯楽であるので)、存在しない権力主体に対して自らを同調させる事で所謂良い子になる。主人公のアトムが良い子である事はここに依拠する。

 そこに主体は存在しない。そもそもsubjectという単語は臣下や従属を意味するものであったが文法用語では主語を表す。主客の転倒は現代社会で顕著であるが、本人はあくまで主体的な判断を行っていると思っているが実際は従属主体化と呼ばれる状況にある。自らの行為が監視されているものとして自主的に規範に従う事を覚える事で初めて社会に適応するものとされ、自立したものとされる。

 当時、科学に対する無批判な称賛が社会には溢れていたのだろう。故に作品が科学を礼讃する風潮になる事は否めない。善である科学は必ず遂行されるべきであるという考えが見えざる権威を生みだし、人間は再びその元で自立する為にその権威を自己に取り込んで主体化しようとする。この権威と価値の再生産は人間が集団社会(特に資本主義社会、民主主義社会)で生きる限りは常に付きまとう。一度社会的に是とされた考え方は中々転換出来ない。特に科学には実績があるからなおさらである。科学技術が科学技術の欠点を隠蔽する体質はもう一度壊滅的な災厄を全世界にもたらさなければ暴かれないだろう。それを同じ地盤を持つ技術でサポートしても問題を複雑化させるだけで解決にはならない。何故なら人間の理性は社会に適合して悪を行う事に長けているからである。逆に言えば人間の欲望の形を社会が小賢しく形成し、統制しているとも言える。

 実現不可能だから美しいと西垣氏は述べていたが正にその通りである。ただ、それは技術の限界や人間の個人的な負の感情の欠如からそうなるのではなく、実在しないからこそ人間が勝手な思想で推し進めた善の極みの影響を受けているのであり、バラ色の妄想の極みとして描かれるからなのだ。

 私個人としては善の極みそのものとしてのアトムが生まれてもそれを醜いとは思わない。ただ、人間にそれを強要する社会構造が醜いのである。人間にはそれは不可能であるのだから。

 

2.作品の中で描かれる科学は多くは否定的に描かれる。これは現代社会への警鐘としてのやり玉とされているのだが、科学の持つ威力が大き過ぎる、目に見えて危機感をそそる点が理由として挙げられるだろう。

 科学は社会における人間の欲望表出の一形態である。ファッションやブームと同列に配す事も可能ではある。

 だが、科学が持つ力は人間の観念の枠組みを変化させる事が出来るからこそその担い手である科学者が危険であるという見方が特に発生する。政治や国家における革命と同種の力を文明に対して持つものが科学であるからだ。天文学で感光板に輝く光を冥王星や海王星であると決められるのは何故か。計算が導きだした軌道から逸れていても、法則を拡大し、新たな計算と技術の発達をもってしてその光を目的の星である事を確認する為に認識と観念の枠組みを変化させる事が科学(実証主義)には出来るからである。

 生命倫理に新たな枠組みを生みだすのも延命処置技術の発達によるものである。

 そうして社会の枠組みを変化させる人間が科学者であり、極端な方向性は誤った方向へ社会を導きかねないという危惧が有るのだろう。

 科学に倫理は持ち込めない。それはあくまで技術であるので問題はそれの使い方である。ただ、この様な論議は手垢が付き過ぎている。解決されないのは社会の要請(動物としての人間の要請では決してない)に応じて富の拡大を支えているか、あるいは職業化してしまっているからである。経済が存在する限り科学の付加価値は無限に求められる事になる。故に科学の無い社会は有り得ず、社会の無い科学も最早無い。人間個人の倫理観がどうこう出来る領域にまで科学は聖化している。

 だからこそ、物語で述べなくてはならないが、見る側にそれを感じ取ろうとする意図がなければ所詮、それも商売の段階に足踏みを続けるだろうと思った。


受講生の高木さんからメールが届きました。(高木-7

 「ブレードランナー」を観終わったが、最後にロイがデッカードを助けたシーンがあるが、当然あの高さから落ちればデッカードは死ぬ訳であり、ロイは仲間を殺している男の命を救った事になる。勿論ロイもそれを分かって助けているのであるがその理由は恐らく、レプリカント故だろう。

 と言うのも、生存年数が始めから決まっているレプリカントは死について常に考え続けて生きており、生が奪われる事を恐れ、一方、短い生故、死が与える生の意味を知らなかったと言う事である。

 人間であれば死の持つ両面の意味、可能性の剥奪と生の価値を高めるものであるという事の前者はレプリカントと同じく分かるところである。それは動物にも存在する思考であり、肉体的な保持を求めるという本能といってもよいだろう。生を慮って生きるというのは自らが未来への可能性を持ちながら、瞬間を生きているものであるという知的な意識の前に、単なる動物的な生への欲求が有るのだと思う。

 しかし、人間に備わる知性は目の前にある事柄を超えて精査する事が出来る。時間を隔てた事象を理解する事が出来るのである。それは愚直な現前する生存の保持に対する疑問すら与え、その終末としての死が生に与える価値化という作用も分かる。

 だが、人間と言っても矢張り、生きていたいものである。ロイは理性より本能を選択する存在として配置されていたのだろう。だから単純にデッカードを助けるのである。死の恐ろしさを身をもって知っている彼は生がそれによって輝くなどとは思わないし、それを求めもしない。何故なら、死の後に生は体験できないからである。

 死ぬと分かっているからこそ生を求め、死を恐れるという本能が鎌首をもたげるが、それは全ての人間に共通である。避ける事が出来ないのでそれを恐れない方法を見つける事が出来るのが人間だが、レプリカントは余りにも短く、そして突然、自分が死ぬという事を知り過ぎたのだと思った。


受講生の高木さんからメールが届きました。(高木-6

 「死の意味が解る」というテーマで「ブレードランナー」を見ていくと、レプリカント達は死を恐怖するが故に死を避けている存在として強く書かれている。死ぬ事は人生を終結させる事であり、人生が途切れる事は本来唾棄すべきことである。背景として生きている事を無条件に寿いでいると資料にはある。

 内容は若干異なるが、これは人間にもある神の国思想や宗教観にも結び付く。現世での行いの結果、けがれたこの世を離れ、死後は絶対幸福の国へ魂が行き、そこで永遠に過ごすと言う考えがキリスト教にはある。恐らく、死ぬが故に生は不幸であるとし、その後は永久不変の真理と一体化した魂で死の無い生が求められていたのだろう。

 確かに死ぬと言う事は当人の未来へ向かう意図を奪う事であり、何かしらの欲求や目論見が無条件で剥奪されるとは言える。未来への期待が高いものほど剥奪されるものが増えるというのも当然である。

 だが、それは人間は現在、あらゆるものを意図できるという意味であり、それは人間個々を表し得ない。

 また、ここで終わりがない存在を考えてみる事にする。

 永遠に終わりがないのならば人間の全体は出現しえず、変化の経過をたどる事は出来ない。また、そうなると死に対する意味での生の意味が希薄になる事は目に見えているだろう。死が有るから、生が美化され、生に価値が生まれ、死を恐れる様になるのである。

 資料でも上げられたハイデッガーを持ちだせば死とは他人とはとってかわる事が出来ない一人ひとりの人間固有のものであり、その根拠の無い生に不安を感じ、取りかえ可能な現在を失う事で初めて人間は存在している。

 要は生きる事は終わりが有るから輝くと考えられる。そして、その全員死ぬという不条理かつ平等な事実に対して受け入れ、現在を生きる事が重要になるのであると思った。


受講生の高木さんからメールが届きました。(高木-5

 映画「ブレードランナー」を見始めたが、今となっては有り触れた方法でテーマを主張しようというものである。

 最近は人間じみたものから人間を問い直す作品が大挙をなして製作されている。ある種のブームとも言えるだろう。

 何故受けるのか。それは人間自身も科学の可能性と危険性に気付き出したからであろう。SFではそれを端的に示す事が可能である。似た様なテーマだが共存�描いたものに「アイロボット」という作品もあった。いずれも科学社会の二面性を示している。作品の雰囲気も決して明るいものではなく、ディオニュソス的であると言えばそうだろう。人間が何かというよりは、それが何をするのかという方がこのシステマティックな社会では重要視される。功利主義や実践主義の中で人間は疲弊していく。だから、そのカウンターとして受け入れられる。

 この様な作品も、個的なレプリカントやロボットの苦悩やそれに対する人間の傲慢に目線が行きがちだが、それが生み出される背景の方を注目して見てみたい。理想論と方法論のどちらに主眼を置くかのちがいである。

 と言うのも、どれだけ人間とは何かと考えたところで科学信仰は止まらないからである。悲劇を見て嘆いたところでそれに対する行為は知れている。嘆かわしい現実を見て同情するのでは、矢張り効率性と手段が目的となった科学に吸収される(例えば前回の「アルジャーノンに花束を」ならば完全な治療を開発すれば良いのであり、また、他の悲劇も科学技術さえあれば命が救えるとも取れる)。

 死をほのめかす悲劇は確実に科学や医療、技術の発展に与している。それ自体が問題ではない。そこにつきまとう利益と残酷さの隠蔽が問題にされるべきなのである。

 「ブレードランナー」は、ではどうするか、という次元を意識して鑑賞したいと思った。


受講生の高木さんからメールが届きました。(高木-4

 「アルジャーノンに花束を」の映画を見た時に、何も意識しないか或いは思索の意図が無い状態ならば恐らく、チャーリィの悲しい物語としか思わないだろう。

 仮にそうならば、チャーリィが手術後に知性の退化が起こらなければ、この物語が問題提起する点は無いと言えるだろう。

 しかし、科学とそれに携わる人間達について考えると他の見方が出来る。

 人間はただ生きる事を望むのではない。良く生きる事を目的にする生き物である事は周知の事である。それが動物と人間の決定的違いであるとも言える。何故なら人間には眼前に在るもの以上のものにまで思案の手を伸ばす事が出来るからである。現状に働きかけ、世界の在り方に作用する事で理想の実現を図る。動物は同じく生存しているが、環境に働きかけて生存を向上させようとはしない。食物を獲得し、パートナーを探す事に関しては場当たり的なのである。ここに両者の差が見受けられる。

 ただ、人間はそうして良く生きる事を目論むと同時に、そうせざるを得ない能力を身につけたのである。

 目的に向かって常に向上を続ける事が義務付けられているのである。身の安全が確保された後は豊かな生活を求め、次は全ての人間が平等に過ごす社会づくりを目指す。その為には富と安全を供給するシステムを強靭にせねばならず、そこで科学が手段として用いられる。故に科学は人間を平等に、余すところなく発展させる役目を負っている。

 となれば、幸福の尺度が何処に在るかが問題になる。そして、その場合、それを判断するのは決まって科学者なのである。社会における知識と権威が在る故に彼等の行いは全て聖なるものであるのだ。

 日本語版の序論にある様に、知性の差によって人間関係に変化が起こる事実が糾弾されるべきであるという事は誰もが思うところである。だが、逆説的に言えば、人間はより良く生きる存在であるという原則から、それは科学の糧にも成り得る。なまじ、その知性の差を解消する力を持っているからこそ科学は絶対不可侵の善意であるのだ。

 そして、歯止めの無い事を良い事に人間を利用するに至る。チャーリィはその一例であると思う。チャーリィにとっての幸福を知性の強制的な開花であると誰が判断し得るのか。名誉欲は勿論の事、科学者の善行を遂行しているという傲慢が人間を良く生きる事へニ駆り立て続け、逆に、単に生きる事すらも忘却させてしまう可能性を孕む。

 それは生存するという事を排除する事である。詰まり集団として他人と関わる事をやめる事も辞さネいという極論にも進みかねない。電子化が進んだ消費社会では人間を介さずとも買い物が行われる。人間関係を築く必要もない。

「知性を求める心が愛情を求める心を排除する」という言葉は人間を人間が科学という祝福で殺す事を端的に述べていると思った。


受講生の高木さんからメールが届きました。(高木-3

 ドラマで、夫のピエールがマリーを、旧来の「科学者」、或いは女性として有るべき姿、「献身的、無欲、犠牲的精神」と形容していたが、川島さんが論文で指摘する様に、また劇中でマリーが自身で言っている様にそれは「それは聖女のイメージ」だとして否定されていた。

 科学の持つ魔力は科学者の理性も支配して研究に没頭させる効果がある。理性によって、自分は良い事をしているという自己弁護が生まれているのか、最早、善悪の境目なくただ理屈に頭を付き合わせているだけなのか判断は付かない。便利だからと科学を褒め称えているのは周囲の評価なのだろうか。本人はどう思っているのかはあまり定かではないと思う。

 賞を受けるよりも実績という態度は、禁欲的で驕らない、称賛に値する謙遜に捉えられがちだが、仮に世間との関連などそもそも眼中になく、本心から賞はどうでもいいと言っているのならば、研究と資料しか見えていない人間として全く社会に参画していないと言えるだろう。

 こもり切りの生活で社会に対して云々しようという態度は、物事を矢張り記述の上でしか判断しない様な蓋然的な良さに結び付いてしまうのではないか。例えば環境対策に太陽光発電、エコカー、排出権を用いるのは机の上で行った処理という気配が顕著である。これらは根本解決では全くなく、かつそれが新たな経済的問題を生み出す(そして、その効果も勿論織り込み済みで行動している)。

 問題は実生活から隔絶した者による知識の果てしない活用、濫用であり、今後は知識より知恵を磨く事であると思った。


受講生の高木さんからメールが届きました。(高木-2

 女性らしいという言葉は社会自体が男性と女性についての不合理な差を無意識に考え始めたからこそ生まれた単語であろう。始めから男性と女性を明確に区別する事に意図があったとは思えない。と言うのは、古来は単純な生物学的な性差が重視される世の中であり、あえて区別する名称も言及する事も必要としなかったからだ。しかし、社会が理性的に発達するに従って肉体的な能力のみで渡り歩けなくなり、男性でない立場のものが力を発揮出来る可能性が生まれる事になった。しかしながら、かつての支配的立場の男性達は父権主義に固執し彼女らに女性らしさという立場を与え、飼い馴らそうとする。他方、女性もそれを是として夫を支え、次は子の面倒を見るに従事する。

 ただ、女性には表現する手段が無かっただけで、不服に思っていたのだ。マリー・キュリーの娘、エーヴの『キュリー夫人伝』には家庭に入る前のマリーについての記述が多く、また、彼女は科学に力を注ぎ、俗っぽい感情とから掛け離れた聖女として記されている。

 科学と社会が深く結び付いているから、優れた女性科学者の出現は女性らしくないという烙印を押される。その一方で女性、或いは知識人はジェンダーについての考え方を改める様に求める。しかしながら、ジェンダーという考えが生まれたのは差が存在するという意識があるからであって、改善を求める者達も自己弁護と他者の批判ばかりを行うのであれば結局は権威の様な力を持つに至る。詰まり、女性を擁護しない者は全て悪であるという絶対的な正義を笠に着た新たな立場の違いと対立を生みだす。女性を無条件に称揚し、聖化する事に繋がりかねず、異なる意見は圧殺される。そして同時に、聖化された女性はそれ自体の人間性も消失する。

 マリー・キュリー(のみに止まらず、あらゆる偉人)の伝記を見なおす事はジェンダーなどの主義を二項対立的に考える事の暴力性を避けるために必要な観点を与えるのではないかと思った。 


受講生の高木さんからメールが届きました。(高木-1

 配布資料では「フランケンシュタイン」で実存主義が理解できるとあったが、矢張り私は作られたモンスターの立場よりも作った人間の側から見た方がしっくりきた。

 当然、それでは実存主義の話題にはならず、どちらかと言えば人間知性の在り方と啓蒙思想を考え直す試金石であるという見方になる。何故、人間の知性に絡んでくるかと言うと、それは今や、科学は人間という考え方と相互に依存しあうシステムとして確立しているからである。

 考えた事は科学には主従を転回させる力があるのではないかという事である。

 そもそも科学は人間の生活を便利にするべく発達したものだ。暮らしを便利にさせ、苦痛を取り除く事は言うまでも無く善である。だから貪欲に成長した。しかし、科学が持つエネルギーはそれだけに止まらず、人間の思想にも影響を与え、神からフ自立を促した。科学の根本にある数学は自然を機械的なものであると見なし、数学的な支配のもとに自然を服従させた。その結果、人間は偏見に隠された知性を発揮するべきであるとする啓蒙思想も出現し、人間の知性の開花であるかの様に当時はもてはやされたであろう。その点から私には科学は人間知性との融和性が高いと思う。

 しかし、現代では科学は更なる力を身に付けた様に思う。それは人間をも支配する力である。科学には人間の知性の拡大の為の道具的な性質を持つだけでなく、社会の構造を科学自身が科学の為に変化させる威力があるのだと思う。最も代表的なものは自由資本主義のおける科学(技術)ではないだろうか。今の社会で重要な事は、より速く、軽く、遠くである。この考えは携帯電話やパソコン、果ては宇宙探索に至るところまで忍び込んでいる。市場では、時代に逆行したモノは勝てないので切り捨てられるのだから、より科学は科学自身を肥え太らせる。人間の意志とは別に製品に無駄な機能や装置が付くのはこの為ではないか。また、より強い兵器も無限に生み出され続けるだろう。

 そして、科学の持つ最大の恐怖はそれがもたらす結果だけではなく、その結果への道程を覆い隠す性質にあるのだろう。人間は知性をもってして自身の行いを合理性や利益を考える。科学が生活を豊かにし続ける限り、そして、今ではそうでなくても一度市場に乗ってしまえば人間は承認を与え続けるだろう。自ら科学の正当性を判断していると思い込んではいるが、大体は科学に思考も支配されているのかもしれない。科学はほくそ笑みながら人間が無自覚に与えてくれる知性のお墨付き、という餌で肥大化する。果たして、科学がその力を強大にし過ぎてから気が付くのである。二度の世界大戦や環境問題が例として挙げられるが、これを見知っておきながら未だに現代人の科学への傾倒は止まるところを知らない。あまつさえ科学で科学の補助をしようと言うのは知性の過ちを顧みない人間の愚かな面を浮き彫りにする。科学の催眠術は、啓蒙された知性を持つ人間すらまた盲目にしてしまうのではないかと感じた(ただし、この人間を支配する力の持ち主は科学だけなく現代社会には溢れ返っている様にも思えるが)。

 言うならば輝かしい人間の知性の果てに生まれたあのおぞましい見た目のモンスターとは、科学そのものであった、と思った。