受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-12

1.『手塚治虫はなぜ鉄腕アトムを二度アニメ化したのか?』という疑問が番組内では述べられていた。これについて、手塚氏は旧版の内容に満足がいっていなかったのではないかと考えられる。そして、なぜ彼は満足できなかったのかという疑問が浮上してくる。そのことに関しては、アニメの新旧を比較することで見えてくるものがあるのかも知れないが、どちらも一話のみの視聴であったためいかんともしがたい。しかし、その数分のなかでも大きな変化が見受けられた。それは、講義のなかで先生もおっしゃられていた、科学の持つ負の側面がより強調して描かれていたことである。具体的には、女性科学者の諫言やアトムを兵器と表し、レーザーや銃といった目に見えての脅威を装備させていたことである。こういった兵器は、人の生活を豊かにするために必ずしも必要となるものではなく、むしろ蝕む要因となる。それを作り出すのは科学であり、これは常に人間にとって風向きの良いものではないのである。記事における『手塚氏はペシミストだったのかもしれない』の言は、こういったことからも感じ取れる。何より彼は、生命の尊さをその漫画人生を通して訴えかけていた。医者を志したのも、漫画家に転職したのもすべてこの想いからきているのである。ゆえに、科学の酸いも甘いも知っている彼からすれば、それに依存することは諸手を挙げて賞賛できるものではなかったのではないか。以上のことから、彼はその世界観を旧版アトムで伝わらなかったと実感したがゆえに再度のアニメ化に踏み切ったとも考えられる。

 

2.映画や小説といったフィクションは、当然のことながら人を惹きつける要因がなければ駄作となってしまう。ゆえに、そこに描かれる事柄・人物像は極端であり、特徴・特性の強調・脚色はどうしても避けられない。講義内でみてきた映像の中の科学や科学者もこの洗礼を受けていた。科学は人を蝕み、科学者はエゴの塊というのが概ねして共通した描かれ方であった。無論、これが事実であると感じることは些かもなかった。しかし、これは裏を返すならそういった傾向が少なくともあることを示していると考えられる。火の無い所に煙が立たないように、元がなければ想像の余地も無いのである。これまで観てきた映画のジャンルが史実にのっとったものからサイエンスフィクションまで、幅の広いものであったにも拘らず一貫して描かれていることから、描かれたものは科学()の本質の一つとしては認めらると思われる。映像の中のそれ、彼、彼女らは決して、真実ではない。しかし、決して虚構でもないのである。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-11

 自分の見聞きしたものはいつか失われる。涙が乾くように、雨が上がるように。この言葉を最後にロイはその生涯を閉じた。彼にも『その瞬間』がきたのである。自らの定められた寿命に気づき、抗うために幾人もの人間を手にかけ、それでも願いが叶うことのなかった。その男は、自分たちの人生は恐怖の連続であったと語った。しかし、彼の『その瞬間』はひどく呆気なく、その死に顔も安らかなものであった。ロイが目を閉じる瞬間に抱いた感情は、その人生を覆っていた恐怖であったのか、死に顔同様安らかなものであったのか。私は後者であると思う。それは、前述したように彼は人生の幕を『泣き止む』、『雨上がり』と表したからである。例えられた事象は比較的ポジティブなものであり、それに伴う彼の心情は決して負ではなかったと考えられる。ただし、これはロイが己が生涯を恐怖の連続と表現したことと合わせて考えると、彼にとっての人生とは涙や雨のようなネガティブな意味合いが強く、死とはそれを終わらせてくれる存在と認識しているともとれる。つまり、自分を幸せにすることはないが、不幸から助け出してくれるという、妥協や諦めのなかで見いだされた一種の悟りと考えられる。その悟りが、達観した境地からの視点を与え、個からの脱却へと至らせ、デッカードのいう『命を大切にする』行為を導いたとも思えることが少々皮肉なことである。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-10

 授業中配布された資料では「終わり()があるからこそ生には意味がある」ということの証明が述べられている。その結論に達するまでの過程において、死が大部分の人に悪いことと認識されているのは、それが我々から未来を奪ってしまうからという論が展開されている。ここにおいて私が注目したのは「大部分の人」というフレーズである。この点が「すべての人」と表現できない理由の一つに自ら死を欲する人の存在があると考えられる。未来を剥奪されることを害ではなく、利であると捉えている人々に焦点を当ててこの論を考えてみる。奪われることを望むということは、生が害または無意味なものであること指している。未来が苦痛になりえるのはどんなときであろうか。自殺の理由などを考えると「いじめ」「リストラ」といったものが考えられる。どちらも生きていくこと(未来)が辛くなったが故に死に意味を見いだしている。これは資料内で述べられていた「死は生を意味づける。その意味ある生を奪うが故に悪」の裏側を映し出してはいないだろうか。死もまた生に意味づけられている節が感じられる。まさしく生死は表裏一体の事象に思われる。

 この表裏一体という言葉は言い換えるならば、類型論ではなく特性論、といったところだろうか。つまり、単にカテゴリーに当てはめるのではなく、その程度を考えるべきということである。例えば「人とは?」と考えたとき、「ブレードランナー」劇中では人とアンドロイドという二元論のもとで繰り広げられている。自然に形成されたものと人工物との差といったところだろう。しかし、義手・義足といった部分的に人工物になっている人はどうなるのか。遺伝的に操作された者はどうなるのか。ここにおいて人か否かということは意味をなさず、�l間らしさがどの程度のものかという問題になってくる。そうであるならば、感情を持ちはじめたアンドロイドも(部分的に)人間になる。こういった、程度で物事をみていくことは認知的に非常に負荷がかかることではある。しかし、精度を高めるためであれば、ある程度仕方ないことと思われる。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-9

 今回の講義で視聴した「ブレードランナー」では、人とは何かという根源的な問いが見受けられた。そしてシーンを進めていくなかで疑問に思ったのは、劇中人間として描かれている彼らは我々と同一なのかということである。レプリカントをレプリカントと判断するために、彼らはテストを用いていた。そうして、その結果が出るのには230の質問を要すると述べていた。しかし、テストを受けているときのレプリカントは明らかに不自然であり、それほどの質問をするまでもなく判断することができる。これは、彼らが我々よりもレプリカントに近い存在ということを示してはいないだろうか。また、外見ということに限定したなら、いくつかの環境要因により我々とはどこかしら異なっている彼らよりも、レプリカントの方が「人間らしい」というのは皮肉なことに感じられた。

 そもそも劇中にでてくる人間は作者ディックにより創造されたものなのだから、レプリカントとは人造人間のつくった人造人間とも捉えることができる。ディックのつくった人造人間は自らを人間だと思っている。そしてレプリカントも(つくられた当初は)自らを人間だと思っている(作中の話からすれば完全に人と思い込む日も近いだろう)。双方共に人間ではなく、人間など存在しない。人間がいないにもかかわらず、それを助けるために生まれた結晶は跋扈する。行き過ぎた科学はこの可能性までも実現させうる。本末転倒も甚だしい限りである。

 自らに似た存在は鏡となり「自分とは何なのか」という問いを発する。言い換えれば、それがなければ、つくりださなければ、その必要性を絶てば、そのような質問に悩む機会もないと思われる。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-8

 「アルジャーノンに花束を」を観終えて、知のあり方は実に多様であることを感じさせられた。(序文より)原作においてチャーリーは「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ」「知ることはいいこと」と述べている。これは逆にいうと、それらを失うことは多大な苦痛であることを示唆しているように思える。手術の失敗を悟り、過去の自分に戻ることを予期した際の彼の苦痛は推して知るべしといったところか。その一方で、自らをモルモットとしか見ていなかった教授に対して、(もちろん自分のためでもあるが)手助けを行う彼にどこか達観・諦観した姿がうかがえた。彼のこうした姿は、科学やそれに携わるもの者のあり方をひどく滑稽に見せるものであった。その極めつけともいえるのが、劇中チャーリーの発した「あなた方はマウスより愚かである」の言である。知識という画一された価値観のなかにおかれ、その他の事には目も向けず、それによって功名を得ようとしている学者たちは、最高峰の知識を手に入れた彼にはむなしく見えたのではないか。

 また、日本のドラマ版との比較においては、こういった科学のあり方以上に人の心に焦点が当てられていたように思えた。前回のコメントで述べたパン屋の店員や教授との諍い、精神遅滞の給仕の行(ドラマ版では食堂ではなく大学、給仕ではなく知人ではあるが)をより強調して描いているのはドラマ版である。(時間の都合が多大に影響しているのだろうが)映画版では省かれた、主人公が自らを捨てた家族を訪ねるシーンを細かく描いているのも強く印象に残っている。なかでも心震わせるのが、前述した教授に手助けを申し出るシーンにおいて、ドラマ版の教授が自らの非を認め、共にこの苦境を乗り越えようと決意する場面である。教授が主人公を実験台ではなく仲間と認める姿に、ようやく心が知能に追いついたことがみとめられた。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-7

 「アルジャーノンに花束を」劇中の手術は、知的障害を抱えた人の知能を一般レベルにまで引き上げ、社会に適応させることを目的としている。ここでいう適応とは何なのであろうか。その人がうまく生きることをそう呼ぶのであれば、知的水準が上昇するにしたがって、周囲との間に軋轢が生じていたチャーリーは間違いなく不適応であっただろう。そもそも彼の以前は不適応であったのかも疑問である。確かに、周囲から馬鹿にされ嘲笑されることは望ましいものではない。しかし、物語序盤の彼には笑顔が多くみられた。少なくとも、(そういえるかどうかは懐疑的ではあるが)友達や職を失っておらず、社会に順応していたようには思われる。映画では、急激な知能の向上に感情の成長が追いつかないことが原因のように読み取れたが、よしんば両者が同等の成長を見せていても、彼は社会に受け入れられなかったのではないか。それは、ドラマ版のほうで顕著に描かれており、パン屋において彼がより効率的な生産方法を提案した際に、仲間は「見下すな」「馬鹿にするな」と激昂するのである。一般人だけでなく、彼は教授といった知識人にも同様に欠点の指摘を行うのだが、そこでも一悶着が起こるのである。

 これらの原因がチャーリー一人に起因することでないのは明らかである。要は彼が変わったにもかかわらず、周りからの位置づけが変わらなかったことで生じた齟齬といえる。それも仕方のないことかもしれない。自分より下だと思っていたものが自分以上の実力を持ったと知っても、人は簡単には受け止められない。認めれば自尊心やアイデンティティが脅かされるのだから、そういった対象は自分の周囲から排斥したくなる。そのことを考慮しなかったことは教授の実験における違う意味での失敗である。また、知能上昇の過分が過ぎたというのも原因と思われる。自尊心、アイデンティティを脅かさない程度、つまり当初の目的どおり一般レベルにとどめていたなら、もしかすると結果も変わっていたかもしれない。限界を見ようとしス科学者のエゴがここでも問題となったのである。しかし、原作の最後にもあるように、彼が頭が良くなることで得られた見解に誇りをもち、もう一度そうなれるよう動機を強めていたことは、彼にとっての幸せだったのかもしれない。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-6

 キュリー夫人像は時代時代で変遷してきたと川島論文では述べられている。その変化を追うために引き合いに出されたいくつかの「キュリー夫人伝」であるが、これらは主として彼女をきっかけとして他のものを言及している節がある。その「他のもの」は、男女によって隔たりがあったように感じた。つまり、マリーからは「時代」という時間軸での変化のみならず、「性別」における差というものも読み取ることができるのではないか。論文内で述べられた作家のうち、男性が一人であったことから、男性がキュリー夫人から抽出する要素というには大袈裟ではあるが、彼女の仕事の面から見た科学やそれに付随する賞の在り方というものが言及されているように感じる。これに対して、女性の場合は女性の社会的地位に言及していることが多い。それは、フェミニズム台頭の時代というだけでなく、論文で語られる彼女を崇拝している女性たちからは得てして、どの時代でもそれを感じさせられる。ノーベル賞を個人で二度も受賞したというだけでも歴史的な偉業であることを承知したうえで、彼女がもし女性ナなかったのなら、どのように語られていたかに興味がわきました。

 

 「アルジャーノンに花束を」は日本のドラマ版のみ観たことがあり、序盤を見る限りでは主人公達の立場(仕事、学校)はほとんど同一であった。これから見られるであろう差は、障害者や科学に対する国家間での見解の差によるものもあるかもしれないので期待したい。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-5

 「科学は純粋でなければならない」とは、劇中におけるピエールの言である。これの示すとおり、キュリー夫妻は友人・ベモンのように金儲けに走るわけでも、上司・シュッツのように名誉を得ようとしたわけでもなく、ストイックなまでに純然たる科学探求を行っていた。史実においても、マリーは世界の医療発展に大きく影響することを考慮して、ラジウムの精製技術の特許を習得せずに、万人に技術を公開した。また、不倫騒動からの疲弊を考慮し、ノーベル賞の授賞式を遅らせようという進言に対し、研究とは関係のないことであるとかえした。これは、彼女たちがどれほど科学を潔癖的に捉えていたかを明らかにしている。穿った見方をすれば、その科学研究が夫妻の生活の大半を占めていたことも踏まえると、他のものをどれほど犠牲にしていたかという証拠とも捉えることができる。研究に金はつきものであるなら、金儲けに走ることも厭わない姿勢も必要ではないかとの見識もある。しかし、マリー自身、特許のことを引き合いに出された際は、「人生最大の報酬は、知的活動によって得られる」といっていたことから、栄誉・金銭以上のものを得ていたと考えられる。ゆえに、潔癖であることが正しいかどうかは、各々の価値観・正義のこともあるので一概にどうとはいえない。

 ところが、そんなキュリー婦人の姿勢が実ったことで得られたノーベル賞が、純然とは言いがたいのがなんとも皮肉ではある。ノーベル賞は、その選考が極秘で、なるたけ他からの影響を受けないようにしているという名目ではあるが、本当に影響を受けていないかといわれると怪しい。事実、マリーの二度目の受賞では彼女を気遣ったとの見解もなされている。これが正しいとするなら、この彼女への気遣いは彼女への最大の侮辱と思われる。ノーベル賞の設立が少々私事に走っていることから、仕方がないと言えばそれまでだが、大変残念な話ではある。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-4

 私が小学生時代に読んだ「キュリー夫人」の伝記に描かれていた像は、貧困・差別などに負けず、只管に学業・研究にとりくむ優秀で理想的な女性であった。それは、まさしくエーヴが世間に提示し、大人たちが教育上安心して薦めることのできる聖人であった。この像に対して、私はあまりに完璧すぎではないか、子ども達にそれを目指せというのはあまりにも酷ではないかと感じたものだ。彼女がすばらしいのはわかった。しかし、完璧でなければ大成しないのかという疑念が浮かぶのである。事実、かの不倫疑惑事件などで「人間らしさ」が見受けられるわけなのだから,必ずしも彼女が神域の存在であったとは限らない。あまりに理想的過ぎると胡散臭さが先立ち現実味が損なわれるのである。しかし、逆に考えるならば、発刊当時、事件の渦中にあったマリーを救うには、これほどの無欠さが必要であったのではないか。つまり、それほどの糾弾が彼女を襲っていたとも思える。

 講義中に観賞したマリーは、喜劇ということもあり、多少なりとも脚色されていたのかもしれないが、非常に快活であり、自身の目的のためには手段を選ばない側面も垣間見ることができた。

 以上のように、キュリー夫人像は多様で、そのどれもがある事実に基づいている。これは、その時代時代で抽出される部分が変化していることの表れではないか。聖人君子然とした淑女が求められたならそれが当てはまる部分に、フェミニズムの台頭してきた時代ではその部分にスポットライトが当てられてきたと思われる。これからも時代の変遷とともに彼女の像は変容していくように考えられる。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-3

 今週の講義で先生が述べられていた「フランケンシュタインと船長の対比」について、船長からみたフランケンシュタインのような戒めとなるものが、「科学信仰」ともいえる現代においても存在するのかを考えさせら黷ス。

 映画においては、一線を越えてしまった博士に対して、船長は踏みとどまった者として読み取ることができる。北極をあのまま目指していたのなら船はどうなっていたのだろうか。帰らぬ人となり目的に押しつぶされる形になっていたのではないか、(当時では)未知の領域に踏み込むことで生態系になにかしらの悪影響をもたらしてしまっていたのではないか。どのようなことを船長は想像したのか見当もつかないが、きっとフランケンシュタインと自分を重ねて、破滅の想像をしたのではないだろうか。それが結果として、彼を思いとどまらせたと考える。

 私は、現代の科学にもこのような歯止めは存在していると思う。しかし、それは意味を成さなくなった。例えば、先生のおっしゃられていた核もその一つである。世界大戦において、その恐ろしさを経験した、感じたにもかかわらず、冷戦によって危うく同じこと、技術・量からしてそれ以上のことを引き起こそうとしていた。「今の科学なら失敗しない」「今の科学ならうまくやれる」そのような科学信仰が、戒めを破り、歯止めを効かなくさせていると考える。我々に必要なのは「フランケンシュタインの戒め」ではなく、「船長の英断」ではないだろうか。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-2

 フランケンシュタインによって造りだされた生物は、ひどく我々人間のような気がしてならない(もちろんフランケンシュタインはそれが目的で彼のモノを創りだしたわけだが)。自分の意思で生まれてきたわけでも、自分が望んで容貌・能力を得られたわけでもなく、いきなり世界に放り出された。これらも人間と酷似していると感じた要因ではあるが、なかでも私がその怪物にヒトをみたのは、悪魔的とはいえ目的を持ち、そこに意味・意義を見いだしているところである。

 我々にとってその目的は正気を疑うようなものであるが、ヒトが他者の持っている目的を理解しきれていないことなど何処ででも見受けられる。事実フランケンシュタインの目的さえ、どうかしているものだったのだから。このように、本人にとってはそれこそ人生の主題とも言えることが、他者からすればまったくもって無意味に思える、そんな差異は人間特有であり、少なくとも私と怪物との間にはその「特有」があった。


受講生の武市さんからメールが届きました。(武市-1

 講義で再生していただく映画のリクエストについてですが、私はH.G.ウェルズの『タイム・マシン』、『宇宙戦争』を推させていただきます。1セメスター時に先生の『科学論』を受講させていただき、その中でウェルズの科学と人類への憂慮を背景とした作品のことが強く印象に残っており、本講義に適していると思いました。特に前者は、『科学論』で序盤のみ再生されていたので、気になりつつすべて見る機会を逸した身としましては「是非に」との思いは強いです。私事が多分に含まれており大変恐縮ですが、リクエストさせていただきました。