ソローの著作から

H.D.ソロー著、飯田実訳『市民の反抗 他5編』(岩波文庫、1997年)


リスは植林者

 ひとことで言うならば、風がマツの種子を硬木林やひらけた土地に運んでいくのに対して、リスなどの動物はオークやクルミの種子をマツ林に運んでいくのであり、こうして一種の輪作が継続されることになるのです。

 この点については、私はずっと以前に確信をもって断言したことがあり、また、密生した硬木林をときおり調査することによって、自分の意見の正しさを確認してまいりました。リスが木の実を地中に埋めるということは、むかしから観察者たちのあいだには知られていたのですが、それが森林の規則的な遷移の原因となっていることを指摘した人間は、私の知る限り、まだひとりもおりません。

 1857年9月24日、私はこの町のアサベット川を舟でくだっていったとき、1匹のアカリスが、口になにか大きなものをくわえ、岸辺に沿って草むらの下を走っていくのを目撃しました。アカリスは、私から2ロッド(約10メートル)ほど離れたところにある1本のツガの木の根本で立ち止まると、前足でせわしなく穴を掘り、その戦利品を穴に落として土をかぶせ、それからツガの木の幹の途中まで退散しました。私が岸辺に接近してその隠匿物を調べようとすると、リスは自分の宝物のことがしきりに気になるらしく、途中まで幹を降りてきて、2、3回それを取り戻そうとするしぐさを見せましたが、結局は退散してしまいました。その場所を掘ってみると、ツガの葉が腐食してできた赤っぽい土の下1インチ半ほどのところに、厚い殻のついた、二つのあおあおとしたヒッコリーの実が、くっつくように埋められておりました。これは実を植えるのにちょうどよい深さなのです。

 要するに、このリスは、そのとき二つの目的を同時に達成しようとしていたことになります。すなわち、みずからのために冬の食物をたくわえることと、あらゆる生きもののためにヒッコリーの森の植林をすることです。もしリスが殺されるか、その隠匿物を忘れるかした場合には、ヒッコリーの木が育つことになるでしょう。(「森林樹の遷移」、184-185頁)

 

政府とは

 政府とはたかだか、ひとつの方便にすぎない。ところが、たいていの政府は不便なものときまっており、またどんな政府にしろ、ときには不便をきたすことがある。常備軍の設置に対しては、これまでもさかんに有力な反対論が唱えられてきたし、それは世間の耳目を集めるだけの価値をもっているのであるが、つきつめて言えば、それとおなじ反対論が常置政府に対してもなされてもよいわけである。常置軍(アーミー)とは常置政府がふりまわす腕(アーム)にすぎない。その政府に対しても、人民がみずからの意思を遂行するために選んだ方式にすぎないのだが、人民がそれを通じて行動を起こすことができないでいるうちに、ともすれば政府そのものが常備軍とおなじように乱用され悪用されることになりかねない。今日のメキシコ戦争を見るがよい。これなどは、常置政府をみずからの道具として利用している比較的少数の個人のなせる業(わざ)である。人民は、はじめからこんな手段に訴えることには同意しなかったであろうから。(「市民の反抗」、8-9頁)

 私の考えでは、われわれはまず第一に人間でなくてはならず、しかるのちに統治される人間となるべきである。正義に対する尊敬心とおなじ程度に法律に対する尊敬心を育むことなど、望ましいことではない。私がひき受けなくてはならない唯一の義務とは、いつなん時でも、自分が正しいと考えるとおりに実行することである。(同、11-12頁)

 私はこの6年間、人頭税を支払ったことがない。そのためひと晩投獄されたことがある。厚さ2、3フィートの堅い石の壁、厚さ1フィートの木と鉄の扉、光線がもれ入る鉄格子などをじっくり観察しながら立っていたとき、私は、私を単なる肉と血と骨のように扱って監禁する、この制度の愚かしさにあきれてしまった。(同、36-37頁)

 

歩く(ウォーキング)

 私は「自然」を弁護するためにーー単なる市民的自由や市民的教養とは対照的な、絶対的自由と野生を弁護するためにーーひと言述べてみたい。つまり、人間を社会の一員としてでなく、むしろ「自然界」の住人、もしくはその重要な一部分として考えてみたいのである。自説を力強く表現するためなら、極端な言い方もあえて辞さないつもりだ。文明の擁護者は、ほかにいくらでもいるからである。たとえば、牧師や教育委員会、それに読者のみなさんが、こぞって文明の弁護をひき受けてくれるだろう。(「歩く」、106頁)

 私は、一日に少なくとも4時間ーーたいていはそれ以上ーー、いっさいの俗事から完全に解放され、森を通り抜けたり、丘や野原を越えたりして、あてどもなく散策するようにしていないと、自分の健康や生気を保つことができないような気がする。(同、110頁)

 午後の散歩では、午前中の仕事や、社会への義務のことなど、いっさい忘れてしまいたいものだ。ところが、村というものはそうたやすくふり捨てるわけにはいかない場合あるのである。なにかの仕事が頭にこびりついて離れず、気もそぞろになりーー、つまりは正気を失ったようになっている。散歩しているときくらいは、なんとか正気を取り戻したいものだ。森のなかにいて、そとにあるもののことを考えているとしたら、いったいなんのために森へゆくのであろうか? 私は、いくら立派な仕事だろうが、そこから抜け出せない自分に気づくとーー現にそういうことがときどき起こるーー自分はどうかしているのではないかと思い、身ぶるいを禁じ得ない。(「歩く」、110頁)

 家屋の建設から、森林およびあらゆる巨木の伐採に至るまで、近ごろ人間の進歩改良と呼ばれているもののほとんどは、風景をゆがめ、それをますます野趣のない、低俗なものにしているだけである。まず手はじめに囲いの柵を焼き払い、森林のほうはそっとしておこうとする国民はいないものだろうか!(「歩く」、116頁)

 私は、わが家の戸口から出発したあと、人家のそばを通ることもなく、またキツネやミンクがよこぎる道以外には道路を横断することもなく、最初は大きな川に沿って、次には小川に沿って、その次は牧草地や森のそばを通って、10マイル、15マイル、20マイル、いや何十マイルだって楽々と歩くことができる。この付近には、何平方マイルにもわたり、住民がひとりも住んでいないところがあるからだ。あちこちの丘の頂きから、私は文明と人間の住処(すみか)をはるか遠くに望むことができる。農夫とその労働のあとも、せいぜいウッドチャックとその巣穴程度にしか目立たない。

 人間およびその事業である教会や国家や学校、貿易や商業、製造業や農業、なかでもいちばんひと騒がせな政治ーーそういったものが風景のなかでは、ほんのわずかな空間しか占めていないのを見て、私はうれしくなる。(同、117頁)

 現在のところ、この付近の土地の大部分は、まだ私有地ではない。風景は私有されておらず、散歩者は比較的自由に歩きまわることができる。しかし、やがてそこが仕切られて、いわゆる遊園地となり、ごく少数の人間だけが狭い排他的な楽しみを味わう場所となる日が、きっとやってくるだろう。そうなると、囲いの柵をやたらとふやしたり、人間を公道に封じこめておくための、ひとを捕らえる罠やいろいろな仕掛けを発明したりせねばならず、さらに神の大地を歩くことが、どこかの紳士の屋敷に侵入を企てるものと解されることにもなりかねない。(同、124−125頁)