受講生の轟木さんからメールが届きました。(轟木-5

「キュリー夫妻 その愛と情熱」を観て

 映画と配布資料から、マリーが活躍した当時の女性差別の大きさを知った。様々な権利が制限される女性であるというハンデを背負いながら2度ノーベル賞を受賞したマリーはただただ偉大であると感じた。この活躍がその後の女性差別の改善、女性の社会進出にも多大な影響を及ぼしているという点でも偉大であるといえる。ピエールがマリーのことを「すばらしい科学者、献身的で、犠牲的精神の持ち主」と形容するほどである。しかしこれに対してマリーは「自分は楽しいから働いている、科学的な発見は麻薬のような肉体的な喜びがある。」と反論している。このことや不倫騒動などから、完璧な人間であると思っていたマリーにも人間らしい部分があることも知り、どこか親近感のようなものも感じた。

 マリーの発見したラジウムなどの放射性物質は兵器など何かと危険なイメージのするものであるが、我々一般人が良いイメージが持てるよう科学の進歩に利用していってほしいと私は願う。


受講生の轟木さんからメールが届きました。(轟木-4

 ブレードランナーは科学のあり方、生死、人生など様々なことについて考えさせられるものであった。

 この映画の舞台である2019年のロサンゼルスは暗く、決して人の住みやすい環境といえるものではなかった。配布資料ではこの風景を「廃墟」と呼ぶほどである。私はこの風景に恐怖を覚えた。9年後の2019年にあのような状況になるとは現在からは考えにくいが、もう少し先の未来では十分に可能性はあり、映画の中だけの話ではないと危機感も感じた。科学は大きな可能性を秘めたものであるが、それは劇中のロサンゼルスのような状況を生み出す可能性でもある。このことから科学の発展は慎重にあるべきであるとあらためて思った。

 配布資料に「人生の限界である死は、人生における個々の出来事を際立たせてくれる『境界線』なのだ。」とあったが、このことが印象に残った。日常生活を送る中でも、終わりを意識するからこそ、努力することができるのだとよく思う。人生においてもこのことはいえると感じる。人は生の終わりである死をはっきりと認識できないから無駄な時間をすごしてしまう。しかし、レプリカントたちは4年という決められた寿命をはっきりと認識しており、目的を達成するために必死になれたのだろう。この作品を通して、死の意味を考えることが出来た。また、人の弱さをあらためて感じることにもなった。


受講生の轟木さんからメールが届きました。(轟木-3

 「鉄腕アトム」を観て、まず思ったのは「フランケンシュタイン」や「アルジャーノンに花束を」を見たとき同様、科学のあり方についてである。特に「フランケンシュタイン」とかなり近いものを感じた。それはおそらく科学者の過剰な期待のもとで作られたアトムに「フランケンシュタイン」のあの怪物が重なって見えたからである。

 初代の鉄腕アトムにおいて、天馬博士がアトムへ寄せた期待は、戦後間もない日本における科学への期待を反映しているように思えた。当時の日本人には科学はとても輝かしく、いいことずくめに見えたのであろう。先生の話にあった楽天的な科学観である。この楽天的な科学観はおそらく科学の進歩により、の二代目のアニメでは多少の修正がされていた。

 今回の講義では最も私の心に残ったのは、この楽天的な科学観というものである。今回の講義で楽天的な科学観は否定的にとらえられていたが、私には良い点もあると感じられた。楽天的に物事をとらえることは人を動かす原動力になりえると思うからである。不安ばかりの目標よりも希望に満ちた目標の方がはるかによい動機付けになるだろう。問題点を無視し科学を進歩させることは良いとは言えないが、楽観的に考えることも時には必要なのではないかと今回の講義を通じて私は感じた。


受講生の轟木さんからメールが届きました。(轟木-2

 「アルジャーノンに花束を」を観て、知性というものについて考えさせられた。チャーリーは手術により急速に知性を得ることになるが、それは感情面の発達が伴っていない非常に虚しく感じられるものであった。配布資料でチャーリーは、愛情を受け入れたり、与えたりする能力がなければ知性は危険なものであるといったことを述べていたが、私も同じように感じた。知性とは何かを手にするための要素のひとつでしかなく、感情もまたこの要素のひとつであると思う。現代の目覚しい科学の発展においてもこのことはいえると思う。技術面は急速な進歩をし続け、次々に世に出されるが、それがすべて人の為になっているわけではないと感じる。人の役に立たないばかりか人を駄目にするものや傷つけるものまである。科学者が技術ばかりを追い求めるあまり、良心や倫理感が無視された結果である。(科学者が技術を追い求めたのではなく、世の中の風潮がそうさせたものもあるのだろうが。) 以前観た「フランケンシュタイン」でも同じように科学技術の進歩と倫理について考えさせられた。

 今回観た「アルジャーノンに花束を」は知的障害者の知能を手術により改善するが最終的には元に戻ってしまうという科学の一例であったが、現在の科学全体の象徴のように感じた。


受講生の轟木さんからメールが届きました。(轟木-1

 映画を見る前は、おそらく多くの人が思っているように、私もフランケンシュタインという名の怪物が暴れるホラー映画であると思っていた。だが、実際は科学の発展や倫理について考えさせられるものであった。

 科学の発展には人の生活を豊かにしたり、希望を与えるものであると私は思う。現在の我々の便利な生活は科学の力無しでは考えることが出来ない。しかし、科学の力は様々な問題も生む。今回の映画では博士はヒトを作るという偉業を成し遂げた。だが作られた怪物は何人も人を殺し、怪物自身も不幸な一生であった。映画であったため少々大げさではあったが科学は人を不幸にもし得るものである。科学の発展はすばらしいが、それが含む危険性などを十分に考慮してから世に出すべきであると私は思った。