テクノロジーの明と暗

 

●自動車免許取得をとおした個人的な経験

 昨年、年齢的ハンディを顧みず、自動車学校に通い始めた。周囲の人々から「きっと途中で挫折するよ」とか「教習にかかる費用は、年齢かける万円だから50万円以上かかるよ」などと、さんざん冷やかされた。確かに、初めて握るハンドルの扱いは難しかった。「とんでもないことを始めてしまった」と後悔の気持ちに揺れたこともあった。しかし、指導員の方々の適切な指導のおかげで、初めてハンドルを握ってから3ヶ月後、めでたく免許を取得することができた。

 免許取得後も、最初はベテラン・ドライバーに同乗してもらいながら、通勤に、また、買い物にと自動車を積極的に利用してきた。通算走行距離はすでに1万5千キロを越えた。この年齢になって、これまで無縁だと思っていた自動車の運転という技術をマスターできて、感激している。そして、自分が自動車を運転するようになって、自動車に対する、また、交通問題に対する見方が大きく変化した。一言で言うなら、これまでは自動車というものを環境問題や交通事故問題の元凶として、冷ややかに、ペシミスティックに眺めていたのだが、免許取得後は、好ましいものとして、自分の可能性を広げてくれるものとして見るようになった。筆者の中で、自動車に対するペシミズムからオプティミズムへの劇的な転換が起こったのである。「存在が意識を規定する」という真理はここでも正しいことが証明されたわけである。

 

●「進歩の時代」のオプティミズムとペシミズム

 18世紀末から19世紀にかけて、イギリスをトップランナーとして起こったいわゆる「産業革命」は、蒸気機関の改良をはじめ、紡績機械など多くの機械の発明・改良によってもたらされた。これら多くの機械は、生産力を飛躍的に高め、人とモノの流通を促し、総じて人々の生活を豊かにした。しかし、産業革命の進展の中で、機械を敵視し、その打ち壊しに走った人々もいた。有名な事例は1810年代、イギリスで起こったラダイト運動である。運動に加わった人々は、機械の普及が自分たちから仕事を奪うと考えたのである。

 貧しい労働者たちが機械に恐怖を感じ、自暴自棄になって機械の打ち壊しに走ったのと同じ頃、M.シェリーの想像力は人造人間の悲劇を描いた『フランケンシュタイン』を生み出した(1816年)。科学、なかでも医学・生物学の進歩が、歯止めをなくして暴走した場合に、どのような事態が生じるのかを若い女性作家の感性は鋭く洞察したのである。

 18世紀は理性の時代、啓蒙の時代といわれる。それに続く19世紀は、産業革命の進展とともに、科学と技術とが結びつくようになった。ダーウィンの「進化論」の提唱(1859年)に代表されるように、19世紀は「進歩」の観念が大きな潮流となった。もちろん、進歩思想は、科学技術や機械に対するオプティミズムの重要な構成要素である。しかし、進歩の時代の19世紀にも、ラダイト運動やフランケンシュタインに象徴される新しい時代に対するロマン主義的なペシミズムが見え隠れしていたのである。

 

●核兵器と環境問題とニヒリズム

 20世紀になると事態は一層深刻になる。科学技術が飛躍的に発展し、その影響が国家社会、そして人々の生活に決定的な影響を及ぼすようになったからである。

 科学技術の発達の結果、戦争が悲惨になり、戦争に伴う死傷者数が爆発的に増大した。古来、科学と技術は戦争と深く結びついていたが、今世紀の2度の世界大戦は、科学技術がきわめて大きな役割を演じた。第一次大戦が、毒ガス兵器が登場したため「化学戦」と呼ばれ、第二次大戦が、核兵器(原爆)やレーダーなどが戦局に大きな影響を及ぼしたために「物理戦」と呼ばれているのはそのためである。科学技術を制するものが戦争の勝者となる、という図式は誰の目にも明らかとなった。特に、究極の兵器としての核兵器の登場は、科学技術に対するオプティミズムを根底から危うくしたといえよう。われわれは、米ソの冷戦時代はもちろん、それ以後も、いつ暴発するかもしれない「核の恐怖」との共存を強いられているのである。これほど深いペシミズムが他にあろうか。

 その一方、第二次大戦後数十年を経て、多少の紆余曲折があるものの、多くの国々で経済が発展し、電化製品や自動車さらにはコンピュータが広く普及して、人々はかつてない便利な生活を満喫している。また、多くの人々が、高度な医療技術の恩恵に浴するようになって、平均寿命が飛躍的にのびた。われわれは、日常的に、科学技術の恩恵をたっぷり受けているのである。冒頭に述べたように、筆者もその一人である。

 かくて、核の問題を別にすれば、科学技術に対するオプティミズムが、一般的ないしは支配的な態度となった。しかし、地球環境問題の登場は、そのような浅薄なオプティミズムに冷水を浴びせかけた。われわれの豊かで便利な暮らしを支える、生産・流通・消費活動そのものが、われわれの生存の基盤である地球環境を悪化させていることが判明したからである。地球は宇宙に浮かぶ小さな「宇宙船」にすぎず、資源やエネルギーの野放図な消費は宇宙船「地球号」での生活を不可能にしてしまうのである。

 核兵器にせよ環境問題にせよ、科学技術の偉大な成果がかえってわれわれの生存を危うくするというパラドックスのもつ意味は深刻である。このパラドックスに目をそむけて、科学技術に対する浅薄なオプティミズムに安住することは、ほとんどニヒリズムと紙一重のところにあるといえよう。筆者自身、自らの自動車フィーバーが「自分さえ楽ができれば」という刹那主義的ニヒリズムに陥っていないか、自問せねばなるまい。


『Tradepia』1998年12月号. pp.18-19.