受講生の山田さんからメールが届きました。(山田-5

「鉄腕アトム」を見て、今までの映像作品と共通のイメージとして、科学者のエゴが思い浮かびました。アトムを作った伝馬(天馬)博士は、交通事故で死んだ息子を生き返らすためにアトムを作ったが、身体的に成長しないアトムに苛立ちアトムをサーカス団に売りとばしてしまう。自分で作ったアトムが成長しないことは分かりそうなのに、作った後のことは考えてなかったのかと思い、フランケンシュタイン博士や「アルジャーノンに花束を」の教授と同じような身勝手さを感じました。

 アトムは強力な兵器にもなり得る存在であることは、2代目のアニメでは描かれていましたが、これは初代のときと比べて科学技術も進歩して、科学の危険性が一般にも広まってきたのが原因だと考えられます。科学者は自分の発見したものが、悪用されないような対策をするか、悪用されてしまう発明は発表してはいけないのではないかと思いました。

 また、これから、さらに科学技術が進歩して進化した人工知能を持つアトムのようなロボットが作られるようになったら、サーカス団の団長や「ブレードランナー」のようにロボットを奴隷のように扱うのではなく、意識のあるロボットに人権を持たせないといけないと改めて感じました。


受講生の山田さんからメールが届きました。(山田-4

ブレードランナー」の感想

 この映画を見て初めに感じたことは、未来の地球が環境汚染によって荒廃していて、人にも活気がなくて暗い感じの映画だと思いました。またいくら地球の環境が悪くなって、ほかの惑星に人が移住することになったとしても、あんなスラム街みたいな形で地球を終わらせたくないと思いました。

 この映画では、寿命を4年に設定されたレプリカントという人造人間が登場します。彼らは人間より優れた性能を持ち、ある期間を過ぎると感情を持ちます。レプリカントが暴動を起こし、製造主のタイレル博士に寿命を延ばしてもらうために地球に密航する気持ちは良く分かりました。暴動を起こしたレプリカントたちは人間よりもいきいきとしていて、日々を楽しんで生きているように思えました。それは、彼らが自分の死が間近だと知っているからだと思います。配布資料にあるように、死があるからこそ人は命に価値を見出すことが出来るので、レプリカントたちは死を意識したことで価値のある命をもっと伸ばしたいと考えたのだろうと思います。もう寿命が延びないと知った後のレプリカントのリーダーのロイの行動は、残りの人生をしっかりと味わおうとしているようでとても感動的でした。

 死もそうだし、人間には様々な限界があります。しかし限界があるからこそ、人間は努力して限界に近づいたり、限界の中でよりよく生きようと思えるのではないかとこの映画と資料を読んで感じました。


受講生の山田さんからメールが届きました。(山田-3

「アルジャーノンに花束を」を見て感じたことは、この映画に出てくる科学者はみんな身勝手で自分の名誉のことしか考えていないということです。彼らは知能はあるが、チャーリーに対する愛情がなく、チャーリーを実験動物と同じように考えているようでした。序文の中の少女のあてた手紙の中にある「他人に対する思いやりを持つ能力がなければ、そんな知能など空しいだけです」という文章にあるように、彼らの名誉だけを追い求める姿勢は見ていて空しく感じました。

 この映画で一番感動したシーンは、賢くなったチャーリーが自分の知能が元に戻ってしまうと気づいて「アルジャーノンのお墓に花束をやってください」頼むところでした、このシーンは映像も他とは変わっていて知能がどんどん落ちていく様子が分かってハラハラしました。また序文に書いてあるように年を取って知能が落ちていくのはこういう感じなのかと思い少し怖い気がしました。

 最後に、映画を見終わってから考えたことは、知能よりも愛情や共感する心が大事だということです。チャーリーは手術を受けて知能を手に入れた代わりに友達や仕事をなくしてしまいました。映画の冒頭で公園で遊んでいたチャーリーの様子を思い出すと、手術を受けないほうがチャーリーは幸せだったのではないかと思えました


受講生の山田さんからメールが届きました。(山田-2

 「キュリー夫妻 その愛と情熱」を見て感じたことは、小学校のときに伝記(たぶんエーブの書いた)で読んだ事のあるキュリー婦人像とは異なっていて、キュリー婦人がとても人間的に描かれているということです。

 コメディであることもあって、キュリー夫妻と学区長とのやり取りは面白く、家政婦のアドバイスで研究が進んだりしてテンポが良かったです。一つだけ納得がいかなかったのは、なぜキュリー夫妻は研究内容をあんなに隠したのかということです。せめて校長に教えるくらいは良かったんじゃないかと思います。しかし、キュリー夫人が校長と怒鳴りあうシーンや子供を家政婦にまかせっきりにして研究に没頭するシーンや「科学の発見は麻薬のような喜び」とマリーがいうシーンはこれまでのキュリー夫人像からは考えられないことだと思いました。

 このテレビドラマは1996年にフランスで制作されたものである。川島さんの論文のおわりには、このような人間的なキュリー夫人の設定が可能になる経緯は20世紀の歴史であり、マリーとその「姉妹」たちの戦いの歴史である。と書かれている。つまり、20世紀の女性の権利を獲得する運動や、伝記作家でありフェミニストであるクインたちの働きでようやくマリーキュリーは聖女という固定されたイメージから開放されたのだと思いました。


受講生の山田さんからメールが届きました。(山田-1

映画フランケンシュタインを見て

 フランケンシュタインは、愛する母親の死を悲しみ、死をなくそうと決意した。医学学校に入り、死者をよみがえらせる研究が進むにつれて彼はどんどん初めの目的からずれて行く。しかし彼はこの研究を止めることができなくなってしまう。普通に考えたら研究のためでも犯罪者やコレラ患者の死体を盗もうとは思わないはずだ。なぜ彼がここまで研究にのめりこんでしまったのか、それは彼には世界初の発明をする可能性があったからだと思う。誰にもばれずに研究ができる 実験室があり、材料を調達するお金やコネがあり、恩師の残した研究ノートまであるのに、研究を途中でやめるには科学者としての好奇心が強すぎたのだと思 う。フランケンシュタインはモンスターを作り出してから、やっと自分のやったことの恐ろしさに気付いたが、その時にはもう手遅れですでにモンスターは動き 出していて、博士の手には負えなくなっている。このことは、原子爆弾についても同じことが言えると思う。作り上げた瞬間にもう開発者の手には負えなくなってしまう。こういう研究は今後もあるかと思うが、科学者は自分の作りだしたものに対しては、開発後のプランもきちんと立てておかないといけないと思った。

 フランケンシュタインが生み出したモンスターは生まれてからいきなり迫害を受けて、しかも感情を持っているので人間に対いて悪意を抱くことになり、フランケンシュタインに対して復讐をする決意をする。このモンスターの気持は理解できる。この映画の怖いところは、フランケンシュタインが自分の都合で作り出した、いわば子供に正当な理由で復讐されるところだと思った。