『フランケンシュタイン』から科学者のあり方を問う

横尾


 この小説では主人公ヴィクター・フランケンシュタイン、そしてその周囲の人々との関わりが大きな役割を果たしているように思えた。フランケンシュタインに関わりを持つ人々については、細かい描写がなされていた。例えば、この小説の冒頭部分に出てくるエリザベスの容姿については次のように書かれていた。「‥髪は目のさめるような金色で、着ているものは貧しくとも頭に高貴の冠をいただいたよう。額はすっきりと広く、曇りのない青い瞳をしています。唇にも顔かたちにもこまやかな感性と心根の優しさが表れて、見る人に、これはわれわれ人間とは違うのだ、天から遣わされ、目鼻のひとつひとつに天上の刻印をおびた存在だと思わせずにはおかないのでした。」このような描写がそのほかの登場人物についてもなされていたのである。フランケンシュタインを取り巻く人々はこのように、まるでこの上ない美しさ、人間としての魅力を持った人として描かれている。読んでいる時に、こんなにも素晴らしく、魅力ある人が身近にいることはとても幸せなことなのであろうと思った。こんな人々と関わりを持つことが出来ることがうらやましいと思えるほど、それほどまでに人物の描写は綺麗であった。また、描写ということで、この小説では自然の描写も大変壮大なものを感じさせてくれた。例を挙げるとすれば、シャモニの谷の描写もそのひとつである。「‥前方には広大な山々の急斜面、頭上には氷河の冷たい壁が聳え、そこかしこに……またときおり積氷が山から山へと鋭い音を響かせて、不変の法則の無言の働きにより、まるで手のなかの玩具のように裂かれ、こぼたれてゆくのでした。」この小説の中の自然描写は読むものにその自然の壮大さを思い起こさせ、時にはその自然の持つ恐怖、強さまでも知らしめてくれるものであった。凄まじい大雷雨であったり、雷などがその一例であろう。しかし、これまで述べた人物描写、自然描写といったものは、フランケンシュタインが怪物を創造してしまった後に感じるどうしようもない苦しみ、恐怖と対比をなしているようにも考えられる。

 そのフランケンシュタインは怪物を創造してしまう。フランケンシュタインは怪物を創造した日から平穏な日々、それまで共に過ごしてきたような人々と時間を共有することが難しくなってしまう。もしかすると、フランケンシュタインが15歳のころ、オークの木が雷によって徹底的に破壊された瞬間を見たその時から、フランケンシュタインの人生の崩壊は始まっていたのかも知れない。フランケンシュタインは科学者が持つ知識、技術を駆使して怪物を創造してしまう。しかし、彼はその怪物の醜さ、そして凶暴さから創造主としての責任から逃れてしまう。科学者として研究した成果をそのまま受け入れることができず、怪物を世に逃がしてしまう。それからというもの、フランケンシュタインには悲劇的な、あまりにも苦痛を強いるような現実を受け止めなければならなくなる。弟を亡くし、そしてジュスティーヌをも失う。それから人生の親友とでも言うべきクラーヴァルを亡くす。そしてまた最愛の人、幼いころから一緒にいたエリザベスとも永遠の別れを告げなくてはならなくなってしまう。そして最後にフランケンシュタインを支え続けた一人である父も亡くしてしまう。この一連の悲劇は、フランケンシュタインの科学者としての研究成果がもたらしたものであることは間違いないであろう。怪物を創造し、その責任から逃れた仕打ちであった。あまりにも残酷な仕打ちではあるかもしれないが、フランケンシュタインが犯した過ちはそれほどのものであったということであろう。

 フランケンシュタインが犯した罪、それは人間が踏み入っては決してならない領域を踏みにじり、その結果として生命を誕生させたことである。すなわち人間が生命を操ってしまったのである。結局フランケンシュタインは先にも述べたような仕打ちを受けることになる。科学者の研究成果がすべてにおいて良いことをもたらすとは限らないことを示唆しているようである。科学者、研究者はその研究が実現した後の、世にもたらす影響までも考える必要がある。それを怠った結果がフランケンシュタインに起きた悲劇である。これは現代でも言えることではないだろうか。例えば、核兵器が挙げられる。核兵器を開発したのは科学者であるが、その中には人を殺すことになる道具を研究しているとは思ってもいない人もいたのではないだろうか。そして核兵器を使ったのは科学者ではなく、軍人であった。このことからも科学者、研究者は研究を実現するだけでなく、その後も考慮に入れていなくてはならないことがわかる。また、人間が生命を操ることについてだが、現代のクローンの問題であったり、出生前診断も生命を操っていると言えるのではないだろうか。これにも研究者の成果が関わっている。以上のようなことを考えると、研究成果による技術の発達はすべての面において良いことばかりであると断言することは難しい。しかし、これからも研究は進み、技術はどんどん発達していくだろう。科学者、研究者、そして技術を利用する人々が技術使用の結果を深く考察することでのみ、小説フランケンシュタインが示唆しているような悲劇を免れることができるのではないだろうか。それにしても現代にも通じるような問題が200年近く昔に書かれたこの小説においても読み取れるということが驚きでもある。

(文献 メアリ・シェリー (森下弓子訳) 『フランケンシュタイン』 創元推理文庫 1984年)