受講生の吉田(辰)さんからメールが届きました。(吉田辰-5

アニメ「鉄腕アトム」

 手塚治虫氏の漫画「鉄腕アトム」が少年漫画雑誌に連載されたのは1952年であり、多くの子ども達が楽しんだ。その後1963年にテレビで放映されると一大ブームとなった。

 手塚氏が作品を発表した1952年はまだ原爆や戦争の傷が色濃く残っている混沌とした社会であった。つまり作品の発表の7年前(1945年)は広島・長崎に原爆が投下され、ようやく戦争が終わった時期であり、また同じく2年後の1954年には第五福竜丸が太平洋ビキニ環礁でアメリカの核実験(水爆)による「死の灰」を浴びて日本は三度、原爆の被害を受けたとして国内で原水爆禁止運動が全国的に起こった年である。一方、手塚氏自身も軍に徴用され、軍需工場で働かされた経験を持っている。手塚氏はこうした社会状況と、自らの体験をも含めて作品を提供し続けたのである。

 では手塚氏はこの「鉄腕アトム」で何を訴えようとしたのであろうか。私は、手塚氏が自分の苦しかった体験を踏まえながら、それでも原子力エネルギーの平和的な利用を訴えているのではないかと思っている。そしてその想いを、アトムを通して究極の平和を訴えているのではないかと思う。その証拠に手塚氏の作品には平和という思想が随所に盛り込まれ、一貫して争いのない社会でいて欲しいという強い願いが感じられるのである。そういえば何時のときだったか忘れてしまったが、手塚氏がテレビで「ボクは子ども達にたくさん夢を与えたい。そして平和の大切さも教えてあげたい。だから次から次へとアイデアが浮かぶ。時間が欲しい」と語っていたことがあった。この言葉を聞いて改めて手塚氏の作品を考えるとその想いが理解できる。

 しかしアトムはロボットであることに間違いはない。幸いなことに”善良”なる研究者(お茶の水博士)によって悪を許さない正義の味方として「再生産」されたが、もし悪の心を持つ研究者がロボットを作ったとしたら地球は、人間はどうなるであろうか。もしかしたら地球が滅びることになるかも知れない。そうなったら人間は自らの行為で自ら滅んでいく愚かな存在でしかない。

 だが、アトムはフランケンシュタイン(博士が作った怪物)とは異なるロボットであることが分かる。またアンドロイドとも違う「物体」である。つまり、フランケンシュタインの脳は人間のものであるが、アトムのそれは人工である。またアンドロイドは一応、寿命が決められているなど、「生産」するときにいかようにも製造できるのである。

 幸いまだアトムのような高度な知能を持つロボットはすぐには実現しないようだが(配布プリント)、でも安心してはしていられない。何故なら人間は想像したことは結構、実現しているからである。したがってここに科学者の心がどうであるかが問題となる(勿論、科学者だけでなく我々にも責任の一端はあるが)。まずは科学者が自らの信念を確立して研究する責任を持たなければならない。

 私はこれまで何度も研究の自由は保障しなければならないことを主張してきたが、それに加えてこれから科学者・研究者になろうと思っている人は「自主・民主・公開」の精神を原則としてその道へ進んでいって欲しいと思う。


受講生の吉田(辰)さんからメールが届きました。(吉田辰-4

 私は映画の感想を述べる前に、表面的ではあるがこの映画から受けた全体的な印象から入りたい。

 この映画を見ていると何かが胸にまとわりつくような、とても重たい気分にさせられる。それは多分、放射能に汚染された地球に取り残され(選ばれた者は地球外に移住した)、いつも酸性雨が降っているため外に出らないため、毎日じめじめとした空間の中でしか生活できない状況に置かれていることや、未来に何の希望も持てない地球で刹那的に生きることしかできない辛さ、息苦しさが伝わってくるからかも知れない。勿論この映画はフィクションであり想像の世界ではあるが、しかし実際に全面的な核戦争が起きたらこの映画のようなことが起きないとも限らない。さらに生物そのものが生きていることすらできなくなるかも知れないと思うと、余計に沈鬱な気分になる。もしかしたら近未来の私達とこの地球の姿かも知れない。

 さてこの映画のメインテーマと思われる「生」について考えたい。配布されたプリントの中で著者マーク・ローランズは、ブレードランナーで死の意味が解るとして様々な角度から解析されているが、正直なところ、著者や著者が引用している哲学者達の見解は難解すぎて理解できない。それは多分、私たちが日常生活で生や死について考えることはないからかも知れない。なぜならいつも「生きる」とは何か、とか、「死」とはなどと考えていては息が詰まってしまうからである。それに毎日が忙しく、考える余裕がないのも事実である。しかし一方で人は、「生」や「死」についてその人なりの考え方を持っていることは確かである。私も時々「生きる」とは何かとか、「死ぬとはどういうことか」など考えることはあるし、自分なりの「哲学」も持っている。それは「死までは生であり、誰もが死ねば無となり、死からは何も生まれない」ということである。これ以下でもなければこれ以上でもない。そしてもう一つ、生と死とは隣りあわせではないということである。さきに述べたように「死」は全てが無になることを意味するが、「生」はそれ自体様々な希望や可能性を含んでいるのである。著者は逆説的設問として「死はなぜ悪いのか」とか、「死は我々から何を奪うのか」と投げかけているが、私からみればだから今生きていることを大切にし、自分が自分に納得できる生き方をしたいと思うのである。

 ところでレプリカントはどう理解したらいいのだろうか。人は自分たちが避けたい嫌な仕事や危険な仕事をさせるためにロボットより高次の人造人間(レプリカント)を創出した。このレプリカントの寿命は4年となっている。しかし次第に意思や感情が沸き起こり、このため「生きたい」というレプリカントの思いのために人間が襲われる事態となる。なぜこのようなある意味「未完成品」を世に出してしまったのだろうか。もしかしたら製造した人間自身が外見を人間と同じように造ったため感情移入があって、全く無機質なロボットに仕上げることができなかったのかも知れない。それにしても人間よりも高等なレプリカントを作る意味は何だったのだろうか。この設定がよく分からない。いずれにしても無責任な研究開発は危険であり、科学に対する重大な警告を与える映画であることに間違いないと思う。

 私はこれまで研究の自由と研究者の研究活動の自由は保障しなければならないことを主張してきたが、その思いは今も変わらないし今後も変わらない。ただ科学者、研究者も社会の一員である以上、社会に対して責任があることを自覚オなければこの映画のようなことが起きないとも限らないので再度、「科学者の責任」ということを自覚してほしいと強調したい。最後に、私たちは「ブレードランナー」が映し出すこのような社会を作ってはならないということを申し添えたい。


受講生の吉田(辰)さんからメールが届きました。(吉田辰-3

 私はこの映画を見て医学における研究や治療のあり方、科学者の責任などいくつかの点について気になりましたが、わけても私が考えさせられたものは私たちは日頃、知的障害者に対してどのように接しているだろうか、ということです。

 映画では主人公である知的障害を負ったチャーリーを取り巻く様々な人たちの行動が描かれています。脳外科医のジェイ・ストラウス博士、ハロルド・二—マー教授および周囲の人達はあくまでもチャーリーを治験者としてみています。しかし彼の教育にあたっているアリス・キニアン先生の態度はどうでしょうか。彼女は他の人たちより問題と思われる態度で接していたのではないでしょうか。このことを端的に表していたのがチャーリーが脳手術を受けた後、知能が急速に上がり、それによって感情も発達して異性への関心が生まれ、アリス先生に暴力的な愛を告白した時、先生が思わず発した次のセリフによく表れています。「誰があんたなんかのようなバカと・・」(要旨)。このセリフを聞いた時、もしかしたら私たちには潜在的に心のどこかでこれと同じように知的障害者に対して憐れみや蔑みで見下し、それが咄嗟の時に言葉に出てしまうことがあるのかも知れないと思ったのです。映画ではやがて彼女はチャーリーと結ばれることになりましたが、でもそれは「正常者」である彼、いや頭脳明晰になった彼に心を許したのではないだろうか。つまり、基本的には彼女の姿勢に変化はなかったのではないかと思ったのです。そしてこのことはもしかしたら「正常者」の誰でもが深層心理的に内包しているのかも知れないと思う反面、どのようにしたらこのような差別的な認識を解消することができるのか、私の中では結論に至っていません。ただ原作者に送られた少女の手紙に対する作者の気持ちや精神を私も共有できるように努力しなければと思いました。

 一方、作者は日本語版文庫の中でチャーリーの言葉を通して「・・・家庭でも学校でも、共感する心というものを教えるべきだと。我々の子供たちに他人の目で見、感じる心を育むように教え、他人を思いやるように導いてやるべきだと。自分たちの家族や友人ばかりでなく、国、民族、宗教、異なる知能レベルの、あらゆる老若男女の立場に自分をおいてみること・・・」と語っています。私たちは差別や他者を卑下したり、見下してはいけないということを学んできたはずです。しかし実際には差別や他者を卑下したり、見下したりするこのような潜在的心理をどこかで無意識的に身につけてしまっているのです。したがって私たちは、作者の言わんとすることを改めて考えなければならないと痛感させられた映画でした。(もしかしたら昨年流行った「勝ち組、負け組」などの言葉は、意識の奥底に隠された差別意識を呼び起こしたのかも知れません)

(文中、不適切な表現をした個所がありますが、画面上に表れたセリフをそのまま載せたほうがより問題が分かるのではないかと思い、そのまま引用しました)。


受講生の吉田(辰)さんからメールが届きました。(吉田辰-2

 これまでのマリー・キュリーに対する大方の認識は、彼女は偉大で、科学に対して真摯に生きた崇高な科学者として受け止められてきた。私もそうであった。しかし近年(1974年、1975年)、二人の作家によるキュリー伝が出版されたが、この著書はそれまでのキュリー伝とは大いに異なる内容の伝記であるという。その内容はランジュヴァン事件と呼ばれるキュリーの不倫騒動事件が盛り込まれ、新たな視点からの伝記のようであるらしい。これはこれまで彼女に抱いてきた姿を大きく転換するものとなる。また講義で視聴した映画も不倫騒動事件までは触れていなかったが、従来のキュリー伝と違い、等身大のキュリーを描いたものだったと思う。

  私がこの映画を見て一番注目したのは、キュリー夫妻がラジウムの発見のきっかけとなる家政婦とのやりとりの場面である。夫妻は自ら発見したウランが放電することを発表したが、これに対しイギリスから異論がでたことに反論するための実験を繰り返していた。しかし、なかなかうまく行かず苦悩している時、家政婦から「何か悩み事があるの」と問われた。だが夫妻は初めは話そうとはしなかった。しかし家政婦が「私が科学のことを知らないから話しても無駄だと思っているのか」と反論され、夫妻はやむなく話を切り出すが、家政婦の素朴な質問や見解に答えていくうちに重要な手掛かりを見出した。そして自分たちの見解が正しかったことを証明したのである。これによってキュリーはノーベル賞を受賞したが、授賞式で彼女が家政婦に対して感謝の言葉を実際に述べたのかどうか気になった。

  キュリーのこの発見はやがて原爆の開発へと結びつく。これについて川島氏はマリーの言葉を引用しながら批判的と思われる見解を示しているが、これはあまり納得できない。なぜならキュリー夫妻は科学者の本分である自然の法則を研究したにすぎず、この研究の成果をどのように生かすか、という問題とは別だからである。もし、川島氏の言うとおりとするならば、今日もっとも最高の賞であるノーベル賞についても、もう少し言及して欲しかった。言うまでもなくノーベルはダイ�iマイトの成功で巨万の富を得たが、このダイナマイトはのちに戦争で殺傷武器として使用され、多くの命を奪ったのは事実である。つまりある意味、他者の命と引き換えて得た資金であるといえなくも無いのである。

  一方川島氏はジェンダーの面からマリー・キュリーをとらえているが、これは川島氏の指摘の通りだと思う。マリー・キュリーには絶えず「女性初の」という枕詞がついて回ることに違和感を覚える。性差としてとらえることは時として危険である。このような枕詞をつけることはその人の評価とは直接関係ないものとだと思うからである。ただあえて言えば、このような言葉がつくと社会的には注目されやすいことは事実であり、また先駆者としてのイメージにもつながることも確かである。

  今日、私たちの回りには科学の「成果」と言えるのかどうか分からないが、多くの危険が取り巻いていることは事実である。たとえばクローン羊や遺伝子組換え食品、食品添加物の問題、さらには全身中トロのマグロの養殖も成果をあげつつあり、さらにはシベリヤから発見されたマンモスの皮膚からマンモス再生の研究が行われている。こうした科学の研究に対し、我々はどのようにとらえたらいいのか、一人ひとりの判断が迫られている時期に来ているのではないかと思う。単に科学者の問題だと突き放しては済まされない。人間には有用であっても自然界ではどうなのか、真剣に考えなくてはならないだろう。


受講生の吉田(辰)さんからメールが届きました。(吉田辰-1

 マーク・ローランズは彼の著書である「哲学の冒険」の中で、「多くの哲学者は不条理こそ人間存在の特徴の一つであると考えている」といい、彼も不条理は生きている人間の「唯一の決定的特徴」だといっている。確かにこの不条理という言葉を「矛盾」と置き換えてみれば、私たちは日々いかに多くの矛盾の中で生きているか実感する。

 フランケンシュタインはいくつかの不条理と向かい合うことになった。一つは自分の理想から全くかけ離れた「モンスター」をつくりあげたこと、もう一つはもう二度と作らないと決めたモンスターを先に作った男のモンスターの要求に抗しきれず、女性モンスターを作ってしまったことである。その結果、いずれも消滅してしまった。フランケンシュタイン自ら導いてしまった結果であろう。

 では彼は科学者として間違ったことをしたのであろうか。いや、彼は科学者である自分の能力を試そうとしただけである。これは科学者にとって重要な資質の一つである。ただ何のために作り、結果はどうか、またどのように展開していくのか、という哲学的思考が欠落していたため、自らの結果に責任を負いきれなかったのである。

 科学とは常に自己責任下におかれているのである。科学者も社会の一員である以上、自分の行為(研究・開発)が社会にどのような影響を及ぼすか、常に考えなければならないのである。特に現代科学は成果も大きいが、一歩誤れば甚大な被害を与えることもある。私たちもただ科学の恩恵を受けるだけでなく、科学に対して注視していなければならないと思う。