受講生の吉田さんからメールが届きました。(吉田-3

ブレードランナーの感想

 この映画では「死」というものについて考えさせられた。寿命を4年間に設定されたレプリカントたちは、その制限をなくすために地球にやってくる。私自身いつかは死んでしまうし、その点ではレプリカントと同じだけれど、それが「いつ」だとわかっているのといないのとでは捉えかたがまったく違うだろう。死に対する恐怖は、誰しも少しは持っているものだと思う。死んでしまえば、今まで見てきたもの感じたもの全てなくなってしまうからだ。その恐怖を持ちながらも平気でいられるのは、それがいつだと断定されていないからだと思うし、それを常に自覚しているレプリカントと比べれば死というものの考え方も違って当然である。

 自分を造った人間に、感情を持つようになると都合が悪いから、という理由で寿命を制限されてしまうのは、知能を持っているものなら理不尽に思っても仕方ないことである。利用されるために生まれ死んでいく、その過程には利用されたという事実しか残らない。また、資料には「死は生に意味を与えるもの」とあった。しかし、人間のために作り出され死んでいく、その間の生にレプリカントを利用する人間にとっての意味はあっても、レプリカント自身の意味は見出されないと思う。そのため、自分自身の生をすごすために、レプリカントたちは抗っているのだと感じた。

 

鉄腕アトムの感想

 鉄腕アトムの2種類の一話を見て、特に印象的だったのは、アトムを作り出したテンマ博士である。自分の息子の死を乗り越えられず、ロボットを作り自分の息子の身代わりにする。そして自分の思うようにいかないからと、アトムを捨ててしまう。その自己中心的な振る舞いがとても印象に残っている。また、人工知能・感情を持ち、ほとんど人間とも言えるアトムを、成長しないからといって見捨てるテンマ博士は、人間的だとも感じた。本当にアトムを研究の対象であると考えていたら、「体を成長させるには」とまた研究に没頭するだろうが、アトムを自分の息子だと思うからこそ、そのほかの子との異質さに耐え切れなかったのだろうと感じた。

 また、資料を読んで私はロボット研究に対する見方が変わった。それまでは、人工知能を持ったロボットが現れたら、様々な場面で活躍できるだろうと短絡的に考えていたが、資料を読んで、人は自分たちに従順で便利なロボットがほしいのだから、もし人工知能つきのロボットができたらできたで問題がありそうだと考えた。自分で考え判断するロボットができても、それが使用者の意にそぐわない判断であれば不良品だとされ、ロボットのくせにと評される、そんなことが起こりそうだと考えたからだ。もし感情や人工知能を持つロボットができるなら、アニメの中であった、ロボットに権利を持たせるということも考えなければならなくなるだろうと思った。


受講生の吉田さんからメールが届きました。(吉田-2

キュリー夫人の映画の感想

 私は今回キュリー夫人の映画を見るまで、簡単な内容の伝記でしかキュリー夫人について読んだことがなかった。そのため、私の中でのキュリー夫人は、真面目に研究をし、夫であるピエールを支え、育児もこなすという、働く女性の鏡のようなイメージだった。しかし、映画の中でのキュリー夫人は、研究のために祖国のポーランドを離れてフランスへ一人で出てきて、研究室においてもらうために演技までもしていた。もちろん映画の中でのキュリー夫人なので、脚色はされていると思うが、その研究に対する激しい熱意は実際単身フランスに出向いたのだから、彼女も持っていたのだろうと考えるとイメージとの差に驚いた。

 その後の家政婦とのやり取りを見ても、家庭よりもまず研究を優先させていたことから、単なる夫の助手というものではなく、彼女も一人の科学者として研究を行っていたのだと初めて気づいた。そこで、自分の探究心にとらわれがちな科学者の中で、妻として母としての役割も果たしながら科学者として研究を続けた、マリー・キュリーという女性に尊敬に値する人だと考えた。

 そして、その後の科学の発展のために特許をとらなかった夫妻の考えにも関わらず、キュリー夫人は研究で受け続けた放射能のせいで病に倒れ、またその後兵器として使われるようになってしまう。せっかく人生をかけて得た研究結果をそのように使用されてはキュリー夫妻もやりきれないだろうと思う。昔の科学者が残した研究結果は、その後の科学者がよく検討してつかって行くべきだと思った。

 

アルジャーノンに花束をの感想

 私は、この映画を見るまで「アルジャーノンに花束を」という作品を、聞いたことはあってもどういう内容かあまり知らなかった。主人公のチャーリー・ゴードンが知能が低く、脳の手術を受け、訓練を受けることによって、一般人よりも優れた知能を持つようになり、しかしそれは生涯続くものではなく、すぐに知能の低い状態へと戻ってしまう。この過程は程度は違えど、人が人生をかけて経験するものだと考える。生まれてきて、成長とともに知識を身につけ、そして老いとともに忘却していく。この過程をチャーリーは短期間で経験する元になる。しかも知能が高いことから、その自分の状態を冷静に分析していて、その場面が私にはとても痛々しく感じた。ここで私は、科学者の身勝手さをひどいと感じた。チャーリーの担当医であるストラウス博士は、研究の成功を信じるために実験マウスの死をチャーリーには告げていなかった。資料の中の、作者が少女に宛てた返事の中にも「他人に対して思いやりを持つ能力がなければ、そんな能力など空しいものです」と書いてある。まさにそのとおりだと思う。研究をする上で、その研究対象が生きているものである限り、思いやりを持って研究に取り組むべきだと考えた。

 また、チャーリーは「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。…暴力と苦痛にしかつながらないということ」と述べていると資料にあった。このことから私は、人間には知能の探求の前に、愛情や思いやりなどの人とのつながりを築く能力が必要だと考えた。生きていく限り人とのつながりを持たずにはいられないのだから、そういった基本的な感情を、科学者などの人よりも探究心の強い人たちは大切にしていかなければならないのではないかと思った。


受講生の吉田さんからメールが届きました。(吉田-1

 フランケンシュタインは母親を亡くしたことにより、死などあってはならないと考え始めた。しかし、それから始めた研究の目的は、生きている状態を長引かせること、つまり不死の肉体をつくることであって、死んだ人を蘇らせることではなかったはずである。徐々に考えにゆがみができ始め、さらに、死んだ人の体をつなぎ合わせているときには、もうすでに「誰か」を蘇らせたいというわけではなくなっている。このようなゆがみの結果がフランケンシュタインの作り出した怪物なのだと考える。フランケンシュタインにとって怪物を作り出してしまったことは失敗といえるべきことであり、この後フランケンシュタインは怪物を放棄してしまう。その結果によって後に続く悲劇を生んでしまう。フランケンシュタインの過ちは、結果を求めすぎて当初の目的と違えてしまったことと、研究に責任を持ちきれなかったことにあると思う。

 これらと先生が講義でおしゃった核のことから、研究の結果が失敗でも成功でもその段階・結果に伴う責任というものを(それが自分の予想・期待に反したものであっても)、科学者だけでなく何かを生み出す立場の人ならば重く受け止めねばならないのだと感じた。