<書評>大場淳(広島大学高等教育研究開発センター大学論集第33集掲載)

苅谷剛彦著 『階層化日本と教育危機 − 不平等再生産から意欲格差社会へ』

(有信堂高文社,2001年,237頁)

 

 本書を手にする者は、まず書名の「階層化日本」という言葉に興味を覚えることであろう。所得の経年変化の分析等から日本は階級社会になりつつあるという指摘が近年なされるようになっては来ているものの、平成14年の内閣府調査によっても依然として日本国民の9割が中流意識を持つという「一億総中流」という状況は変わらず、その意識は教育においてでも変わらないと思われるからである。

 既存のデータを最大限に活用し、著者は父親の職業や父母の学歴などによって、児童生徒が将来得るであろう学歴や職業が規定されるようになっている、すなわち階層の中で再生産が進んできていると指摘する点は大変興味深い。特に、著者のいう下位層において、意欲まで減退しており、「生きる力」を育むことを目的とする新学習指導要領は既に破綻しているとの指摘は衝撃的でさえある。

 私は、本書を読みつつ、納得させられるところが少なからずあった。例えば、個人の能力等に基づく差異的処遇まで排除する差別概念、日本的な努力主義に隠された不平等、いわゆる一流大学への進学機会の階層差、教育の不平等問題において同和地区とそれ以外を区別するダブルスタンダードなどといった指摘である。一点だけ取り上げれば、著者は差別教育について「差別感という意識を機軸に構成されていたために、社会的カテゴリーにもとづく差異的処遇という視覚が抜け落ちてしまう危険性をはらんでいた。そこには、教育において差別感を生みだす可能性のあるいっさいの差異的処遇を、情緒的に忌避する視座が組み込まれていたのである」(p.84)と述べ、そして「だれにでも同じ処遇を与えることが平等な教育であ」り、「その結果は、皮肉にも、評価基準の一元的な序列化を強化することにつながった」(p.92)と指摘する。日本で習熟度別学習が広がらず、他方で高等学校の総合選抜制度が肯定されてきた理由等を端的に指摘していると言えよう。

 しかしながら、本書の指摘等には疑問点や立論の不十分と思われる点もあり、必ずしも説得力を持たない部分が散見される。気が付いた点を以下に幾つか指摘したい。

 まず第一に、資料の乏しさである。既存の調査結果を活用しつつ、できる限り実証的に諸々の仮説の立証に努めているが、例えば、主として用いられているデータが1979年と1997年にわずかに2県の11高等学校においてなされた調査結果であるように、限定的な資料に基づいていると考えざるを得ない。

 第二に、新学習指導要領に関する著者の基本的な考え方が分かりにくい。著者は「学校は勉学の場から「体験」の場に変わりつつある」(p.139)と指摘するなど体験を重視した教育の批判を繰り返すが、学校が単なる体験の場であってはならないことは常々多くの教育関係者が指摘するところであり、平成13年9月14日の文部科学省初等中等教育局長・生涯学習政策局長通知も体験活動の成果を適切に評価していくことの重要性を指摘している。また、生きる力の教育に関して、「ある程度幅広い共通の基礎知識がなければ、「問題発見」も「自ら考える」こともおぼつかない」(p.140)と指摘するが、著者のいう「ある程度幅広い共通の基礎知識」と新学習指導要領のいう「基礎的・基本的な内容」との違いが見いだせない。著者は基本的には体験重視や「生きる力」を育成するという新学習指導要領の考え方には反対ではなく、実践上の問題指摘をしていると考えて差し支えないように思われる。

 第三に、大学生の学力低下の指摘がいただけない。他の文献等を援用しているが(p.140)、それら中には進学率の拡大の影響を無視し、入学者選抜にかかる大学の責務を自覚せず、いたずらに「学力低下」の責任を中等教育に転換しているだけのものも見受けられ、著者の認識もそれに共通するものがあると思われるからである。「生徒の選択を重視した高校のカリキュラムのため、多くの大学で学生の学力の偏りと低下を問題視する声が高まっている」という指摘についても、大学が入試科目を削減・多様化し、入試と大学教育のミスマッチが生じた結果でもあることへの認識が乏しい。

 第四に、成績の低下や学習意欲の低下(学習時間の減少等)の分析の枠組みの狭さである。様々なデータを駆使して、学習指導要領の改訂と成績等の低下の関連性を指摘するが、両者の因果関係を立証するまでには至っていない。成績等低下の他の要因としては、「豊かな社会」の関連性を否定しているにとどまっており、分析に重要と思われる学校や教員、保護者(学歴や職種だけではない)、地域の変化などには言及していないのは決定的に説得力を欠いていると言わざるを得ない。例えば、教育において、いじめや校内暴力、教師のサラリーマン化、家庭・地域の教育力の減退などが盛んに指摘され、また、社会全体としても国際化や情報化など大きな変化が生じていることなどに鑑みて、容易に比較できないことは想像に難くない。著者が「受験競争が維持してきた、個人の外側にあって、やる気を引き起こす誘因、すなわちインセンティブを見えにくくし・・・個人の外側にあるインセンティブがみえにくくなった分、全体としての学習意欲の低下が進行している」(p.218)と指摘し、「教育の世界から学力競争を排除し、興味や関心を機軸に学習意欲を高めようとしてきた教育改革は、思わぬところで、インセンティブ・ディバイドという問題を生みだしてしまった」(p.220)と結論付けているのは、短絡的に過ぎないか。更に「高校段階での学習時間や学習意欲の階層差の拡大には、高校以前の段階での「ゆるみ」への対処の違いが背景にあると考えられる」(p.226)と断定的に述べているが、その理由については推論を展開するにとどまっており十分に立証できていない。

 第五に、著者のいう下位層の子供たちが「降りる(学校での成功をあきらめ、現在の生活を楽しもうと意識の転換をはかる)」ことによって自己の有能感が高まると指摘するが(p.219-220)、下位層が「降りた」のではなく、大学が入学定員割れが始まって選びさえしなければどこかの大学には入れる状況で、更に著者の指摘するように、大学卒業後も将来が保証されないことが明らかになっている以上、上級学校をめざした学習への動機付けが弱くなっただけではないか、あるいは他の要因に支配されているのではないかとの疑問は消しきれない。

 第六に、学歴の重要性の認識である。著者は「教育を通じてつくられ、学歴という資源として承認される教育の不平等は、職業的地位や所得といった教育終了後の不平等へと変換される度合いが依然として強い」(p.221)と述べるが、第4章で「学歴がなければ不利になるかもしれないが、あったところで将来が保証されるわけではない。そこまで学歴の価値が変質・低下した」(p.132)とも述べており、学歴の効用等について整理が必要なように感じられる。

 第七に、受験競争について、著者は「実態レベルでは受験競争に変化がみられても、人びとの認識は簡単には変わらない」と述べ、「一九九〇年代の後半にいたっても依然として「過度な受験競争」がゆとりを失わせているという認識(『中央教育審議会第一次答申』一九九六年)が語られ続けていることは、それを例証している」と続けるが、当該認識は本当に変わっていないのだろうか。引用する中教審第一次答申は、通塾率の上昇(昭和51年から平成5年にかけて、小学生、中学生についてそれぞれ12%から24%、38%から60%に上昇)をとらえて受験競争の弊害などを指摘している。しかし、翌年の第二次答申では、「少子化が進む中で、長期的に見ると、大学や高等学校の全体の収容力という意味で総じて緩和される」と述べた後、「とりわけ、特定の大学・高等学校をめぐる受験競争は依然として厳しく」と、より限定的なものへとトーンが変わってきている。また、通塾率についても、平成6年度に始まった文部(科学)省の「子どもの学習費調査」によれば、平成10年度までは概ね通塾率は減少するなど(平成12年度は中高で増加)、意識の変化を読み取れるのではないだろうか。

 第八に、第四の指摘とも関係するが、学校教育上の大きな問題である心の問題、すなわちいじめや不登校、校内暴力、薬物といった諸問題を著者は取り上げていないが、こうした視点を欠いた分析が、どれだけ有効性を持つかは疑問なしとはしない。

 本書の最後に著者は、教育によって階層間の平等を実現することは困難であると述べつつも、不平等の拡大を防ぎ縮小するための諸方策を提言している。著者が新学習指導要領がめざす方向には基本的に賛成だからであろうか、提案は現在の教育改革の方向と差ほど違わないのではとの印象を与える。

 例えば、個別学習や習熟度別学習といった試みを容認する学習環境の創設のため、授業理解度の難しい教科について習熟度別の学習集団を理解の難しい子どもほど少人数になる工夫を取り入れて実施することを提案する(p.227)。平成12年5月に出された教職員配置の在り方等に関する調査研究協力者会議報告は、学年や教科の特性に応じた少人数による学習集団を設定しての授業が可能となるような制度改正を提言し、関係法令の改正がなされ、更に自治体独自の努力も加わって、著者の提案する方向での学習集団編成が可能となっている。また、平成14年1月に文部科学省から出された「学びのすすめ」においても「少人数授業・習熟度別指導など、個に応じたきめ細かな指導の実施を推進」が求められている(なお、著者の言う「個別学習」の意味は判然としないが、「個に応じたきめ細かな指導」の考えに近いのではないか)。

 また、「その後の学習の基礎となるミニマム・スタンダードとしての学力が、できるだけ多くの子どもたちに、しっかりと身に付くようにする」と述べる点については、学ぶべき個別具体的な内容は別として、新学習指導要領の「基礎的・基本的な内容の確実な定着」の精神との違いを見いだせない。また、「学習の成果よりも、授業の「楽しさ」や子どもの興味・関心を優先させる試みとは違うのである」と違いを強調するが、政策上の問題ではなく、実践上の課題を指摘したものと解釈したい。

 次に、「教師以外の学習支援者を学校の内外に配置する」(p.227)という提案も、文部科学省の「学校いきいきプラン」など様々な形で推進されている施策の中で取り組むことが可能である。更に、「進度の速い子どもにも、その学習ニーズに見合う教育機会を提供する」(p.228)という提案についても、「学びのすすめ」は「学習指導要領の内容を十分理解している児童生徒に対しては、学習指導要領の内容のみにとどまらず、理解をより深めるなどの発展的な学習に取り組ませ、さらに力を伸ばしていくことが求められます」と述べられており、共通性が見いだされる。

 更に労働政策の提案に続くが、専門教育等の機会の確保や資金の貸与、職業訓練プログラムの開発などいずれも、実現度の程度の差はあれ、厚生労働省の施策や課題認識に見いだすことのできるものばかりである。

 最後の大学院教育に関する提案については、これまでの大学改革の中で全て述べられており、目新しいものは特にない。例えば、専門教育の中心を大学院レベルに移しつつ大学院教育の拡充をはかるという提案について言えば、国立主要大学では定員が大幅に拡充されるなどこの拡大傾向は現在も進行しているし、専門性の高い職業訓練は修士レベルで行うという提案についても、平成10年の大学審議会答申で高度専門職業人の養成に特化した教育を行う大学院修士課程設置促進が具体的分野をあげて求められているところでもある。また、教員における修士課程の積極的活用(平成10年10月教育職員養成審議会第二次答申)、臨床心理士の資格創設とそのスクールカウンセラー等への活用、ビジネス・スクールやロー・スクールの設置・検討状況をみても、既定の方向であるといえるであろう。他方、著者の主張する入学者選抜の重点を18歳の時点から21歳の時点にシフトすることが、実際にそうなりつつあるものの、諸問題の解決に大きく寄与するかは疑問である。著者は、「目的意識を持った人びとの自己責任にもとづく競争への参加が促され、・・・そこでどれだけ厳しい選抜が行われたとしても、競争の参加者は二二歳以上の成人であり、自らの意志と意欲を鮮明にした個人である。学歴社会が受験競争を生み出し、教育をゆがめるという問題は、ここには存在しない」(p.232-233)と断定するが、大学院が拡大する中モラトリアム大学院生(学部卒業段階で就職先の選択ができなかったり、就職ができなかったりして大学院に入学した者)が増えているのに鑑みれば、余りにも楽観的に過ぎないだろうか。