年譜

1885年(明治18) (満)0歳

4月18日、広島県甲奴郡上下町に、岡田胖十郎(はんじゅうろう)・美那(みな)夫妻の長女として出生。戸籍名はミチヨ。父は、県会議員、町長等を務め、備後銀行創設者でもある有力者で、両親ともにクリスチャン。長兄・實麿(じつまろ)、次兄・束稲(つかね)、弟・三米(さんべい)、妹・萬壽代(ますよ)。兄・實麿は、後年、神戸高等商業学校、第一高等学校、明治大学等で教鞭をとる著名な英文学者。

1891年(明治24)6歳

上下尋常小学校入学。

1898年(明治31)13歳

上下高等小学校卒業。
9月 神戸女学院に入学(予科2年、本科3年)。
神戸高等商業学校教授であった兄・實麿の奥平野の家に住まう。
このとき、国木田独歩の元・妻で、後に有島武郎「或る女」のモデルとなった年長の佐々城信子が同時期に神戸女学院に入学し、美知代は邂逅している。

1901年(明治34) 16歳

神戸教会で洗礼を受ける。

1902年(明治35) 17歳

博文館の雑誌『中学世界』に和歌や短文の投稿を始める。

1903年(明治36) 18歳

  7月 本科3年生。花袋に入門志願の手紙を送る。
10月 花袋、美知代の入門を許可。
12月 花袋から上京の許可が届く。花袋に手編みのシャツを郵送。

1904年(明治37) 19歳

  2月 神戸女学院を中退し、父胖十郎に伴われて上京。牛込区若松町の花袋宅に住まう。
  3月 花袋の妻りさ(里さ・利佐子)の姉・浅井かくの家に転居。(麹町区土手三番町)
    花袋、日露戦争に記者として従軍。
  4月 女子英学塾(現・津田塾大学)予科に入学。
 夏  夏休みで一時上下に帰省。
  8月 仙酔島で避暑。
  9月 花袋、帰国。美知代、上京。
10月 京都同志社で開催された日本組合教会信徒大会において、中山三郎が永代静雄に、花袋門下に岡田美知代がいることを話す。
    永代は、1886年(明治19)兵庫県吉川町の生まれで、当時は同志社普通校に在学中で、神戸教会に受洗入会していた。

1905年(明治38) 20歳

  2月 花袋、『大日本地誌』の調査で京阪地方へ行き、神戸で美知代の兄・實麿に会う。
    美知代、雑誌『女子文壇』に投稿を始める。
  4月末 病気がちのために、上下へ一時帰郷。
  5月 京都の永代静雄から、百合の花の絵はがきが届く。
  6月 花袋の世話で丸善から『ツルゲーネフ全集』を購入。花袋、牛込区北山伏町に転居。
  7月 縁談があり、母とともに西須磨の辰馬の別荘に滞在。関西学院で行われたYMCAの夏期学校(7月20~26日)に永代静雄にハガキで誘われて
    参加し、永代と対面。神戸の兄・實麿宅に滞在。
  9月 上京途中、永代と京都で落ち合い、膳所などを遊覧。上京後に、京都逗留したことが花袋と実家に発覚。
10月 永代静雄が上京。花袋、美知代を再び自宅に同居させる。
11月 花袋、父胖十郎に美知代と永代の一件を報告し、善後策を相談。

1906年(明治39)21歳

  1月18日 美知代、上京した父に連れられて上下町へ帰る。
  3月 花袋、『文章世界』を創刊。美知代、同誌に「栞女史」名で「戦死長屋」を発表。
  4月 永代静雄、早稲田大学予科に入学。
10月 花袋、山陰旅行の途上で、上下町の岡田家に2日滞在する。(→花袋、後に「備後の山中」)
*この年は、『新声』『文庫』『新潮』『実業之横浜』『文藝倶楽部』などに精力的に作品を投稿して、掲載される。各地の若い文学愛好者との交流も盛んに行う。

1907年(明治40) 22歳

  9月 花袋、『新小説』に「蒲団」を発表。美知代はスキャンダルの渦中に。
    美知代、「蒲団」発表後の心境を描いた小説「小夜子」の原稿を博文館の花袋宛に送るが、花袋の手によって雑誌掲載されることなく、
    返送された。
    兄・實麿、朝日新聞社に入社した夏目漱石の後任として、第一高等学校に転任。
10月 美知代、「横山よし子」名で「『蒲団』について」(新声)を発表。
*この年も、精力的に作品投稿をしていたが、「蒲団」発表後は投稿が途絶える。

1908年(明治41) 23歳

  2月 静雄、須磨子の名でルイス・キャロル『不思議の国のアリス』の翻訳「アリス物語」を連載開始(~翌年3月、『少女の友』)。
    静雄は、この頃、旅行新聞社に勤務か。
  4月 美知代、再上京し、白山御殿町にあった兄・實麿の家に住む。
    短篇小説「侮辱」が『女子文壇』「文壇の花」特集号で最優秀の天賞を受賞。
  6月 国木田独歩、結核で死去。
  9月 妊娠し、実麿の家を出て、九十九里浜に隠れ住む。(千葉県長生郡本納)
10月 花袋、「妻」連載(~翌年2月、新聞『日本』)
12月 美知代、牛込区原町に、静雄・中山三郎と三人で同居。

1909年(明治42) 24歳

  1月  1日 静雄、『東京毎日新聞』に入社。(実際には前年末の入社)
  1月14日 美知代、戸籍上は田山家の養女の形をとって、静雄と結婚。披露の通知状を出す。
  3月20日 長女・千鶴子を出産。
 春 静雄、『中央新聞』に移籍。(恵美光山が文芸部長で、5月下旬の紙面刷新により大量入社した。7月には、若山牧水が『中央新聞』に入社)。
  5月 美知代、以後は、「永代美知代」名で作品を発表し始める。
  7月 美知代、初めての少女小説「まあちゃんの御看病」(『少女世界』)を発表。
11月 静雄と別れ、千鶴子を連れて田山家に戻る。4月から花袋の内弟子となっていた水野仙子(服部貞子)と代々木初台の家で同居生活を始める。
12月20日頃 静雄、『中央新聞』を辞職(小野瀬一派が一斉に辞職。牧水も同時期に辞職)
*少女小説を始めたほか、静雄が勤務する『中央新聞』に無署名で小説「老嬢の告白」「女子大学英文科出身 新夫人の打明話」を連載した。

1910年(明治43) 25歳

  1月 美知代の長女・千鶴子、花袋の妻りさの兄・太田玉茗の養女として入籍。
  2月 千鶴子を連れ、仙子と、仙子の故郷福島県の飯坂温泉で1カ月滞在。
  3月 仙子とともに、太田玉茗が住職の建福寺(埼玉県羽生)に1カ月滞在し、千鶴子を置いて帰京。
    花袋、美知代と静雄をモデルにした小説「縁」を『毎日電報』に連載(~8月)
  4月20日 美知代、代々木初台の家を出奔。静雄が美知代の荷物を引き取りに現れる。
    『富山日報』の記者となった静雄と共に富山へ移住(富山市山王町33番地)。
  6月  6日  静雄『富山日報』に「入社の辞」を掲載。(主筆は、恵美孝三(光山))
  9月 美知代、「ある女の手紙」を『スバル』に発表し、花袋を諷する。
10月 美知代、「里子」を『スバル』に発表。
12月 美知代、『中央公論』に「一銭銅貨」を、『ホトトギス』に「岡澤の家」を発表。
*著名雑誌に作品を発表するとともに、静雄が勤務する『富山日報』にも小品やエッセイ、童話などを寄稿した。

1911年(明治44) 26歳

  3月  5日 長男・太刀男を出産。
  4月22日 主筆の恵美孝三、『富山日報』に「退社の辞」を掲載。静雄も同時期に退社したものと思われる。
  5月ごろ  静雄、4月に創刊された大阪の『帝国新聞』に、主筆の恵美孝三とともに入社。
  6月17日 平塚らいてうが、『青鞜』の賛助員の依頼のために出した美知代宛の手紙が居所不明で返送される。
      (『青鞜』は9月に創刊され、水野仙子も入社した)。
  6月30日 長女・千鶴子、脳膜炎のため、羽生で死去。
  7月 傷心の美知代・静雄夫妻は、大分県別府で静養。
12月ごろか 美知代、静雄とともに大分より上京。
*4月『ホトトギス』に「清のぐるり」を発表したほか、創作の中心が少女小説におかれる。

1912年(明治45・大正元) 27歳

  1月3日 永代一家、花袋宅を年賀訪問。
  9月頃 静雄、カリフォルニアに旅行(美知代宛に、サンディエゴから絵葉書を送付)
     このころ、静雄、永代、『東京毎夕新聞』に入社(社会部長)。
12月 静雄、『アリス物語』を刊行(紅葉堂書店)。
*美知代、このころ神近市子と親しむ。
*『少女世界』を中心に、『少女界』『少女』『家庭パック』などに少女小説や童話を発表。

1913年(大正2) 28歳

*多数の少女小説を執筆するほか、『婦人評論』に「同窓の人々」などの小説を発表。

1914年(大正3) 29歳

6月 『新小説』に「蛙鳴く声」を発表。
*この年も『ニコニコ』などに発表誌を広げて、多数の少女小説や童話、エッセイなどを掲載。

1915年(大正4) 30歳

3月 夫婦仲はよくなく、離婚の噂が新聞に報じられる。(読売新聞3月29日「閨秀作家破鏡の嘆 芸術に生きんとする美知代女史」)
9月 花袋が「備後の山中」を発表したことを契機に、美知代、『新潮』に「『蒲団』、『縁』及び私」を発表し、花袋を強く批判する。
*数編の少女小説のほか、『女の世界』に小説やエッセイ、12月から翌年1月にかけて『希望』に小説「秋立つ頃」を発表。また、中山三郎の証言によれば、牧野元次郎の著作の代作を行った。

1916年(大正5) 31歳

*多数の少女小説や児童小説のほか、『婦女新聞』に不定期に短編小説を掲載。

1917年(大正6) 32歳

  2月27日 養母・里さと協議離縁し、上下町の岡田胖十郎の籍に入籍。
  3月19日 美知代、静雄の戸籍に入籍(兵庫県北谷村の東林寺)。このころの住所は、東京市麻布区六本木町33
  6月 単著『ケーザル』を刊行。
11月 古今東西の花をめぐる短編集『花ものがたり』(科外教育叢書刊行会)を刊行。
*11月~翌年3月にかけて、『少女世界』に冒険小説「少女島」を連載。

1918年(大正7) 33歳

*2月に『世界の三聖』を刊行したほか、『少女世界』を中心に数本の少女小説やエッセイを発表。

1919年(大正8) 34歳

このころ、静雄の部下・吉川英治が自宅に出入りした。
*童話や少女小説を発表。

1920年(大正9) 35歳

  9月 静雄、毎夕新聞を退社。
10月 静雄、新聞及び新聞記者社を成立し(翌年、新聞研究所と改称)、『新聞及び新聞記者』の発行開始。
(読売新聞10月19日「よみうり抄 ▲永代静雄氏「東京毎夕」新聞編輯局長を辞し、来る廿一日市内小石川町九一其社から月刊雑誌「新聞及新聞記者」を創刊するといふ」)

1923年(大正12) 38歳

12月 ストウ夫人「アンクルトムズケビン」の完訳としての日本初訳『奴隷トム』を誠文堂から出版。

1924年(大正13) 39歳

5月 ミューラック夫人「ジョンハリファックス」の翻訳書『愛と真実』を出版。

1926年(大正15・昭和元) 41歳

静雄と別れ、太刀男をつれて、『主婦の友』特派記者としてアメリカに渡る。
アメリカでは、カリフォルニア州ロサンゼルスで日系人対象の葬祭業で成功した従姉妹の福井千恵を頼った。
現地では日本語を教えるほか、書くことも続けていたらしいが、詳細不明(原博己によれば、美知代がアメリカから持ち帰った箱一杯の原稿があった)。
時期不詳だが、美知代、アメリカで佐賀県出身の花田小太郎と再婚。

1927年(昭和2) 42歳

太刀男、結核のため、単身帰国して、静雄に引き取られる。
静雄、大河内ひでと再婚。

1930年(昭和5) 45歳

  5月13日 田山花袋、喉頭ガンのため60歳で死去。
11月  1日 読売新聞付録に永代太刀男の童話「象の鼻」が掲載される。

1932年(昭和7) 47歳

5月10日 太刀男、死去(数え22歳)。

1935年(昭和10) 50歳

静雄、伝書鳩の普及雑誌『普鳩』創刊

1941年(昭和16) 56歳

3月 美知代、花田とともに帰国。すでに、父・胖十郎は1933年に、母・ミナは1938年に没していた。
7~8月 広島市内の親族・岡田六一方へ。その後、広島市観音町の借家に住む。

1942年(昭和17) 57歳

5月 妹・万寿代の嫁ぎ先であった八谷(やたがい)正義宅に住む。(広島県庄原市川北町)

1943年(昭和18) 58歳

八谷家の別邸に移居(庄原市川北町大神宮境内)。
8月 兄・實麿、死去。

1944年(昭和19) 59歳

8月10日 永代静雄、死去(58歳)。
美知代、静雄の戸籍から除籍。

1945年(昭和20) 60歳

8月 敗戦。
戦後の一時期、川北小学校の一室を借りて、近隣の子どもたちに英語を教授。
アメリカ在住の従姉妹・福井千恵からコーヒーや缶詰などの小包が定期的に送付された。

1957年(昭和32) 72歳

11月 花田小太郎、死去。
晩年の美知代は英語の練習に励み、このころから原博己が美知代宅を訪問して、英語を習い始める。 
この年、田山花袋研究者の岩永胖(東京学芸大学)が美知代と手紙のやりとりを開始し、同年から翌年にかけて頻繁に美知代を訪問して聞き取りを行った。

1958年(昭和33) 73歳

岩永の来訪を契機に、このころ、生前未発表小説「国木田独歩のお信さん」「デツカンシヨ」などを執筆するとともに、過去に発表した自作の修正を行う。
花袋の「蒲団」に関わる2つの手記を雑誌に発表する。
 ・「手記 花袋の「蒲団」と私」(『婦人朝日』7月1日)
 ・「手記 私は「蒲団」のモデルだった」(『みどり』10月1日)

1968年(昭和43) 83歳

1月19日 老衰のため、死去。

2003年(平成15)

美知代の生家を上下町が取得し、上下町歴史文化資料館として一般公開。
(2004年、府中市との合併により、府中市上下歴史文化資料館と改称)。

●敬称は省略した。

●〔主な参考文献〕

  • 小林一郎『田山花袋研究』(桜楓社、1976~1984年)
  • 原博巳『晩年の岡田美知代─田山花袋『蒲団』モデル』(木精社、1992年)
  • 『田山花袋記念館研究叢書第二巻 『蒲団』をめぐる書簡集』(館林市、1993年)
  • 大西小生『「アリス物語」「黒姫物語」とその周辺』(ネガ!スタジオ、2007年)
  • 吉川豊子「永代美知代」/守本祐子「略年譜」(吉川豊子編『新編 日本女性文学全集』第3巻、菁柿堂、2011年)
  • 企画展パンフレット『岡田美知代と未発表作品─資料館収蔵原稿より』(府中市上下歴史文化資料館、2011年)
  • 大西小生「永代静雄略年譜」(『ミッシュマッシュ』18号、2016年11月)

●原博巳氏、守本祐子氏、大西小生氏から、私信や口頭でもご教示いただきました。
 記して、感謝申し上げます。

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